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次席家老罷免の報に城中が騒然とする中、重臣たちへの説明を終えた右近は、未だ体調が悪いことを理由に早々と下城した。
上席家老・溝口主膳には、すでに吟味役を退きたい旨を伝え内諾を得ている。主膳は右近のこれまでの働きをたたえ、湯治に出かけるもよし、当分はゆるりと骨休みをするようにと、二つ返事で右近の希望を聞き入れた。
八ッ(午後二時)を回った頃、右近は大手門を出て堀沿いの道を家路についていた。今朝はまだ身体の芯がだるく、駕篭に乗って登城したが、無事吟味役としての最後の勤めをおえ、肩の荷が降りたのだろう。久しぶりに少し歩いてみようという気になった。
重陽の節句はとうに終わり、錦に染まった武家屋敷の楓や並木道の銀杏も、すでに一部は散り始めている。めっきり冷たくなった秋風に吹かれ、落ち葉がかさかさと足下を舞った。
武家屋敷の町並みを、ゆっくり東へ向かっていると、荷をかついだ薬売りが小走りに右近を追い越した。
つい先程まで、背後に人の気配など感じなかった。行商人にしては身体の動きに隙がなさすぎる。不審に思った右近は、立ち止まると左手を刀の柄にかけた。
微かな音を聞きつけたか、行商の男は数歩先へ行ったところで歩みを止めた。手拭いで頬かむりした顔が、肩ごしにちらりと右近を振り返った。
「…何奴」
ゆるりと鯉口を切りながら、右近が誰何した。
「…名乗るほどの者ではございません。内藤帯刀様にご贔屓にしていただいている生薬屋…とでも申しておきましょうか」
「もってまわったいい方はよせ。私に何用か?」
行商の男は片頬を歪めて不敵に笑った。
「…いえね、内藤様のお屋敷には昼過ぎから役人がでばって、突然御門を竹で閉ざしたり、大層な騒ぎになっておりますが…」
「当然だ。藩金流用の罪で閉門になったのだからな」
ぴしりと言い捨てた右近に、男は猫撫で声で囁いた。
「…櫻田様に内密のお話があるそうです」
「なんと…。罪人の分際で、吟味役の私を屋敷に呼びつけようというのか?」
内藤帯刀が右近に何を言いたいのか、聞かずともわかっている。
「人の出入りは禁じられておりますが、勘定吟味役なれば、役目柄と称してこっそりお会いになることもできましょう」
「こちらには会わねばならぬ理由などない」
「左様でござりましょうか…」
男はなめるような視線を右近に向けた。
「おいでいただけねば、明日にも城下に読売(瓦版のこと)が出ますぞ?」
右近は息を飲んだ。
不正の捜査を進めれば、二十歳を過ぎた右近が若殿・惣一郎の伽をしていたことを、城下で吹聴すると脅されていた。右近は唇をかんだが、もはや心は決まっている。傲然と頭を上げていい放った。
「…勝手になさるがよい。左様なことは、とうの昔に覚悟したと伝えよ」
「ほう…よろしいのでございますか? では刷り上がったら、まっさきに溝口様のお屋敷へお届けいたしましょう…」
右近の眦がつり上がった。目に怒りをたぎらせて相手を睨みつけたが、男は酷薄そうな唇に薄笑いを浮かべ、右近の反応を面白がるばかりだ。
「…おお、そういえば、誠之進様は三郎ぎみべったりで、お屋敷へは滅多にお戻りにならぬとか。西の丸へ直にお届けしたほうがよろしゅうございますな…」
「おのれ…っ」
まことに覚悟を決めていたつもりだった。だが、最後の最後で右近の気持ちがくじけた。惣一郎と自分のことを、興味本位で書き立てた読売など、誠之進の目に触れたら…。
悪あがきとはわかっていたが、右近は万にひとつ、内藤を翻意させる手はないものかと迷い始めた、
「…ならば一度だけ会って、内藤殿の言い訳、とくと聞いてやろうではないか」
「…話がおわかりになるようで…安堵いたしました」
男はちいさく鼻で笑った。
「では五ッ半頃(午後九時)お迎えにあがります」
男は右近の耳もとにささやくと、わざとらしく荷を担ぎ直し、早足で元来た道を引き返していった。
*
約束の刻限、右近は屋敷の者の目につかぬよう、勝手口から外へ出て、迎えが来るのを待っていた。
闇の中、軽い足音と提灯の灯りが、右近のほうへと近付いてきた。
ほどなく一丁の駕篭が右近の視界に入った。
「今度は駕篭かきか…次から次へと忙しいことだな」
右近の皮肉をさらりと聞き流し、昼間の男はすだれをめくった。
右近は自室に孫作宛の書き置きを残していた。
『ゆえあって、これから内藤帯刀の屋敷を訪なうが、もし明朝になっても戻らぬ時は、溝口主膳様と目付に報告せよ』と。
(済まぬ…孫作。私に万が一のことあらば、母上を…たのむ)
右近は胸の中で忠義な老僕に詫びると、無言で駕篭に乗り込んだ。右近を乗せた駕篭は、漆黒の闇の中を一路内藤邸へと向かった。
*
内藤邸の表門は竹で閉ざされ、警護の侍が二人、いかめしい顔付きで門前に立っていた。右近をのせた駕篭は表門を通り過ぎ、裏の勝手口へと回った。
「着きましたぜ」
駕篭かきに化けた帯刀の忍びに促され、右近は駕篭を降り立った。商人や使用人が出入りする勝手口にも、本来見張りが立つはずだが、今宵は案の定誰もいない。おおかた、袖の下でも掴まされたか、夜は冷えるからと台所で酒でもふるまわれているのだろう。
(閉門初日からこの有様では…先が思いやられるな)
右近は溜息を洩らしたが、今はそれどころではない。胸底の泡立ちをひた隠し、右近は忍びの後について、庭づたいに屋敷の奥へと進んだ。
*
時刻はもう四ッに近いだろう。屋敷の中からは話し声ひとつ聞こえず。ひっそりと静まり返っていた。
帯刀自慢の錦鯉の池や築山を通り過ぎると、離れの庭付き書院から洩れる灯りが見えた。
「内藤様はあちらでお待ちです…どうぞごゆるりと」
忍びは短く告げると、右近が言葉をかける間もなく、ふたたび夜の闇に消えていった。
我知らず、右近の喉が鳴る。
内藤は本当に話をするために右近を呼んだのか? それとも書院に入るなり、手練が潜んでいて右近をばっさり…という手はずかもしれない。
この後に及んで命が惜しいとは笑止だが、右近は万一に備えてゆっくりと鯉口を切りながら、書院に向かって一歩一歩近付いた。
「玄海か?」
室内からかかった誰何の声に、
「櫻田右近にござります」
右近は押し殺した声音で応じた。
「…よう参った。入れ」
障子戸の内側から、帯刀の野太い声音が聞こえた。
つづく
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