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上席家老・溝口家屋敷。離れの誠之進の部屋。
「若様、お客人のお布団を運んで参りました…」
「ああ、文吉か、入れ」
祖父の代から勤める側仕えの老爺、文吉が、下男見習いの少年とともに夜具を運んできた。
手早く布団を敷いていく二人のために、誠之進が行灯の灯心を起こして、部屋を少し明るくしてやった。
文吉は誠之進が繦(むつき)をつけていた頃から仕えている。
誠之進が屋敷を出て西の丸に移り住むまでの二十年、髪結いから何から、身の回りの世話はすべて文吉がこなした。
文吉は、十代の頃、屋敷へ遊びにきた右近のことをよく覚えており、右近が新たな役目を賜り国許へ戻ったことをたいそう喜んでいた。
実は最近、文吉の所属する碁将棋会所に、櫻田家の用人、池田孫作が入会し、身分は違えど囲碁仲間として親しく付き合い始めたようだ。
池田孫作は右近に爺やと慕われ、いまだに右近を「白菊丸」様と幼名で呼ぶ、いささか困った御用人様なのだが、先代当主の右近の父が早くに他界して以来、蒲柳の質の奥方を支えて家を守ってきた忠臣である。
似たもの同士の二人が意気投合するのは自然のなりゆきだった。
「お役目熱心なのは結構だが、誠之進様は最近ちっともお屋敷へお戻りにならない」
文吉のぼやきを聞いてやりながら、右近は江戸から自分が戻ったときの、孫作の様子を思いだしていた。
「何と、御立派になられて…。白菊丸様っ、ようお戻りなされました。じいは…爺は嬉しゅうございます…ううっ……」
皺だらけの目元に涙を滲ませて、孫作は裃の肩を震わせていた。
ご家老のご息女と縁談…などと聞けば、
「おお、これで爺も思い残すことなく、あの世へ参れまする」
それこそ感涙にむぜぶのだろうな、と右近は苦笑した。
*
結局、あれから主膳の居室で、誠之進を交えて随分と話し込んでしまった。
離れの誠之進の部屋に戻ってきたのは、ほとんど深夜に近かった。
家族や使用人たちはほとんど床についていたが、文吉と下男の少年だけは、まだ何か御用があるだろうと寝ずに控えていた。
断続的な虫の音と、ほうほうと、時折思いだしたように鳴く梟の声が、深夜の澄んだ空気を揺らした。
夜具を敷き終えた二人が退出すると、誠之進と右近は寝間着に着替えた。
誠之進が行灯の火を消し、半間(90cm)ほど離して敷かれた二組の夜具に、誠之進と右近はそれぞれ身を横たえた。
今宵、溝口家に泊るなど、まったく予定外の出来事だった。
ましてや誠之進と一つ部屋で布団を並べて休むなど、思いがけない事態になったものだ。
国許へ帰るとき、不安がなかったといえば嘘になる。
江戸の生活は、良くも悪くも右近を変えた。
誠之進のほうも、今は守役という立場上、三郎べったりである。
昔のような肝胆合い照らす付き合いができるのだろうか…と。
だが、それは杞憂に終りそうだ。
お互い成人して役目もある。
藩校時代のように毎日のように会い、共に文武に励むというわけにはいかないが、剣を交えたり、語りあううちに、昔と変わらぬ空気が二人の間に戻ってきた。
「…隣同士で休むなぞ、藩校の合宿以来だな…」
かすかに笑いを含んだ声で、右近は誠之進の横顔に話しかけた。
「ああ。臨済寺で皆と一泊したなあ…」
誠之進らが十七歳の頃、当時の兵学教授の呼びかけで、藩校をあげての大掛かりな軍事教練があった。
年長組の生徒数十人は、寺を宿舎に枕を並べて一泊したのだった。
「しかし、あの教練はひどかった。大砲はおろか、鉄砲の一丁も使わぬ演習とは…時代錯誤も甚だしい。あのような教授、殿もお暇を出されて正解だったな。」
「まったくだ。されど、私には小兵太のいびきのほうがこたえたぞ。くたくたに疲れておったのに、一睡もできなんだのだ」
誠之進は吹き出すと、頭だけ右近の方へと向きを変えた。
障子戸から透けて入る弱々しい月明かりで、相手の輪郭がかろうじてわかる程度だったが、半間の間を挟んで二人は微笑を交わした。
二人は小兵太のいびきに始まり、藩校時代の思い出話にしばし花を咲かせた。
誠之進と二人、枕を並べて他愛ない会話を続けていると、右近はふと時が止まったような錯覚を覚える。
江戸で暮らす佐久間や、昔の友人たちの話をしながらも、右近が本当に懐かしく思い浮かべていたのは、十六の時、今町湊の浜辺で誠之進と二人で過ごした夜のことだった。
*
あの時…。
もし自分が「振り返っていたら」、その後の二人の関係は変わっていたのだろうか?
