二十三の巻「枯れ野」

by 戸田采女


 燃えるような紅葉の季節も終り、小雪がちらつき始めた十月の末。右近は家族の他は誰にも告げずに草鞋をはいた。

 役目を正式に辞し、江戸へ戻ると心を決めて以来、右近はつとめてきちんと食事を取るようにした。体力の回復をはかるべく、母や孫作に言われるまま大人しく人参も飲んだ。

 母や孫作には、しばらく江戸の剣友、佐久間彦四郎のところへ厄介になると告げた。

 此度は正式に江戸詰めが申し渡されたわけではない。無論、藩邸へは挨拶にいくが、母の具合が悪くなればいつでも戻れるよう、しばらくは自由な立場でいたかった。

 城下の外れまで送ると言ってきかない孫作を宥め、右近は屋敷の門前で母と孫作に見送られて高山城下を後にした。幸いにも溝口主膳のはからいで、吟味役を辞した後も母たちには十分な手当が支給されるという。病がちな母を残していくのは心苦しい。だが、母や孫作の日々の暮らしが保証されたことで、いくぶん右近の肩の荷は降りた。

 病み上がりの身体ゆえ無理はせず、右近はゆっくりと街道を進んだ。荒井を過ぎると、信越国境に向かって道はだんだん険しくなる。最初の難所、小出雲坂は、古来北国街道の旅人の感傷を誘ったといわれ、坂を登りきると頸城平野はもう見えない。右近は途中で幾度となく振り返り、残していく愛しい人たちのことを思った。

 枯れ葉を踏みしめて、木枯らし吹く坂の上に立つ。眼下に広がる平野に、来年こそは青々と稲が育ち、黄金色の穂が実るようにと右近は祈った。

 二度と戻らぬわけではない。いつの日か気持ちの整理がついたなら、必ずこの地に帰ってこよう。

「誠之進…」

 右近は澱のような感傷を振り切り、足早に次の宿場、二本木宿を目指した。




「右近が江戸へ発った…?」
誠之進はひとこと呟いたきり、言葉もなく立ち尽くした。
片腕を失ったような衝撃が、ゆっくりと全身に広がっていった。

 九月末、今町で島崎屋の千石船を迎え、領内の各地へ米を届ける作業を見届けてから、誠之進は十一月に入ってようやく高山へ戻った。養子の件で動揺する三郎もだが、誠之進は右近のことがずっと心から離れなかった。

 何をどう話せばよいかわからない。まことに軽蔑されているのなら、もはや顔出しせぬほうがよいのかもしれない。だが、誠之進の胸の中には、小骨がひっかかったような違和感があった。ふたりの間で何かが行き違っているような…。言いようのないもどかしさに駆られ、誠之進は城下へ戻ると真っ先に櫻田邸へと走った。しかし…。

「白菊丸様は五日前にお発ちになりました」
式台に正座した孫作は、思いがけない一言を放った。
誠之進を見上げる表情もいつになく固い。孫作とも長い付き合いだが、何かを懸命に堪えているような、あるいは訴えるような目線に、誠之進は胸騒ぎを覚えた。
「孫作…?」
「誠之進様…、某、誠之進様に申し上げたき儀がござります」
孫作の握りしめた拳が震えている。
ただ事ではないと、誠之進は察した。

「し、白菊丸様は…」

「孫作!」
嗄れた声を遮るように、廊下の奥から甲高い声が飛んだ。

 右近の母、結衣であった。

 誠之進は玄関にたったまま、首を垂れて一礼した。

「何をしているのです。お客人を玄関先に立たせたままで…。はよう座敷にご案内なさい」
「お、奥方様っ!」
落ち窪んだ瞳をうるませて、孫作が結衣を見上げた。
「…なりませぬ、孫作」
小声で、しかし断固たる意志をもって、結衣が孫作を叱責した。
「なれど…奥方様! 白菊丸様のお心は…っ」
「孫作、なりませぬぞ」
二度目は童子に言い聞かせるがごとく、結衣は孫作の目の奥をしかと見つめた。
「お、奥方様っ…」
「余計なことをしてはなりませぬ。もうよいからお下がりなさい…」

 二人のやりとりに、なおさら混乱する誠之進だったが、
「誠之進様、さ、おあがり下さいませ。座敷でお話いたしましょう」
結衣は透き通るような微笑を浮かべ、誠之進を奥へといざなった。




