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七月六日の宵、高山城下は鮮やかに晴れ渡っていた。
七夕の祭りは前日から用意しておくのが習いである。
夕闇せまる頃、城下の家々の上には笹竹が高くかかげられ、五色にいろどられた色紙や短冊が、夜風にゆうるりと流れていた。
高山城、西の丸の藩主・三男、三郎信尭の屋敷でも、夕方から笹竹の用意を始めた。
今日は三郎の友人、筧松之助や神原倫太郎、誠之進の友で藩校剣術所の師範代、吉田小兵太を招いて夕餉を供にする。
小兵太は身軽な次男坊ゆえ、宴会=ただ酒と聞けばどこへなりとも顔を出した。
今日も午後からの剣術所の稽古を終えるや否や、慌ただしく何処かへ消えたと思ったら、七ッ半頃(午後五時)、小ぶりな竹駕篭片手に西の丸を訪なった。
春に知り合って以来、三郎と小兵太は妙に気があったようで、小兵太は既に何度か西の丸の屋敷を訪ねている。門番や下働きの者たちとも顔馴染みになっていた。
相変わらず月代も剃らない風体で、小兵太は勝手知ったる何とやらで台所に直行した。
数人の下女と供に笹団子作りに励む三郎の乳母、お福を見つけると、板の間に身を乗り上げるようにして、
「おい、お福、土産だ!」
大声を張り上げ鰻を駕篭からつかみだした。
「どうだ、うまそうだろう」
ほれほれと、お福の前で二、三度ゆすってみせた。
「ひいぃぃぃ〜!」
ぬめる鰻をいきなり鼻先につきけられ、お福は思わず後ろに仰け反った。
そのまま腰が抜けたように動けなくなっている。
お福はどじょうや鰻、細長くてぬめぬめ動くものが大の苦手なのだ。
「母上!いかがしました?」
母の悲鳴を聞き付け、裏手で薪を割っていた息子の源蔵が飛び込んできた。源蔵は三郎と同い年で乳兄弟。
性懲りもなく鰻でお福をからかっている小兵太を見つけると、
「小兵太どの、またあなたですか!いい加減にしてください!」
土間から大声で怒鳴りつけた。
小兵太は悪びれた様子もなく、
「こら、源蔵! 『小兵太どの』とは何だ。師範代と呼ばぬか、師範代と」
土間に降りてくると、胸をそびやかして源蔵の前に立った。
(何ですか…偉そうに。子供みたいな真似をしといて…)
源蔵は小兵太の小言をあっさり聞き流し、ずいっと下から相手の目を見据えて尋ねた。
「で、その鰻は今晩のごちそうですか?」
「そういうこった。おまえ、捌けるだろう?」
「七夕にはもう少し上品なものを用意するんですけど…」
「いいじゃねえか、三郎の好物だろ。鰻」
「…はいはい。せっかくの御厚意ですからね。心をこめて捌かせていただきますよ」
源蔵はいかにも渋々といった風に小兵太から駕篭を受け取ったが、中を見て思わず目を輝かせた。
丸まると太った立派な鰻が三尾。
源蔵の口の中にじわりと唾が溢れた。
肝吸いと蒲焼きと、一匹は白焼きにしてもらおうか…。
考えただけで腹がぐうと鳴った。
あとで江戸から来た料理人の嘉助に存分に腕を振るってもらおうと、
源蔵は喜々として鰻を捌きにかかった。
小兵太は源蔵の姿を可笑しそうに眺めると、
「じゃあ、ちょっくら上がらせてもらうぜ」
と、案内も乞わずに台所から母屋の方へとずかずかと上がりこんでいった。
*
母屋にある書院では、三郎と守役の溝口誠之進、松之助、倫太郎がすでに顔を揃えて、短冊に願いごとを書いていた。
誠之進は三郎より十一歳年上の二十四歳。
上席家老、溝口主膳の嫡男で、四年前から三郎の守役としてこの屋敷で暮らしている。
