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参勤行列が無事お国入りを果たして一夜があけた。
庭の様子から察するに、夜半から明け方にかけて一雨降ったらしい。
生茂った樹木や下草に残った雫が、朝日を受けてきらきらと淡い光を放っていた。
昨日は出迎えの儀式や酒宴が続き、三郎と誠之進主従は夜半近くになってようやく解放された。三郎はさすがに深い疲労を覚え、居室に戻って床につくと朝まで夢も見ずにぐっすり眠った。
父、藩主因幡守信輝とは一年ぶりの再会であった。
今日は家老の溝口主膳の計らいで、三郎は信輝公と水入らずで半日過ごす予定だ。
中食を終えて本丸の藩主の居室を訪なうと、信輝は待ちかねたように三郎を迎えた。
「おお、三郎、よう参った。昨日は疲れたであろう」
三郎ははにかんだような笑みを浮かべて、素直にうなずいた。
「しかし、夕べは重臣たちを相手になかなか堂々としたものだったぞ」
「…お恥ずかしゅうございます」
いよいよ頬を赤らめる三郎に、信輝は破顔した。
「まあ、かたくるしい話はそれくらいでよい。ぜひそなたに見せたいものがあるのじゃ」
信輝はこちらが本題、と言わんばかりに、江戸から持ち帰った土産を取り出してきた。
「どうじゃ、三郎?」
父と端座して向き合う三郎の前に広げられたのは、組み物の美人画だった。
ほっそりした柳腰の少年めいた容貌の女二人が、座敷から外の景色を眺めている。
現実の女の肉感を感じさせない、陽炎のように夢幻的な絵であった。
鈴木春信 画、と銘が入っていた。(『見立て三夕 』参照)
三郎は一枚ずつ手にとって注意深く眺め、ほうっと溜息をついた。
「見事なものにございます…二人の女子の表情も優しげで…」
「であろう?これはな、錦絵と申すものじゃ」
「錦絵…」
「うむ。それに…良く見てみよ。これは肉筆ではのうて版画なのだ」
「…まことにござりますか?」
三郎は再び絵を手にとって、眼前にかざした。
感嘆する三郎に、信輝が説いて聞かせる。
「…絵師の巧みな意匠や色選びあっての話だが、掘りと刷りの技術が、ここ数年、長足の進歩をとげたのは大きい。たくさんの枚数の版木をつくり、何度も摺り重ねることで、斯様に精緻な絵柄や色も表現できるのだ」
「…驚きました」
信輝はうなずいて続けた。
「江戸には才能豊かな絵師が綺羅星のごとくいるのだ。在府のおりは、 狂歌の会や絵暦の交換会で、優れた作品を手に入れるのが楽しみでな…」
信輝は一旦言葉を切って、声を落とした。
「実は今やそれだけが江戸在府の楽しみじゃ。お城の勤めは性に合わぬ」
と、いたずらっぽく笑ってみせた。
悪童のような父の笑顔に、三郎も思わずつられて破顔した。
「ところでこの春信の組み物は、惣一郎が狂歌の会に出向いた際、もとめてきたものじゃ」
「…兄上が?」
三郎はもちろん、江戸の御正室と嫡男、惣一郎のことは聞き及んでいる。
「惣一郎も絵に関心があってな。一時は自分でも描いておったようだが…」
父の声音が沈んだのを三郎は敏感に悟った。
黒目がちの瞳が心配そうに問うと、
「…他のことに忙しくなったのであろう。なに、またいつか、ひょっこり絵筆を持つやもしれぬ」
と、信輝は努めて明るい口調で答えた。
何か事情がありそうな気はしたが、詮索するのも憚られ、三郎は黙ってうなずいた。
「…ところで、折りをみて…そなたを一度、惣一郎に引き合わせねばならぬな」
「…私もお会いしとうございます」
三郎にとっては血を分けた唯一の兄である。
素直に未だ見ぬ兄への思慕と興味を口にした。
「父上、絵がお好きなこと以外、兄上様はどのようなお方なのですか?」
「惣一郎か…? そうじゃなあ…」
信輝は顎に手をあてて考え込むと、
「ともかく…男前じゃ。背格好は誠之進と似ておる。少し背は低いかの」
誠之進と似ていると聞き、三郎はなぜか嬉しくなった。
「お優しい方ですか?」
「うむ。動物でも人間でも、気に入ったものはえらい可愛がりようじゃ」
では気に入らぬものはどうなのか、という話になるが、三郎はそのような突っ込みはせず、素直にうなずき質問を続けた。
「武芸は嗜まれるので?」
「そちらのほうは、残念ながら身供同様、一応習いましたという程度じゃな。さて…弓だけは身供よりは多少ましであったように記憶しているが…」
「…左様にござりますか。私は弓はあまり得意ではありません。お会いしたときには、ぜひ御指南いただきたいと存じます」
口先だけではない。
惣一郎は三郎にとって数少ない肉親の一人である。
三郎はいつか兄に会える日を心待ちにしていた。
その後も碁を打ったり、庭を散策したり、三郎は久方ぶりの父との時間を楽しんだ。
水いらずで夕餉を供にした後、三郎は父の元を辞し西の丸の屋敷へ戻った。
*
明日の兵学の予習をしようと居室で書見台に向かったところ、すり足で廊下から次の間に入ってくる足音が聞こえた。足音が襖の前でぴたりと止まると、三郎が中から声をかけた。
「誠之進か、入れ」
誰何せずとも足音だけでわかる。
誠之進は襖を開けて入室すると、入口近くに端座した。
「若、今日はお父上とゆっくりお話できましたか?」
「ああ。楽しかったぞ。錦絵なるものをたくさん見せてもろうた」
「それはよろしゅうござりましたな」
誠之進は相好を崩してうなずいた。
「昨日は御苦労さまでした…。ご立派な応対ぶりに某、感心いたしました」
「そなたに教えられた通りやっただけじゃ…」
三郎はかすかに睫を伏せ、小さく首を横に振った。
照れ臭さゆえ誠之進の顔を正面から見ることはできなかったが、労るような声音が嬉しかった。
「ところで、若…。実はお願いがござりまして…」
珍しく遠慮がちに誠之進が切り出した。
「何じゃ?」
「明日の夜、外出してもよろしいでしょうか?」
「それは構わぬが、いずこへ参るのだ?」
「昨日、江戸から戻った友人の屋敷に招かれております」
三郎は、自分の面がわずかに緊迫するのを感じた。
(父上の乗り物に付き添っていた…あの者か?)