 柔らかい炭火で室内はほどよく暖まっていた。

 誠之進と結衣は火鉢を挟んで向き合って座った。
「突然のことで…驚かれたでしょう。申し訳ござりませぬ」
「何故…右近は」
私にも知らせずに…と、続く言葉を誠之進は呑み込んだ。

「御家老様や誠之進様より賜りました長年のご厚情にお応えすべく、わが息子、右近は…非才の身なれど、吟味役としてのお役目に励んでまいりました。なれど、不正の一件も此度の内藤様の御処分をもって落着と聞き及びまする。この上は、再び江戸へ出たいという右近の願い、誠之進様にもおわかりいただきとう存じます」

 江戸へ出たいなど…右近の口から今まで一度も聞いたことがなかった。江戸へ戻りたいというより、国許には…もはや私の側にはいたくないということなのか。そうでなければ一言も知らせずに発つなど…。

「ご母堂は…それでよろしいのですか? お寂しゅうはありませぬのかっ?」

 まるで子供が駄々をこねるような台詞だと、誠之進は内心歯がみした。取り乱しているのは他でもない、己のほうではないか。
 
 右近とよく似た長い睫を伏せて、結衣がうなずいた。
「…右近には、江戸の水が合うたようでござります」
「右近が…ご母堂に左様なことを?」
「はい…。いずれ、江戸留守居役にとの惣一郎様のお言葉もあったそうで…右近もそのような心づもりで此度の出府を決意いたしました」

 いったい何時、右近と惣一郎様の間でそのような話があったのか? それも右近の口からは聞いていなかった…。

「誠之進様…前髪立ちの頃から、まことに長いお付き合いにござりましたが…」
「結衣殿?」
「成人なされました今、誠之進様は次の国家老として立派にご領内を治めてくださりませ。及ばずながら右近も江戸にて…主家のため、国許を治める誠之進様のため、微力を尽くす所存にござりましょう」
「結衣殿、それでは二度と右近が戻らぬつもりとでも?!」
「私は…そういう覚悟で見送りました」

 何と言う潔さ…。再び江戸詰め、それも留守居役ともなれば、母子が生きて会うことは二度と叶わぬかもしれぬ。病がちの身でありながら、最も頼りにするはずの嫡男を、こうもあっさり手放すとは…。

 驚嘆する誠之進を前に、
「あの子を…私の病を理由に国許に縛りとうはないのです。親ばかと笑われるやもしれませぬが、江戸という檜舞台で、どこまでも華やかに舞ってみるがよいと…笑顔で送り出してやりました」
結衣は凛とした声音で、静かに言い切った。

 誠之進は右近と話しているような錯覚にとらわれた。

 矜持という絹の鎧をまとい、心の揺れも胸の泡立ちも一切余人には見せない。湖面のような静けさで、結衣は端然と座していた。

 惚けたように結衣を見つめていた誠之進は、炭のはぜる音にようやく我に返った。

「…見事なお覚悟です」
誠之進はそう一言呟くと、もはや言葉もなく結衣の前に首を垂れた。




 右近は誠之進のもとを去った。
自分はもはや完全に見限られたのだ…。誠之進は苦い思いを噛みしめていた。

 守役を勤めながら、若君と割りない仲になった。潔癖な右近にはそんな誠之進の所行が許せぬのだろう。無論、三郎を愛したことに微塵も悔いはない。三郎は誠之進の命だ。右近にどれほど諌められたとしても、三郎と別れることだけはできない。
 
 されど…。かつて愛し、今や誰よりも信頼していた友に去られ、誠之進は言いようのない孤独をかみしめていた。藩校時代から右近を守るといいつつ、その実、己がどれほど右近に依存していたか…。いつの間にか、側にあることが空気のように当たり前になっていた。常に己の傍らにあり、ある時は誠之進を支え、ある時は判断に迷う誠之進を導き…。

『…元服して成人してからも…。生涯…友でいようぞ』

 十代のとき、決して失えない存在だと思った。だからこそ葬った…右近への恋だった。それがなぜ、今になってこのような別れ方をせねばならぬのだ…。

(右近!)

 高山を発って五日。もはや右近は信越国境を超えただろう。届かぬと知りつつも、誠之進は深い喪失感の中、友の名を呼び続けた。


枯れ野 了





 
「雌伏」 | 終章

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