二十二の巻「雌伏」3
by 戸田采女


 次席家老を罷免され閉門の沙汰が下ったにも拘らず、軽く脇息に肘をあずけた帯刀は、さばさばした表情で右近を迎えた。

 入室し、襖をたてた右近は、
「お話…承りにまいりましたが」
軽く頭をさげながら、すばやく室内の様子をうかがった。とりあえず書院の中と次の間に人の潜んでいる気配はない。

「夜分、足労であった」
罷免になっても相変わらず尊大な男よ、右近は内心苦笑した。
帯刀は脇息にもたれたまま、扇を取り出して弄びはじめた。

「そなた…月見の夜、玉木屋で儂が申したこと、よもや忘れてはおるまいな」(「乱蝶」3
「はて…何のお話でござりましたか…」
右近は白々しく小首をかしげてみせた。
帯刀は軽く鼻を鳴らすと、
「どうせ田村の残した記録など、取るにたらぬ証拠と侮って捨ておいていたが…。斯様なものが決め手になったとは…此度はそなたと主膳に一本とられたな」

 本来ならば切腹申し付けられていたところだ。余裕を見せる帯刀の言葉は虚勢なのか、それとも頭抜けたしたたかさゆえか。

「あなた様は、その…取るに足らぬ証拠のために、田村を亡き者にされたのですか」
「生意気にも儂を脅そうとしたからよ。身の程を知らぬ奴め」
「…恐ろしいお方にござりますな」
「そなたも心しておけ…」
右近は無言で睫を伏せた。

 下っ端役人の田村は博打に負けて、藩庫の金を五十両ほど使い込んだ。それを上司の奉行に見とがめられ、より大きな不正の片棒を担がされた。結局、利用するだけされて捨てられた哀れな男だった。

「…ところで右近」
次は何かと身構えた右近に、
「花心亭はのぞいてみたのか?」
帯刀は片眉を上げて唇の端で笑った。

 右近は一瞬にして頬をこわばらせた。言下に否定できねば認めたも同然だ。帯刀は立ち上がると、下座に控える右近の前へと歩み寄り、片膝をついた。うつむいた睫のかすかな震えまで、この距離では隠しようもない。帯刀は押し黙る右近を前に、寒気がするほど優しい声音で言った。

「その様子だと、己の目で確かめたのだな。今度こそ誠之進には愛想が尽きただろう? 守役の分際で若君に手を出し、別邸に連れ出しては…」
「やめろ!」
「玄海(忍び)の話によれば、三郎ぎみも覚えがはやく、誠之進の腕の中ではしたなくも善がり泣いておるとか…。木の芽どきの若君に斯様な遊びを教えるとは…誠之進も罪な男よのう」

 耳を覆いたくなる言葉に、右近は奥歯をかみしめた。茶室で絡み合う二人の姿態が、右近の脳裡に鮮烈に蘇った。

 三郎を責める誠之進の強靭な腰、ゆるやかにうねる背中。肌を桜色に上気させ、突き上げられるたびに洩れる、三郎の甘く掠れた声…。

 右近の動悸は乱れ、気が付けば、情けないことに肩で息をしていた。

 帯刀は手にした扇の端で、右近の顎を軽く持ち上げた。帯刀の浅黒くひきしまった顔が間近に迫る。

「男同士とはそれほどに良きものか?…のう、右近?」
帯刀は腹の奥底から陰湿な笑いを響かせた。
「そなた…一度儂に指南してくれぬか?」

 右近は相手の挑発をひたすら黙殺した。

 眉ひとつ動かさず、あくまで頑なな右近に、
「…相変わらず、つれないのう」
帯刀は小さく鼻で笑った。
反応なしと見るや、扇で右近の頬を軽く叩き、さっさと立ち上がって上座へ戻った。

 帯刀は脇息の傍らに端座すると、容(かたち)を改め、真正面から右近を見据えた。
「そなた…吟味役を辞したそうだが、これから如何するつもりだ」
「…殿や御家老のお許しが出ましたゆえ、ゆるりと湯治にでも参ろうかと…」
「左様か」
右近は無言で頷き返した。

 「実はな。江戸に…知らせておいた」
「は?」
「なに、南蛮の美しい瑠璃杯が手に入ったゆえ、数日前に惣一郎様にお送りしたのじゃ。その時、書状を添えておいた。櫻田右近の役目もこの秋で一段落。かくなる上は江戸に呼び戻されては如何かと」
「なんですと…?」
「幕閣で相良候(田沼意次)の権勢がいや増す昨今、相良候と知遇を得たそなたが江戸におれば、わが藩にとっても何かと便利ではありませぬか、とな」