松之助は十二歳と三郎より一つ年下ながら、去年の秋に素読吟味に合格し、高山藩校「宗道館」でも櫻田右近以来の秀才と誉れが高い。一方、来年十五歳になる倫太郎は、ぜひともこの秋には素読吟味に合格したいと意気込んでいる。
嫡男の倫太郎は、素読吟味に合格せねば家督をつがせてもらえない。次、三男にしても、合格せねば養子の声もかからず、一生肩身の狭い部屋住みとなってしまう。
たかが素読吟味といえども、武家の少年たちにとっては人生最初の関門なのであった。
願いごとの短冊を前に、三人の少年はそれぞれ考えを巡らせていた。
やがて真剣な面持ちで倫太郎が筆をとり、『素読吟味合格』と太いしっかりした文字でしたためた。
松之助はそれを横目で見ると、年下のくせに「それしかないでしょう」と微笑ましそうに頷いた。
「松之助は何を願うのだ?」
誠之進に問われて松之助は少し頬を赤らめながら、短冊の上に筆を滑らせた。
三郎が首を伸ばして、横から松之助の手元を覗き込んだ。
「そなた…勘定奉行になりたいのか?」
松之助は恥ずかしそうにこっくりうなずいた。
松之助の家は勘定方だが、家格としては中の下だ。おまけに次男である。
そのような者が奉行になりたいとは、言ってみれば大それた望みなのだ。
世間に向かって大きな声では言えないが、三郎や誠之進の前なら許されると思ったのだろう。
未だ、藩内の地位や職務は家格をもとに決められ、神童と呼ばれる松之助でさえ、斯様な遠慮をする時勢だった。
「松之助ならぴったりかも知れぬな。誠之進!」
「ええ…」
華やいだ声で同意を求める三郎に、誠之進は当たり障りのない笑みで応えた。
(早晩、そのような時代が来るやもしれませぬな…)
誠之進は胸の中で呟いた。
江戸中期。すでに幕藩体制も確立し、太平の世となり百年以上が過ぎていた。
貨幣経済も浸透し、従来の年貢米に頼るやり方では、藩財政はたちゆかなくなりつつある。
上席家老の溝口主膳は、こと相続問題に関しては極めて保守的だったが、財政に関しては、時代の変化を感じ取る鋭敏さを持ち合わせていた。
主膳はあと数年で家督を嫡男の誠之進に譲るつもりだった。
もはや自分の代で政策の大転換を行う気はなかったが、誠之進の代には、中級藩士の出でも優れた人材がいれば、勘定方の官吏に登用していく必要があると感じていた。
主膳は六年前から藩主信輝公に働きかけ、毎年、有望な青年を一、二名選抜して、江戸留学の機会を与えた。その一期生にあたるのが、誠之進と、藩校設立以来の秀才と呼ばれた櫻田右近である。
誠之進の古い友人とはいえ、右近も中級藩士の家の出だ。
留学を兼ねた江戸詰めは、身に過ぎた厚遇と、一部の上士の間で反感を買っていた。
右近はお追従のできぬ気性ゆえ、当初、江戸藩邸内でも浮いていたが、年を経るにつれ処世術も身につけたのか、ここ一、二年は留守居役や江戸家老など、上役の覚えもめでたかった。
後から聞いた話しだが、昨年、江戸留守居役の堀田が引退する時、右近を次席に推したという。
結局、今回帰国することになり、それは実現しなかったが、右近は殿や惣一郎の信頼も篤く、いずれは藩政に関わる立場になるだろう。
既に新しい風は吹いている…と、誠之進は思った。
今はこうして三郎ぎみの守役を勤めているが、遠からず、誠之進は家老職を継ぎ、守旧派の重臣たちを抑えていかねばならない。
決して平坦な道ではない己の未来を、ふと思わずにはいられなかった。
「誠之進様…?」
倫太郎の遠慮がちな呼び掛けに我にかえった。
松之助と倫太郎が、短冊片手に誠之進を見つめている。
自分は余程厳しい顔をして黙り込んでいたのだろうか?