今町湊へ遊びにいった夏の日。
夜、宿を探すには時刻が遅すぎ、浜辺の廃屋を見つけて夜露をしのいだ。壊れた漁具と網以外、小屋の中にはむしろの一枚も残っていなかった。誠之進がおこしたたき火で暖をとりながら、二人は砂の上に並んで横たわって眠った。
たき火もとうに消えた明け方……背中から柔らかく抱きしめられて目が醒めた。明け方のちょうど気温が下がる時刻。誠之進はただ、肌寒さからぬくもりを求めただけなのだろう。
しかし、くるみこむように回された腕の暖かさに、右近の胸は疼いた。寄り添うぬくもりに、不覚にも涙がこぼれた。背中で感じた誠之進の力強い鼓動を、右近は長い間忘れることができなかった。
思えばあの時が、肉体的なものを伴った誠之進への「恋」を、はじめて自覚した瞬間だったのかもしれない。
誠之進の行動が何だったのか、振り返って確かめていれば…。
後悔の念に襲われる度に、右近は自分に言い聞かせた。
「きっと何でもなかったのだ。誠之進は多分寝ぼけていたのだろう。寒さから身を寄せてきただけなのだ」
他にどんな理由があるというのだ。
邪な想いを抱いているのは自分だけ…。
誠之進は男に欲情などしない。
現に今町湊へ皆で遊びにきたのだって…。
以後、右近はその夜の事を一度も口にせず、誠之進もまた然りだった。
*
口中にあの時の涙の味が蘇ってきた。
「…右近?」
「あ…」
すっかり物思いに耽っていたらしい。
話を聞いていないことに気付いたのか、誠之進が右近の名を呼んで、じっとこちらを見つめていた。
「す、すまぬ。少しうとうとしていた…」
「よいのだ…。父上に大分呑まされたからな」
誠之進は軽く笑い、天井を見上げて言った。
「右近、眠る前にひとつだけ聞いてよいか?」
「ん?」
「志保を…もらってくれるのか?」
今町湊の思い出に浸っていたところへ、いきなり現実の話に戻されて、右近の思考が一瞬混乱した。
応えのないのを訝ったのか、誠之進がこちらへ向き直る衣擦れの音がした。
「貴公は…この縁組、承知するつもりなのか?」
右近は瞼を閉じて深く息を吸った。
「…せっかくのご家老のご厚意だ。志保殿が嫌と申されぬ限り、私としては喜んでお受けするつもりだ…」
「父上は…昔から貴公のことを買っておったが…、ここまで気に入っておるとは正直私も驚いた」
「…そうだな。家柄からいえば、わが家のような格下の家に志保様をくださろうとは…思いきったことをなさる…」
「…父上のことはともかく、貴公、志保を好いておるのか?」
単刀直入な問いかけに、右近の闇色の眸が大きくなった。
「…嫌いではないぞ」
「…嫌いではない、だけで妻に迎えるのか?」
「誠之進…。なぜそのようなことを尋ねる?」
押し黙った誠之進を前に、右近が続けた。
「武家の婚姻とはそのようなものではないのか?」
「…わかったようなことを言うな」
闇の中、誠之進がかすかにこちらを睨んだような気がした。
右近は苦笑すると、
「…志保殿は、しばらく会わぬうちにすっかり大人びて美しゅうなられた。私のようなものには過ぎた話と心得ておる」
「そのような、教科書のごとき答えが聞きたいのではないわ」
誠之進は拗ねたように呟くと、再び天井を見上げ、上掛けを肩までしっかり引きあげた。
(ならば、惚れぬいた相手となら、必ず一緒になれるというのか?
