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宝暦十三年弥生。
誠之進が江戸藩邸を去って三度目の春がきた。
旧暦の江戸時代。上野の山は花の名所にして、二月末には彼岸桜が咲き始める。一重、八重、追々に咲き続き、弥生の末まで花がたえることがなかった。寛永寺の寺内ということで、平素、無用の者は山内に立ち入れない。花時に限って朝の六つ(午前六時)から夕の七つ(午後四時)まで、人々は門内に入ることを許され、爛漫と咲き誇る桜を楽しんだ。
池之端、高山藩中屋敷でも、昨日あたりから染井吉野が花の盛りを迎え、庭園内を巡れば白雲の中を遊ぶ心地であった。池の水も温み、春の光りを浴びて乱反射する水の下、錦鯉が元気に泳ぎまわっている。
櫻田右近が藩主嫡男・結城惣一郎とともに中屋敷に移り住んでから、はや二年余りが過ぎようとしていた。
右近の肩書きは側用人稚児小姓頭。三百石取り。用人と小姓頭を兼任したような役職だった。主の惣一郎に常住座臥仕え、主従の間にはたしかな信頼関係が生まれていた。
二十歳の、まだ上屋敷にいた頃の右近は、旺盛な反骨精神と一見権高な美貌のせいで、周囲から注目を集めながらも遠巻きにされている感があった。
惣一郎は中屋敷へ移る時、使用人は必要最低限の数に絞った。側近に関しては、右近を筆頭にお気に入りの者を厳選した。女色専門の惣一郎は、小姓に伽をさせるつもりはなく、容色よりは、気ばたらきのできる少年を選んで中屋敷へ伴った。
親友の誠之進が国許へ去ったとき、他に親しい朋輩もいなかった右近は、淡々と役目をこなしながらも、人の多い藩邸内で孤独をかみしめていた。しかし、惣一郎に乞われて中屋敷に移ってからは、格式ばらない和やかな雰囲気に慰撫されたのだろう。中屋敷には人が少なく仕事は多忙を極めたが、右近の漆黒の瞳には生気が戻り、小姓達と談笑する姿も珍しい光景ではなくなった。
仙之丞を始めとする小姓たちにも上司として慕われ、主に屋敷の財務を担当する用人の仕事にも、その才覚を遺憾なく発揮していた。
*
「右近様、若殿がお召しです」
今年十七歳になった小姓の仙之丞が右近を呼びにきた。
一日の執務を終え、右近は幕臣の知人から借りた書物を読んでいたところだった。
「すぐ参る」
右近は書を片付け、身支度を整えると仙之丞の後に続いた。
「右近様をお連れしました」
次の間から仙之丞が声をかけ、襖を開けた。
惣一郎は脇息に脇を預けて、書状に目を通していた。
右近が入室し、襖をたてて入口近くに端座すると、
「右近、…これへ」
惣一郎は側近くを扇で指し示した。
右近は言われた通り、主の側まで歩み寄り着座した。
「先刻そなたが取次いでいった、堀田の爺からの書状だ。」
惣一郎は読み終わった書状をたたみながら、右近に微笑んだ。
堀田の爺とは、上屋敷の江戸留守居役、堀田又左衛門である。
生まれてこのかた江戸暮らしの惣一郎は、幼い時からこの重臣に親しんできた。
「…爺が、今年で隠居したいと申しておる」
「それはそれは…」
突然のことに、右近は軽い驚きを覚えた。
堀田は江戸留守居役を三十年近く勤める、高山藩の重鎮である。人脈も広く老練な堀田は、藩の外交官たる留守居役を長きに渡って勤めてきた。自他ともに認める有能な留守居役だったが、確かもう還暦をいくつも超えている。年齢からいうと、ここらあたりで惜しまれつつ退くのが花かもしれない。
新しく召し抱えられた小姓が、桜湯を運んできた。あっさりとした塩味に、仄かな桜の香が漂う。主従は春の味を楽しみながら話を続けた。
「堀田様におかれましては、長年のお勤め、まことに御苦労様にごさりました…」
しみじみ頷く右近に、
「うむ。引退後は巣鴨のあたりに家でも買って、花を作って暮らしたいそうじゃ」
「では江戸に残られるので?」
「堀田の爺は、確かずっと江戸暮しじゃ。もはや他所の水は飲めまい…」
「…確かに。仰せの通りかもしれませぬな…」
「ところで、右近」
惣一郎は一旦言葉を切り、手遊びに扇を半分広げたり閉じたりしている。
右近が問うように見つめると、
「堀田の爺の後任だが…、次席の岩田善次郎が繰り上がって、留守居役になるそうだ」
そなた、どう思うといわんばかりの、けしかけるような眼差しで右近を見た。
右近は一瞬わずかに眉をしかめたが、
「席次からいっても順当な人事かと…」
当たり障りのない答えで、桜色の唇の端に笑みを浮かべた。
