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どこをどう歩いたかよく覚えてはいない。
気がつけば、雑木林の奥深く、水練用の池のほとりまで来ていた。
湧水も出ているこの池は、一年中、清い水をたたえている。
川と違って流される心配もないため、幼年・年少組の生徒にとっては格好の水練場となっていた。
今日も水練が行われていたはずだが、陽も西に傾き始めた今、あたりは深閑として人影もなかった。
池の周りには丈の高い葦が群生している。
肩まで届かんとする茎の間を縫うようにして、三郎は十間ほど先ある桟橋を目ざした。
葦を手でかきわけ、踏みしだいて歩く。
乾いた音に反応して、近くにいた水鳥の群れが一斉に飛び立っていった。
水練用に作られた桟橋は、岸から池の中程まではり出している。
水面(みなも)を渡る風を頬にうけながら、三郎は桟橋の先端まで歩いた。
水際に佇んだ三郎は再び沈思に落ちた。
*
結局、今日は右近に紹介されず終いだった。
もっともこんな気持では、右近にどんな言葉をかければいいのかわからない。
三郎は正式に引き会わされずに済んで、正直安堵していた。
(誠之進は誰とも手拭いは交換しなかったというけれど…)
今朝、藩校へ向かう道々、松之助や倫太郎からも右近の話を聞いた。
誠之進と右近は年長組にいた頃、『宗道館』の 竜虎と言われたらしい。
誠之進と右近だけでなく彼らの世代には遣い手が多く、倫太郎たちの間でも語り種になっているという。
「剣は遣うし、頭はいいし、それにあの顔でしょう? 神様も不公平ですよねえ…」
「まったくだ。だが、美しすぎるのも苦労のもと…」
「…ああ、まあそれは」
「どういうことだ? 松之助」
口籠った松之助を三郎が問いつめた。
「え、ええと…兄上が昔ちらっと言ってたんですけど…」
「元服するまで、言い寄る輩が多くて大変だったそうです」
年上の倫太郎が松之助に代わって答えた。
「……」
手拭い事件で免疫ができたので、三郎にも何となく事情は読めた。
「でも、右近どのはお強いからな。無体なことをするやつは片っ端から、叩きのめしたそうな」
振られた奴のまぬけ面でも思い浮かべたのか、倫太郎はからりと陽気な笑い声をあげた…。
手拭いなどという子供じみた『証だて』をせずとも、右近が誠之進にとって特別なのは、あの立ち合いを見ればわかる…。竹刀を交えているとき、戦う敵同士のはずなのに、何人たりとも分け入ることのできない、濃密な空気がふたりの間に流れていた。
三郎は自分が苦もなくはじき出されたような気がして唇を噛んだ。
だが自分にも誠之進と暮らした四年間がある。
はじめはお爺様や皆とひき離され、寂しくてたまらなかった。
よそよそしいお城の生活が嫌で、土蔵の中に隠れてこっそり泣いた日もあった。
されど、何処に隠れても、必ず誠之進が捜しにきてくれた。
誠之進がやってくる足音を聞きつけると、心配をかけまいと、いつも慌てて涙を拭った。
「こんなところにおられましたか…。さあ、一緒にお部屋へ帰りましょう…」
誠之進は何もかもわかっていたのだろう。
暖かい色の瞳で微笑むと三郎の手をとった。
「ずっとお側におりますよ…」
大きくて暖かい手で頭を撫でられると、それだけで安心した。
剣や学問、武家の作法にいたるまで、全て誠之進に手ほどきを受けた。
誠之進は自分にはもう教えられることが何もない、と言うけれど、今だってどんな質問にも的確に答えてくれる。
藩校に入学するまで、誠之進は文字どおり片時も離れず自分に仕えてくれた…。
しかしそれは…。
三郎はふと浮んだ思念に凍りついた。
『役目』なのだ。
誠之進は父に命じられて、三郎の守役についた。
守役としての勤めを果たすべく、三郎に愛情をもって献身的に仕えた。
だが裏を返せば、藩主である父の命がなくば、自分と誠之進は出会うことすらなかっただろう。
ならば右近と誠之進は…?
右近との友誼は誠之進自らの意志で選んだもの。誰に命じられたわけでもない。
誠之進は右近の剣の技、知性、強靱な精神、その全てを認めて友となったのだろう。
そして…。
あの美しさに胸ときめいた瞬間もなかったはずはない。
三郎は水面に映った自分の顔をじっと見つめた。
背は伸びたとはいえ、まだまだ幼い子供の顔…。
誠之進にとって自分は「世話をする」対象でしかないのか?
