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両者は礼をして、東西の控え席に退いた。
右近が面を外している。
あれだけの勝負をしたにも拘わらず、右近の額にはうっすら汗が滲んでいる程度で、大して息もあがっていない。
稽古場の反対側に座した誠之進は、しばらく俯いてじっと端座していたが、ようやく防具を外しにかかった。
面の下から現れた誠之進の表情は、三郎が今までに見た事がないほど厳しいものだった。眉間に深い皺を刻み、こめかみから大粒の汗がすうっと頬を伝った。伏し目がちに唇を固く引き結び、誠之進は面を膝の上に置いたまま微動だにしなかった。
師匠の酒井十太夫は誠之進をじっと見つめているものの、言葉をかけようとはしない。
やがて、視線を外すと、
「模範仕合はこれにて終わりじゃ。皆、それぞれの稽古を始めるように…。小平太、年少組の子らを見てやれ」
「はい」
横に控えていた小兵太は、ちらりと案じるような視線を誠之進に投げたが、師匠に命じられたとおり少年たちを稽古場の一角に集めた。
「おい、源蔵、おまえも来い!」
小兵太は大声を張り上げ、手招きした。
三郎の様子を気にして、なんとなくもじもじしている源蔵に、
「いいから早くいけ」
と、三郎がうなずいた。
主の三郎にそう言われれば否も応もなく、源蔵は仕方なく稽古に戻っていった。
年少組の生徒たちは、小兵太の号令で素振りの稽古を始めた。
道場が再び竹刀を打ち合う乾いた音や、「鋭!」「応!」と威勢のいいかけ声に満ちていく。誠之進はそれでもまだ同じ場所に端座していた。
三郎の目には、最初の一本はともかく、後半二人は互角に闘っていたと思う。最後には、誠之進が見事な力技で右近の竹刀を叩き落としたではないか?
(誠之進…)
だが、誠之進本人が自分の戦いぶりに不満なのは容易に見てとれた。
三郎が行って声をかけるべきかためらっていると、白い刺し子の稽古着が三郎の目の前を横切った。
(右近…!?)
右近は竹刀を振る少年たちの間を縫って、まっすぐに道場を横切り誠之進の前に立った。
「いつまでそこに座っている気だ…誠之進」
鳶色の瞳が気だるそうに右近を見上げた。
「…外へ出て風にあたろう。話がある…」
右近はそれだけ言うと、さっさと踵を返して出入口へ向かった。
数秒遅れて、誠之進が鈍い溜息をついて立ち上がった。
見所の十太夫に目礼すると、白い稽古着の背中を追いかけるように、足早に道場を出ていった。
吉田小兵太が自分のほうをちらちら見ているのは知っていたが、三郎はいてもたってもいられず二人の後を追いかけた。
*
三郎が剣術所の建物から走り出てあたりを見回すと、文教棟の裏手の雑木林に入っていく二人が見えた。
足音を忍ばせて、つかず離れずの距離でついていく。
やがて二人はいつも三郎たちが握り飯を食べている、楡の大木のあたりで歩を止めた。
三郎は見つからぬよう細心の注意で近付き、手近な木陰に身を潜めた。
八ッ半(午後三時)を過ぎても陽はまだ高く、木々の間から差し込んでくる強い光りに、誠之進は眩しげに目をしばたいた。
気温はかなり上がっていたが、時折、梢を揺らす風が林の中を吹き抜けていく。
仕合の後の身体の熱と気の昂りを、涼風が心地よく鎮めてくれるようだった。
少し気持が落ちついたのか、先に口を開いたのは誠之進のほうだった。
「右近、さすがだな。江戸でも十分に稽古を積んでおったと見える…完敗だ」
素人目には二本目は誠之進の勝ちだが、相手の技を攻め崩したわけではない。
力で勝ちをもぎとった自分を誠之進は恥じていた。
だが、己への悔しさはさておき、誠之進は素直に相手の進歩をたたえた。
しかし、
「ばかもの。何を呑気なことを言っておる。私の腕が上がったのではない…」
返ってきたのは、右近の苛立ったような声だった。
「…?」
「わからぬのか。貴公の腕が落ちたのだ、誠之進」
「何だと…」
温厚な誠之進も、さすがにこれには気色ばんだ。
整った眉の下から鳶色の眸が右近を睨みつけている。
右近は平然として続けた。
「子守にかまけて、ここ数年、自分の稽古なぞろくにしてこなかったのではないか?」
「そのようなことは断じてない!」
声を荒げて否定しながらも、誠之進の瞳が揺らいだのを三郎は見逃さなかった。
(私のせいなのか…誠之進?)
誠之進は両の拳を握りしめ、俯いたまま地面に足を踏ん張るようにして立ちつくしている。
やがて右近の眸の色が微妙に変わった。
先程の、なじるようなきつい光りは消え、けぶる睫の下から切なげに誠之進を見つめている。
「何も…貴公を責めているわけではないのだ。お役目第一で、三郎ぎみの養育に力を注いでいたのは立派だ。ただ私は…」
「わかっておる」
皆まで言わせず誠之進が遮った。
誠之進はあらためて右近に向き合う。
無言で目と目を見交わす二人を、三郎は息を詰めて凝視した。
言葉にせずともわかり合える何かが二人の間に流れている。
やがて肩で大きく息をつくと、誠之進がふわりと微笑んだ。
「…私はなにも、稽古をさぼっていたわけではないぞ」
「…?」
「互角かそれ以上の稽古相手が城下におらなんだ」
「は?」
「十太夫先生は高齢で、そう頻繁に手合わせは願えぬし、吉田も旅に出たまま行方がわからず、ようやくこの春高山に戻ってきたのだ」
「左様ことは言い訳にならぬ」
右近に手厳しく一蹴されても、誠之進はさらに言いつのった。
「…貴公がなかなか帰国せぬから悪い」
「…」
右近は秀麗な二重の眸を呆れたように見開いた。
「私の腕が落ちたとすれば…それは貴公のせいじゃ」
「人のせいにするとは何事だ!」
「いや、そうに決まっておる。
早うから父上にも殿にもお願いしてあったのに、貴公がなかなか江戸を離れぬからじゃ」
「いい加減にせぬか、誠之進!」
うんざりしたように言いながらも、右近の眸は生気に満ち、白い頬にかすかに血の色がさしていた。
三郎は木陰から様子を伺いつつ、左手で着物の襟を固く握りしめていた。
誠之進の言動はどう見ても、駄々をこねる子供のそれだった。
右近と向き合いにこにこ微笑む姿は、欲しいものを手にいれて上機嫌の子供と変わらない。
自分の前では完璧に大人の誠之進が、あのような無邪気な表情を見せるとは…。
それほどまでに、右近には気を許しているということか…?
談笑する二人をこれ以上見ていたくなかった。
一刻も早くこの場を去りたいのに、足が動かない。
藩校時代から十年来の親友…。
そんな絆を見せつけられ、三郎は言葉もなく立ちすくんだ。
やがて二人は再び武術棟のほうへ向かって歩きだした。
三郎は二人の背中を茫洋とした眼差しで見送った。
声が次第に遠ざかっていく…。
「ともかく…。今宵は母上も爺も貴公に会うのを楽しみにしておる」
「ああ。暮れ六ッ過ぎには伺えると思う。加賀の酒の良いものが手に入ったゆえ、持ってゆく」
「かたじけない…」
「では」
二人は頷きあって別れ、右近は控え室のほうへ、誠之進は剣術所の建物へと戻っていった。
つづく
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