「ふむ…」
惣一郎は感心したように相手を見つめた。
「そなたも口がうまくなったのう」
「はて…私は思ったままを率直に申し上げただけ…」
済まし顔の右近を前に、惣一郎は堪え切れずに吹き出した。
「…惣一郎様、何がそのように可笑しいのですか?」
どうせ、とんがっていた昔と比べて成長したとか何とかおっしゃりたいのだろう、と、右近は面白くなさそうに視線をそらした。
「ゆ、許せ…」
謝りながらも笑い止まない惣一郎を、右近はぴくりと片眉をあげて睨んだ。
「だが、ほれ、そのほうが余程そなたらしくて良いわ」
嬉しそうに反応する惣一郎に、
「…御用がお済みでしたら、私はこれにて」
右近は憮然として言い放つと、わざとらしく礼をしかけた。
「ああ、待て。まだ続きがあるのだ」
慌てて笑いを納めた惣一郎があらためて右近に向き直り、一転して真面目な声音で言った。
「堀田の爺が、そなたを留守居役次席に推挙しておるぞ」
「…私を…でございますか?」
予想外の展開に、右近は目をみはった。
上屋敷で過ごした二年間、その後中屋敷に移ってからも惣一郎の使いで藩邸に出向いた際、堀田とは頻繁に接触しているが、留守居役の御用部屋に勤めたこともない右近は、いってみれば部外者。次席に推される理由が皆目見当つかなかった。
首をかしげる右近に、
「…まあ、身供も詳しいことは判らぬが、堀田は百戦錬磨の留守居役であるからして…人物を見る目だけは確かだ」
「ありがたきお言葉にはございますが…」
堀田が自分を評価してくれるのは嬉しいが、正直いうと、堀田の後を襲う、俗物の岩田善次郎の下で働くのはご免被りたかった。
我知らず右近が洩らした溜息を聞き付け、惣一郎がさもありなんと頷いた。
「岩田が上司では、確かに面白くなかろうが…」
また茶化されるのかと思いきや、惣一郎は真剣な声音で続けた。
「身供が藩主になったあかつきには、そなたを留守居役にするのも悪くないと思うておる」
「惣一郎様…?」
「それまで、ひとつ堪えて何年か岩田の下で勤めてくれぬか?」
「本気でそのようなことをお考えですか?」
「うむ…そなたには江戸の水が合うと思うたが…」
右近は肯定とも否定ともつかぬ、曖昧な笑みで応えた。
「…まあ、返事は急がぬ。最終的には父上がお決めになることであるし…」
「仰せの通りにござります」
「…だが、堀田の爺ともども、私からも父上にお願いするつもりだ」
「…もったいなきお言葉にござりまする」
右近は畳に手をついて深々と頭を下げた。
*
夕暮れ時、右近は久しぶりにひとり町へ出た。
夜桜見物に繰り出す人々で、日没近くなっても通りは賑やかだった。
花見客をあてこんで、川岸には普段よりたくさんの屋台が出ている。雪洞があちらこちらに灯る中、人々は思い思いの場所で夜桜と屋台の味を楽しんでいた。
右近は人混みから少し外れた場所に、昔から馴染みの蕎麦屋を見つけ、縁台に腰を降ろした。
「親爺、盛りと燗酒をたのむ」
「へい」
誠之進が江戸にいた頃から、よく通った屋台だった。花見時に限らず、普段からこの界隈で、武家屋敷の勤番侍を相手に商いをしている。いかにも愛想のない親爺だったが、蕎麦の味が確かなのと、客の話に口を挟まないのが、かえって右近には好ましかった。
右近は運ばれてきた蕎麦をたぐりながら、自分を留守居役にという惣一郎の話を反芻していた。
藩の外交官といわれる留守居役は、いわば江戸屋敷のナンバーツーである。場合によっては江戸家老より力を持つこともあった。
勘定方の中級藩士の家に生まれた右近にとって、これ以上は望めぬほどの栄達である。役目柄、藩主とともに江戸城にも登城する。幕閣での田沼意次の奮闘を、間近で見聞きできるのだ。
魅力的な提案だった。
しかし、江戸留守居役ともなれば、その任を解かれるまで国許には帰れぬ。
右近は燗酒をゆっくり口に含んだ。
(誠之進はおそらくこのまま国許だろう…。留守居役など引き受けては、次に会えるのはお互い鬢に霜が混じった頃かもしれぬな)
軽い溜息をついたところ、むこうから紺無地の木綿羽織りをつけた武士と年の頃、七つか八つの少女がやってきた。
「美和、そなた何が食べたい?」
「みわは…『あられそば』が食べとうござります」
「よし…ではここで待っておれ」
父親は縁台の空いた場所に娘を座らせ、自分は屋台へ蕎麦を注文しにいくところだった。
微笑ましいやりとりにつられて親子を見やると、父親のほうと目があった。
(…せ、誠之進?!)