そんなのは嫌だ。
早う大人になりたい。
誠之進に一目置いてもらえるような、立派な男になりたい。
誠之進が仕えるに値する男になりたい。
されど…。
自分が成人すれば、誠之進の守役の勤めは終る…?
終ったら……どうなるのか。
頭から血の気が引いていくのを感じた。
今まで考えても見なかったこと…。
誠之進との暖かな日常がこの先もずっと続くと思っていた。
(そうではないのか?)
心の臓がどくんと音をたてて鳴った。
(ずっと側にいてくれるのではなかったのか?)
(…元服したら、もうお役ご免なのか?)
(嫌だ…そんなのは嫌だ!)
息が苦しい…。
(どこへも行くな、誠之進!)
膝の震えが止まらない……!
*
崩れ落ちそうになる三郎を後ろから強い腕が支えた。
「若! いかがされました? お捜ししましたぞ…」
「誠之進…」
(どうしてここにいるのがわかったのだ…?)
三郎は誠之進に背中を預けながら、大きく息をついて天を仰いだ。
顔をあげていないと今にも涙が溢れそうだ。
(どうしておまえの腕はこんなにも暖かい…。)
「…ご気分でも悪いのですか? お顔の色が真っ青です…」
後ろから覗き込むようにして尋ねる誠之進に、三郎は力なくかぶりをふった。
「兵学の講議に出ておられぬゆえ…山辺先生もたいそうご心配でした…」
「すまぬ…」
一人で授業を抜け出すなど、立場をわきまえない行動だった。
三郎はまたもや自己嫌悪に陥った。
二人は言葉を交わさぬまま、しばし桟橋の上に佇んでいた。
やがて西の空は血の色を流したように色付き、夕風がざわざわと葦を揺らし始めた。
三郎は急に肌寒さを覚え、身を震わせた。
「……いったいどうなされたのです? 今日はいつもとご様子が違います」
「何でもない」
「何でもないというお顔ではござりませぬ」
「……」
「私には…お話いただけませぬのか?」
心配そうに見つめる視線を痛いほど感じていたが、波立つ水面に目を落としたまま、三郎はかたくなに口を閉ざした。
「若…」
半ば強引に聞き出そうとしながらも、誠之進の声にかすかな戸惑いが滲んでいた。
瞬間、突風が吹き抜け、誠之進は反射的に三郎を抱き込むように庇った。
三郎は思わず身を固くした。
「大分、風が出てまいりましたな…。お風邪をひくといけませぬ。さ、これをお召しなされませ」
誠之進は黒絽の夏羽織りを脱いで、三郎の肩に着せかけた。
誠之進の匂いと温もりが、ふわりと背中を包む。
思わず鼻の奥がつんと熱くなった。
「さあ、お屋敷へ帰りましょう…」
三郎は目を伏せたまま小さく頷いた。
着せかけられた羽織りに袖を通し、しっかり身にまとうと、岸へ向かって歩き始めた。
少し遅れて誠之進がついてくる。
自分の背が誠之進の胸に届き始めた頃から、誠之進は三郎の手をひいて歩くのを止めた。
以来、一歩半下がった斜後ろを歩くのが習慣になっていた。
つかず離れずの微妙な距離が、三郎にとってもごく自然で心地よいものとなっていた。
だが…。
三郎は肩ごしにちらりと誠之進を振り返った。
今は昔のように手を繋いで欲しかった。
大きいけれども決して無骨ではない誠之進の手。
長い指が書をめくる時の動きが好きだ。
頭を撫でてくれた時、熱がないかと見てくれる時の、さらりとした暖かい手のひらが大好きだ。
誠之進の手に触れていれば、胸底でふつふつと泡立つような不安も、少しは癒される気がした。
それでも…。
三郎はとうとう自分からは言い出せなかった。
歩きながら、ふと思い至ったのだ。
誠之進が三郎をもう子供扱いせぬつもりなら、自分も応えなければならない。
一人前として扱われることを望むなら、今までのように甘えていては駄目なのだ…。
右近の出現は『誠之進の特別』を巡って三郎を脅かしたが、同時に自負心を強く刺激した。
幼き時のように無邪気に手を繋ぐことはできずとも、決して誠之進の『手』を放してなるものか、と。
右近と誠之進の友誼がどれ程のものであれ、自分と誠之進の間にも絆は確かにあるのだから…。
『右近』という煌めく石が、三郎と誠之進の平和な池に投げ込まれた。
広がった小さな波紋は、時を経て、やがて激流となって三人を呑み込んでいく。
三者三様の想いを胸に秘め、明和二年の夏が始まった。
夏木立 了
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