その人物の顔を思いだすと、細い切っ先で胸を刺されたような衝撃が走った。
三郎は誠之進に気取られまいと、俯き加減で次の言葉を待っていた。
「昨日、行列で殿のお乗り物脇に控えておりました、櫻田右近と申します。江戸では惣一郎様の用人を勤めておりましたが、今回お暇を賜り国許へ…」
「兄上の…側仕えだったのか?」
「はい」
誠之進の鳶色の瞳が柔らかく微笑んだ。
「…古い友人なのか?」
「はい、私が藩校に入学して以来ですから…かれこれ十年になりましょうか」
「ふむ…」
三郎は曖昧にうなずいた。
胸の奥から漠とした不安がせり上がってきたが、さして興味のない風を装って会話を続けた。
「櫻田とは明日、藩校の剣術所で手合わせする約束をしました。昼過ぎに参りますので、その時あらためて若にご紹介いたします」
「わかった…」
「久しぶりの対戦ゆえ、何やら緊張いたします」
「…そなたが緊張する相手とは…よほどの遣い手なのか」
「はい…細身と思って侮ると痛い目に会いまする」
「それは…楽しみじゃな」
三郎は口元に笑みを作った。
「では、他に御用がなければ私はこれにて…」
「ああ。明日に備えてゆっくり休むがよい」
誠之進は手をついて丁寧に頭を下げ、三郎の居室を辞した。
誠之進の気配が遠ざかるにつれ、三郎はほっと肩で息をついた。
ひとりになった三郎は再び書見台に向かったが、もはや気が散じて読書は一向に進まなかった。
昨日、中庭で父を迎えて本丸に向かう途中、誠之進が急に踵を返した。
不審に思い振り返ると、乗り物の傍らで、時が止まったように立ち尽くす二人が見えた。
肌理の細かい肌の、陶器さながらの白さ。
冴えざえとした闇色の瞳が真直ぐに誠之進を見つめていた。
会話は聞こえなくとも二人の親しげな様子は伺え、周りの空気の色さえ違って見えた。
そして、「守役どの…」と呟いた、あの印象的な声。
右近が気になってしかたない…。
右近本人というより、誠之進との関わりが気になるのだ。
今の付き合いもだが、かつて誠之進と右近がどんな藩校時代を過ごしたのか…。
そこで二人は「どのような」友であったのか。
お城へ引き取られてから四年。
三郎は片時も離れず誠之進と暮らした。
正確に言うと、誠之進は片時も離れず三郎の『世話』をした。
文字どおり、生活の全てを三郎の養育に傾けていた。
だが、これまでの人生を含めて、誠之進の人となりについて、自分は一体何程のことを知っているのだろう?
家老の息子だということ以外、ほとんど何も知らなかった。
守役として惜しみない愛情を注いでくれるが、誠之進自身のことはあまり語らない。
少しだけ藩校時代の話を聞かせてくれたのも、先日が初めてのことだった。
おそらく、小兵太や右近なら知っている…。
三郎が出会う前の誠之進。
三郎の知らない誠之進の世界。
もっともっと誠之進ことが知りたい。
知りたくてたまらない…。
何故今まで、あまり話してはくれなかったのだろう?
私が年端もゆかぬ子供だったからか?
それなら少しは納得できる。
なれど、私ももう十三歳だ。
背丈ももうじき誠之進の肩に届くだろう。
素読吟味も合格したし、藩校にも入学した。
もはや一緒に独楽回しをしてくれずともよいのだ。
その代わり、もっと色々なことを語りあいたい…。
誠之進から見れば、私は話し相手にもならぬ子供なのだろうか…?
誠之進を慕う気持の中に、これまでとは違う何かが頭をもたげた。
三郎はまだ、胸を占める想いにつける名を知らない。
しかし、甘い痛みを伴って生まれた芽は、やがて葉を出しつるを伸ばし、三郎の内部にしっかりと根を張っていく…。
気がつけば書見台を前に、溜息ばかりついていた。
(誠之進の勝ちに決まっておるが…やはり明日は仕合を見に行こう)
稽古着姿の誠之進を瞼の裏に描きつつ、三郎は静かに書を閉じた。
つづく
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