五の巻「夏木立」5

by 戸田采女


 どこをどう歩いたかよく覚えてはいない。
気がつけば、雑木林の奥深く、水練用の池のほとりまで来ていた。

 湧水も出ているこの池は、一年中、清い水をたたえている。
川と違って流される心配もないため、幼年・年少組の生徒にとっては格好の水練場となっていた。
 今日も水練が行われていたはずだが、陽も西に傾き始めた今、あたりは深閑として人影もなかった。

 池の周りには丈の高い葦が群生している。
肩まで届かんとする茎の間を縫うようにして、三郎は十間ほど先ある桟橋を目ざした。
 葦を手でかきわけ、踏みしだいて歩く。
乾いた音に反応して、近くにいた水鳥の群れが一斉に飛び立っていった。

 水練用に作られた桟橋は、岸から池の中程まではり出している。
水面(みなも)を渡る風を頬にうけながら、三郎は桟橋の先端まで歩いた。
水際に佇んだ三郎は再び沈思に落ちた。




 結局、今日は右近に紹介されず終いだった。
もっともこんな気持では、右近にどんな言葉をかければいいのかわからない。
三郎は正式に引き会わされずに済んで、正直安堵していた。

(誠之進は誰とも手拭いは交換しなかったというけれど…)

 今朝、藩校へ向かう道々、松之助や倫太郎からも右近の話を聞いた。
誠之進と右近は年長組にいた頃、『宗道館』の 竜虎と言われたらしい。
 誠之進と右近だけでなく彼らの世代には遣い手が多く、倫太郎たちの間でも語り種になっているという。


 「剣は遣うし、頭はいいし、それにあの顔でしょう? 神様も不公平ですよねえ…」
「まったくだ。だが、美しすぎるのも苦労のもと…」
「…ああ、まあそれは」
「どういうことだ? 松之助」
口籠った松之助を三郎が問いつめた。
「え、ええと…兄上が昔ちらっと言ってたんですけど…」
「元服するまで、言い寄る輩が多くて大変だったそうです」
年上の倫太郎が松之助に代わって答えた。
「……」
手拭い事件で免疫ができたので、三郎にも何となく事情は読めた。
「でも、右近どのはお強いからな。無体なことをするやつは片っ端から、叩きのめしたそうな」
振られた奴のまぬけ面でも思い浮かべたのか、倫太郎はからりと陽気な笑い声をあげた…。

 
 手拭いなどという子供じみた『証だて』をせずとも、右近が誠之進にとって特別なのは、あの立ち合いを見ればわかる…。竹刀を交えているとき、戦う敵同士のはずなのに、何人たりとも分け入ることのできない、濃密な空気がふたりの間に流れていた。
 三郎は自分が苦もなくはじき出されたような気がして唇を噛んだ。


 だが自分にも誠之進と暮らした四年間がある。

 はじめはお爺様や皆とひき離され、寂しくてたまらなかった。
よそよそしいお城の生活が嫌で、土蔵の中に隠れてこっそり泣いた日もあった。

 されど、何処に隠れても、必ず誠之進が捜しにきてくれた。
誠之進がやってくる足音を聞きつけると、心配をかけまいと、いつも慌てて涙を拭った。

「こんなところにおられましたか…。さあ、一緒にお部屋へ帰りましょう…」
誠之進は何もかもわかっていたのだろう。
暖かい色の瞳で微笑むと三郎の手をとった。
「ずっとお側におりますよ…」
大きくて暖かい手で頭を撫でられると、それだけで安心した。

 剣や学問、武家の作法にいたるまで、全て誠之進に手ほどきを受けた。
誠之進は自分にはもう教えられることが何もない、と言うけれど、今だってどんな質問にも的確に答えてくれる。
 藩校に入学するまで、誠之進は文字どおり片時も離れず自分に仕えてくれた…。


 しかしそれは…。

 三郎はふと浮んだ思念に凍りついた。

『役目』なのだ。

 誠之進は父に命じられて、三郎の守役についた。
守役としての勤めを果たすべく、三郎に愛情をもって献身的に仕えた。

 だが裏を返せば、藩主である父の命がなくば、自分と誠之進は出会うことすらなかっただろう。
 
 ならば右近と誠之進は…?

 右近との友誼は誠之進自らの意志で選んだもの。誰に命じられたわけでもない。
誠之進は右近の剣の技、知性、強靱な精神、その全てを認めて友となったのだろう。

 そして…。
あの美しさに胸ときめいた瞬間もなかったはずはない。

 三郎は水面に映った自分の顔をじっと見つめた。
背は伸びたとはいえ、まだまだ幼い子供の顔…。

 誠之進にとって自分は「世話をする」対象でしかないのか?