普段、豪放な倫太郎には珍しく、揺れる眼差しで誠之進の表情を伺っていた。
誠之進は目元を和ませて、再び会話に加わった。
「…すまぬ。ちと、よそ事を考えておった」
誠之進は努めて明るい声で笑い、三郎のほうを見やった。
三郎はといえば、相変わらず両手に筆と短冊を手にしたまま、じっと端座している。
やがて、筆を硯に置くと小さな息をついた。
願いごとを書き終えたのかと、誠之進がにじり寄って手元をのぞきこむと、短冊は白紙のままであった。
「三郎ぎみ…?」
誠之進が怪訝そうな目で問うと、三郎は一瞬、誠之進の瞳の奥を見つめ返したが、すうっと視線を流して呟いた。
「短冊には書かぬ」
きっぱりした声音で三郎が言った。
「……」
戸惑う誠之進の眼前で、三郎は象牙色の頬に透き通るような笑みを浮かべた。
「今はまだ誰にも教えぬ…。胸の中にしまっておく」
穏やかでありながら真剣な声音だった。
「…私にも教えてくださらぬのですか?」
三郎は睫を伏せて首を振った。
「そなたにも内緒じゃ」
今まで見た事もない大人びた眼差しで、三郎はまっすぐに誠之進を見つめた。
*
「で、守役どのは、すっかりいじけてしまったというわけか?」
小兵太はいかにも可笑しそうに喉の奥で笑った。
笹団子など七夕らしいご馳走に、なぜか鰻づくしが加わって、夕餉の膳はいつになく賑やかだった。少年たちは旺盛な食欲で料理を平らげ、小兵太を喜ばせた。
わざわざ昨日から川に罠を仕掛けて、鰻をとった労が報われた。
夕餉の後、ひと休みして松之助と倫太郎が家に帰り、三郎も居室に引き揚げた後、誠之進は自室で小兵太と酒を酌み交わしていた。
源蔵が作った秘蔵の塩辛を肴に、小兵太は「子供らがいなくなって、やっとゆっくり呑めるわ」と上機嫌であった。
今夜の誠之進は常よりも酒量が多い。しかも、あまり愉快な酒ではない。
先程の短冊の一件もだが、最近、三郎があまり自分にまとわりつかなくなったというか、他人行儀になったように思えてならないのだ。
「少し前までは何でも話してくださったのに…。
藩校へ入学してからもしばらくは、ご友人のことや日々の出来事を、それは事細く話してくださったのだぞ…」
悄然と肩を落とす誠之進を横目で見つつ、小兵太は塩辛を手でつまんで口に放り込んだ。
「入学したては何かと目新しいからだろう。落ち着いてくれば、とりたてて報告するような話もなくなるってもんだ」
ああ、あほらしい、とばかりに小兵太は大欠伸を洩らした。
誠之進はますます大きな背中を丸め、
「…先日、右近と立ち合ったとき、不様な剣を見せてしまったからのう…。すっかり信用をなくしたのやもしれぬ」
「おぬし、先程から何をぐたぐた女々しいことを言っておる?」
「女々しいとはなんだ! 失敬な」
精悍な眉の下、鳶色の瞳が小兵太を睨んだが、
「三郎に相手にしてもらえぬのがそんなに寂しいか?」
呆気無く図星をさされ、誠之進は眉をしかめて杯をあおった。
「誠之進、三郎は三郎で色々考えておるようだぞ」
「だから何なのだ…」
「いちいち突っかかるな。馬鹿者」
憮然とした誠之進は徳利をひったくると、手酌で溢れんばかりに杯を満たした。
小兵太は脇に抱えた壷から、塩辛を箸で多めに摘んで誠之進の小皿に載せてやった。
「三郎もな、早く一人前になりてえんだよ。強くなりたいとか、立派な男になりたいとか…。なんかいじらしいじゃねえか」
「おぬしに左様なことが何故わかる?」
「…三郎がそう言ってたぜ」
「若が…?」
なぜ三郎ぎみが私を差し置いてお前などに話すのだ…?
誠之進の瞳が不審と落胆で見開かれた。
小兵太は鼻先でと笑ったが、ふと真面目な声音に戻って呟いた。
「…三郎はおぬしに認めて欲しいのだ」
「なに…」
「…右近が帰ってきたことで、刺激されたんじゃねえか?」
「右近?」
誠之進は増々混乱した。
右近に何の関係があるのだ?