 呆気にとられた右近は、まじまじと帯刀を見つめ返した。
「どういう…おつもりにござりますか」
「申したであろう、儂はそなたが気に入っておると」
「戯れ言はおやめ下さりませ」
「そなた程の者が、なにも国許で誠之進の引き立て役に甘んじることはない。岩田善次郎などはどうせ『つなぎ』じゃ。惣一郎様もいずれはそなたを留守居役にと仰っていたのであろう?」
「そんなお話もかつてはございましたが…」
小さく首を振る右近に、
「また惣一郎様にかわいがってもらえ…。そなたは生涯江戸におるがよい。そなたの諫言に耳も貸さず、若い三郎ぎみの色香に迷った誠之進など、もはや後押しする意味はなかろう…」

(なるほどそういうことか…)

 帯刀の腹は大体読めた。要は誠之進の味方をひとりずつ切り離し、孤立させるつもりなのだ。その手始めにまず、右近を江戸へ追いやる。

「此度は主膳に勝ちを譲ったが、なに、切腹を免れれば首尾は上々よ。まったくもって今年の凶作のおかげじゃ。天は儂に味方したな…。これで島崎屋の千石船は晴れて御用船となり、藩に莫大な運上金をもたらしてくれるだろう」

(ぬけぬけと良く言う…)

 あまりの図々しさに右近は返す言葉もなかった。
たたみかけるように帯刀は続ける。
「…いずれにせよ、儂は『切り札』を握っておるからのう」
「…誠之進と…三郎ぎみのことでござりますか?」
右近は声の震えを懸命に押さえた。
「斯様な話が切り札とは…笑止」

 帯刀は片頬で意味ありげに笑うと、
「…まあ見ておれ。鯨のような尾ひれをつけて、皆が仰天するような醜聞に仕立ててやるわ‥」
「な…、何を申されるか?! 横領で閉門になったあなた様の言葉など、だれも信じませぬ!」
「右近…何ゆえそこまで誠之進をかばう?」
「そ、それは…!」

 「…惚れておったのか?」

 右近は凍りついたように一言も発しなかった。

 「そなた…誠之進を…」

 「くだらぬことを…。勝手な推測で物を言われては、誠之進も私も迷惑にござりまする」
右近は低く言い捨てると、能面のような無表情を装った。

 帯刀は哀れむような眼差しで右近を見つめていた。
流れる沈黙が針のごとく右近を苛んだ。精一杯の虚勢が、刻む時とともに剥がれ落ちていく…。

「そなたが、江戸に留まってさえいれば、『勘定吟味役が尻奉公…』などという、けしからぬ読売が流れぬよう、この帯刀がしかと目を光らせておいてやる。儂に歯向かうな…右近」

 右近は骨が震えるほどの口惜しさを懸命に堪えた。

 帯刀は右近を溝口家から引き離し、いずれ三郎との仲をねたに、誠之進を追い落としにかかる気だ。それを知りながら友のもとを去る…右近は己の意気地のなさが許せなかった。

 されど…もはや誠之進とまともに話もできぬ。顔を見れば心が波立つ。友として向き合うことすらできない…。これでは誠之進を守るどころか、はずみで三郎にも何をするかわからない。

 誠之進の愛を一身に受けている三郎。あどけない顔をして、誠之進を閨で虜にしている三郎…。

 三郎さえいなければ…。三郎さえこの世に生まれてこなければ、誠之進と自分は今頃…。

 契っていたかどうかはわからない。されど、誰よりも深く心を通わせ、誠之進の側に寄り添っていたのは…他の誰でもない、この私だったのに。

 身を焼くような嫉妬の先には、憎悪の淵が待ち構えていた。

 万が一、若君に手をかけたとあれば、家は断絶。嫁いだ姉たちにも類が及ぶ。母も孫作も生きてはいられまい。

 逃げとはわかっていても、今は国許を離れたかった。二人の姿が目に入らぬ場所へ。江戸へ、惣一郎の側へ戻りたい…。

 もはや意地を張り通す気力が尽きていた。

「…年内にも、出府いたしたいと…心得まする」
帯刀の前で涙だけはこぼすまいと、右近は懸命に歯をくいしばった。敵でありながら、右近の心の襞を全て知り尽くしているような言動に、右近は言いようのない口惜しさと、もはや取り繕う必要のない、不可思議な安堵さえ覚えていた。

「それがよかろう…」
望む答えを引き出した帯刀は満足げにうなずくと、心乱れる右近をしばし無言で見つめていた。

「話はそれだけじゃ。…いずれまた会おうぞ」
帯刀は立ち上がると右近をその場に残し、寝所へとひきとっていった。


 内藤帯刀、四十三歳。欲と野心は未だ尽きず。
次なる秘策を持って誠之進の前に立ちはだかるのは、半年後のことになる。


雌伏 了


「雌伏」2 | 「枯れ野」

下弦の月 目次



惣一郎に送った瑠璃杯?
(kigen様作)




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