 そんなのは嫌だ。
早う大人になりたい。
誠之進に一目置いてもらえるような、立派な男になりたい。
誠之進が仕えるに値する男になりたい。


 されど…。
自分が成人すれば、誠之進の守役の勤めは終る…?

 
 終ったら……どうなるのか。


 頭から血の気が引いていくのを感じた。


 今まで考えても見なかったこと…。
誠之進との暖かな日常がこの先もずっと続くと思っていた。


(そうではないのか?)


心の臓がどくんと音をたてて鳴った。


(ずっと側にいてくれるのではなかったのか?)


(…元服したら、もうお役ご免なのか?)


(嫌だ…そんなのは嫌だ!)


息が苦しい…。
 

(どこへも行くな、誠之進!)


膝の震えが止まらない……!







 崩れ落ちそうになる三郎を後ろから強い腕が支えた。

「若! いかがされました? お捜ししましたぞ…」
「誠之進…」

(どうしてここにいるのがわかったのだ…?)

 三郎は誠之進に背中を預けながら、大きく息をついて天を仰いだ。
顔をあげていないと今にも涙が溢れそうだ。

(どうしておまえの腕はこんなにも暖かい…。)

「…ご気分でも悪いのですか? お顔の色が真っ青です…」
後ろから覗き込むようにして尋ねる誠之進に、三郎は力なくかぶりをふった。
「兵学の講議に出ておられぬゆえ…山辺先生もたいそうご心配でした…」
「すまぬ…」
一人で授業を抜け出すなど、立場をわきまえない行動だった。
三郎はまたもや自己嫌悪に陥った。

 二人は言葉を交わさぬまま、しばし桟橋の上に佇んでいた。

 やがて西の空は血の色を流したように色付き、夕風がざわざわと葦を揺らし始めた。
三郎は急に肌寒さを覚え、身を震わせた。


「……いったいどうなされたのです? 今日はいつもとご様子が違います」
「何でもない」
「何でもないというお顔ではござりませぬ」
「……」
「私には…お話いただけませぬのか?」


 心配そうに見つめる視線を痛いほど感じていたが、波立つ水面に目を落としたまま、三郎はかたくなに口を閉ざした。
 
「若…」
半ば強引に聞き出そうとしながらも、誠之進の声にかすかな戸惑いが滲んでいた。


 瞬間、突風が吹き抜け、誠之進は反射的に三郎を抱き込むように庇った。
三郎は思わず身を固くした。

「大分、風が出てまいりましたな…。お風邪をひくといけませぬ。さ、これをお召しなされませ」
誠之進は黒絽の夏羽織りを脱いで、三郎の肩に着せかけた。

 誠之進の匂いと温もりが、ふわりと背中を包む。
思わず鼻の奥がつんと熱くなった。

「さあ、お屋敷へ帰りましょう…」

 三郎は目を伏せたまま小さく頷いた。
着せかけられた羽織りに袖を通し、しっかり身にまとうと、岸へ向かって歩き始めた。

 少し遅れて誠之進がついてくる。

 自分の背が誠之進の胸に届き始めた頃から、誠之進は三郎の手をひいて歩くのを止めた。
以来、一歩半下がった斜後ろを歩くのが習慣になっていた。
つかず離れずの微妙な距離が、三郎にとってもごく自然で心地よいものとなっていた。

 だが…。
三郎は肩ごしにちらりと誠之進を振り返った。
今は昔のように手を繋いで欲しかった。

 大きいけれども決して無骨ではない誠之進の手。
長い指が書をめくる時の動きが好きだ。
頭を撫でてくれた時、熱がないかと見てくれる時の、さらりとした暖かい手のひらが大好きだ。

 誠之進の手に触れていれば、胸底でふつふつと泡立つような不安も、少しは癒される気がした。


 それでも…。
三郎はとうとう自分からは言い出せなかった。

 歩きながら、ふと思い至ったのだ。

 誠之進が三郎をもう子供扱いせぬつもりなら、自分も応えなければならない。
一人前として扱われることを望むなら、今までのように甘えていては駄目なのだ…。

 右近の出現は『誠之進の特別』を巡って三郎を脅かしたが、同時に自負心を強く刺激した。

 幼き時のように無邪気に手を繋ぐことはできずとも、決して誠之進の『手』を放してなるものか、と。
右近と誠之進の友誼がどれ程のものであれ、自分と誠之進の間にも絆は確かにあるのだから…。


 『右近』という煌めく石が、三郎と誠之進の平和な池に投げ込まれた。
広がった小さな波紋は、時を経て、やがて激流となって三人を呑み込んでいく。

 三者三様の想いを胸に秘め、明和二年の夏が始まった。


夏木立 了



夏木立4|晩夏1

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