誠之進の胸の内を見透かしたように、小兵太がわざとらしく溜息をついた。
「おぬし…相変わらず、信じられないくらい鈍い奴だな」
「何だと?」
「い〜や、べつに」
小兵太は誠之進にくるりと背中を向けると、股ぐらに塩辛の壷を抱え込み、蓋をしながら小声で独りごちた。
『鈍いというか…。好きな奴ほど目が眩んで、相手の本音が全然読めてないってとこか…』
「おい、何をぶつぶつ言っておるのだ?」
『おぬしも成長せぬなあ…。たのむから藩校時代の二の舞いはやらかすなよ…』
小兵太は誠之進の問いには答えず、しっかり壷の蓋を閉め終ると、向き直って言った。
「んじゃ、愚痴は十分聞いてやったからな。俺はそろそろ失礼するぜ」
「なんだ、まだ早いではないか?」
「おぬしもそれくらいにしておけよ。明日、城で式典があるんじゃなかったのか?」
確かに…と言葉に詰まる誠之進だった。
守役が二日酔いでは、三郎ぎみが恥をかく。
誠之進は塩辛の壷を抱えて去っていく小兵太を、縁側から見送った。
澄んだ夜空には、牽牛・織女、二つの星のあしたを祝福するがごとく、すでに天の河がながれていた。
「三郎ぎみはもうお休みになっただろうか…」
三郎の部屋を訪ねて一緒に星を見たかったが、今夜はかなり飲んでいる。
酒臭い、と嫌われるのも考えものだった。
誠之進は再び室内に戻ると、畳の上に大の字に寝転がった。
見なれた天井が、今夜はやけに高く見える。
ぼんやりと木目を数えながら、誠之進は酔った頭で三郎のことを考えていた。
文字どおり、自分のことは後回し、三郎のことだけを考えて生きてきた四年間だった。
過日、右近に指摘されたように、剣の腕もすっかり錆び付いてしまい、最近朝稽古を再開してようやく勘が戻ってきた有様だ。
だが、自分の稽古不足を恥はしたものの、三郎のために費やした時間に悔いはない。
藩主因幡守も三郎の成長ぶりをことのほか喜んでいるが、誰よりもそれを誇りに思っているのは、他ならぬ誠之進自身だった。
三郎が成長して誠之進の手を離れ、一人前の男としての自覚を持つ。
それは守役としての勤めを無事果たしたことを意味し、本来、肩の荷が降りたと安堵すべきではないのか…?
されど、この隙間風の吹くような寂寥感はいったい…?
「愚かな…」
誠之進は深い溜息とともに、すっと瞼の力を抜いた。
三郎ぎみは所詮自分の子供ではないのだ。身内ですらない。
守役として、分相応の役目を果たせばそれでいいことではないか?
臣下の分際で、いつまでも己の手の中で守りたいと思うほうが間違いであろう。
それに…。
元服なされば否応なく別れが来るのだ。
分家という可能性もなくはないが、三郎ぎみはおそらく他国へ養子に出される。
自分は国家老として父の跡を継ぐ。
それは最初から予定の行動ではなかったか?
大名家の子息として、どこへ出しても恥ずかしくない若君にお育てすることが、自分に課せられた役目だったはずだ。
この屋敷での生活もいずれ終るのだ。
笑って三郎ぎみを見送らねばならぬ…。
今からこんなに切なくてどうするのだ…。
「どうかしているな…、今日は」
小兵太の前だと気が弛んで飲み過ぎたのだろう。
着替えはおろか、もう起き上がって夜具を敷く気にもなれない…。
加賀屋へ三郎を迎えにいった日。
城の生活に馴染めず、寂しがる三郎に添い寝した夜。
初めて自分の馬を手に入れて、喜々として世話をする三郎の笑顔。
母を遠回しに侮辱され、土蔵の中でひとり悔し涙にくれていた三郎。
その姿を見つけた時の、胸を締め付けられるような愛しさ…。
酔いがまわり思考が朦朧とする中、尽きぬ思い出が次から次へと浮んでは消えた。
やがて誠之進は畳の上に寝転がったまま、かすかな寝息を立て始めた。
夢の続きは甘やかで、苦い泪の味がした。
つづく
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