そうではないだろう…)
右近はかすかな憤りすら感じながら、誠之進の横顔を見つめた。
夜具の上に半身を起こし、上から見下ろすように語りかけた。
「貴公のほうこそ、溝口家の嫡男ではないか。そろそろ嫁取りの話が出てもおかしくない頃だろうに。まだ何も話はないのか?」
「……」
「誠之進、狸寝入りはよせ」
「……」
「誠之進!」
応えはなかった。
「私は…貴公にも志保にも幸せになってもらいたいだけだ…」
ややあって、仰臥したまま誠之進がぽつりと呟いた。
今度は右近が黙って友の言葉に耳を傾けた。
「お互いが好意を持っているのならよいが、政略結婚のようなものは好かぬのだ」
「名家に生まれた貴公が何をいうかと思えば…」
「青臭いと言いたいのだろう…」
「そうはいっておらぬ」
暖かく、あやすような右近の声音に、誠之進は寝返りを打って再び右近に向き合った。
「…右近。志保と夫婦になろうがなるまいが、貴公の身は父上と私で守る」
「誠之進…」
「吟味役とは辛い仕事よな。人の恨みを買うやもしれぬ…」
「誰かがやらねばならぬのだ」
「内藤は手強い。独り勝手に危ない橋は渡るでないぞ。必ず父上や私に相談してくれ」
「……」
「よいな、右近」
低い声音で念を押す誠之進に、
「承知した…」
右近は静かに頷いた。
誠之進は安堵したのか、夜具の中で大きく手足を伸ばすと、まもなく穏やかな寝息をたて始めた。
「貴公が義兄となるのも悪くないかもしれぬな…」
聞こえるか聞こえないかの声で呟くと、右近は再び敷布の上に横たわり、上掛けを顎まで引き上げた。
志保を娶って溝口家の親族となれば、だれ憚ることなく一生誠之進の側にいられる。
誠之進が家老となったあかつきには、右腕として生涯彼を支えるのだ…。
それが想いを貫き通す、一つの形になるやもしれぬと右近は思った。
誠之進を愛する気持は、透明で美しい結晶のごとく、右近の中でもっとも純度の高い感情であった。
雲が切れたのか、月が少し明るくなった。
右近は隣の布団に眠る誠之進を、夜具の中から飽くことなく見つめていた。
闇の中、端正な輪郭が浮びあがる。
見つめながら、誠之進の眠る気配を探って、五感の全てを研ぎすませた。
耳を澄ませば聞こえる、深く穏やかな寝息。
寝間着の下、ゆるやかに律動をきざむ心臓の音。
胸元から漂う、かすかな誠之進の匂い…。
つかの間、心地よい酩酊に浸る。
(誠之進…)
今町湊の記憶が今に重なる…。
あの時、布越しに身体を寄せあっただけで、誠之進のぬくもりは右近の身も心も蕩かした。
今、同じぬくもりが半間先にある。
吸い寄せられるように、ひたと視線をあてたまま、右近は自分の寝間着の袷目にそっと手を差し入れた。
既に熱を持ち始めた膚の下、胸の鼓動がゆっくりと確実に高まっていく。
息が…苦しい。
もどかしいような疼きが下腹から這い上ってくる。
身体中の血管が、うるさいくらいに音をたてて脈打ちはじめた。
誠之進に触れたい…。
触れたくてたまらなかった。
布越しではなく、肌と肌で触れあったらどのような感じだろう…。
吐息もひとつに溶け合うほど近く、唇を寄せてみたら…。
誠之進の唇は甘いだろうか…?
唇で、歯で、愛しい肉を咬んでみたい…。
秘肉をかきわけて、躯の奥深くまで誠之進が入ってくる。
ゆるやかに、時に激しく、右近を絶頂へと追い上げる。
自分の中で果てるとき、あの秀麗な顔がどんな風に快楽で歪むのか…。
どんな声で自分の名を呼ぶのだろう…。
『右近… ! 』
狂おしいほどの渇望が胸を灼く。
右近は既に知っていた。
肌をまさぐる人の手の熱さ。
舌と舌を深く絡ませたときの、息苦しいような陶酔。
右近を引き裂き、蹂躙し、快楽の淵へと引きずり込む熱い楔。
躯に刻み込まれた感覚が、鮮烈に蘇る──。
『国許へ帰るなど、断じて許さぬ─』
鼓膜の奥で、惣一郎の声が聞こえた。
抑揚のない、凍り付くような声音だった…。
*
瞼の裏で閃光が弾けとんだ。
江戸で別れた主と自分のあさましい姿が、脳裡に映し出された。
圧倒的な現実感を伴ったそれは、白昼の通り魔のように右近を襲い、甘い夢想を粉々に打ち砕いた。
己の項で感じた惣一郎の熱い吐息と、汗ばんだ肌の感触が蘇る。
背筋を這い上がる記憶の生々しさに、右近は息を詰め、震える身体を両腕で抱きしめた。
「晩夏」 了
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