目をしばたいて見つめる右近に、父親が軽く会釈した。
心の臓が一瞬止まるかと思った。
背格好や顔だちが誠之進に瓜二つだった。
右近は吸い寄せられるように相手を見つめた。
だが、よく見れば年も自分や誠之進よりは大分上のようである。
(誠之進がここにおるわけがないであろう…)
「こ、これは御無礼を」
右近はいきなりじろじろ見つめてしまった非礼を詫びた。
「知り人にあまりにも似ておられたので…」
父親は親しみやすい笑みを浮かべて、首を小さく横に振った。
「いやいや、こちらこそ、勝手に隣にお邪魔いたして申し訳ござらぬ」
逆に詫びられ、右近は恐縮して再び頭を下げた。
親子は右近の隣で並んで行儀よく蕎麦を食べている。
娘が小柱入りの熱い汁蕎麦を頼んだものだから、汁で火傷をせぬかと心配の様子だ。
『世話やき』なところがまたもや誠之進を思いださせ、右近は苦笑した。
きちんと羽織りをつけ、月代を綺麗に剃った身なりからして、どこかの江戸詰め藩士であろうか? 右近はふと興味をひかれて尋ねた。
「率爾ながら、どちらのご藩中でありましょうか? 某は越後高山藩中屋敷用人、櫻田右近と申します」
「某は下総中岡藩上屋敷奥右筆。日下賢吾でござる」
右近と日下は改めて目礼を交わした。
「娘御と夜桜見物にござりますか?」
「はあ…日頃御用繁多でなかなか構ってやれませぬもので…」
日下は照れくさそうな笑みを浮かべて応えた。
今度は日下が右近のことを尋ねた。
「…失礼ながら、その若さで御用人とは…某、正直驚き申した」
日下は感嘆したように右近を見つめる。
「何の、他に人がおらぬだけにござります。中屋敷の主は殿の御嫡男で、ちと天の邪鬼なお方でして…」
「ほう…」
「格式ばったことがお嫌いなので、私のような若輩に用人などさせております」
「なるほど…」
いずこも若殿の気紛れは同じなのだろうか。
日下は「お手前も気苦労が耐えませんな」と微苦笑を洩らした。
「…お父上さま」
蕎麦を食べ終った娘が、早く参りましょうと父親の袂をひっぱている。
「これ…」
日下は軽く嗜めたが、娘を見る目はどこまでも優しかった。
右近は口元に笑みを浮かべ、早くお行きなされ、と目で促した。
日下は頷いて縁台から立ち上がった。
「ではお先に」
右近にゆっくりと一礼し、娘の手をひいて花見客の人波の中へと戻っていった。
(誠之進が親になったら、あのような感じだろうか…。)
右近は日下親子の背をぼんやりと見送りながら思った。
*
誠之進と離れて暮らした三年間。別れた当初は寂しさで気が狂うかとも思った。誠之進との想い出は片時も右近を捕らえて放さず、文が来るのを一日千秋の思いで待った。
しかし、日々の御用に追われるうちに、気がつけば季節は巡り、今年で三度目の春を迎えていた。
結局、狂いもせず、中屋敷の用人として遺漏なく勤めている。右近は己の意外なしぶとさに苦笑した。
少年の日からひたすら誠之進を想い続けた。
十代の頃、誠之進の顔だちは凛々しく晴れやかで、伸びやかな肢体からは若さの精気が汚れなく匂いたっていた。
成人した今は美丈夫と呼ぶにふさわしい。父親譲りの整った一文字眉の下、少年時代と変わらぬ柔和な鳶色の瞳のおかげで、誠之進の容貌には覇気と甘やかさが絶妙なバランスで同居していた。
代々家老職を勤める名家に生まれ、自信と責任感に溢れた誠之進は、常に太陽のごとく周りを照らした。誠之進という男に友として認められ、誰よりもそば近くいられることが右近の幸せだった。
されど─。告げられぬ恋心は時に耐え難く、右近を追い詰めた。
強い腕に支えられ、広い背中に庇われる度に、何度打ち明けてしまおうと思ったかしれない。
それでも友情が終るのが恐ろしくて、右近は口を閉ざし続けた。
恋は叶わずとも生きていけるが、誠之進との友誼をなくしては生きていけないと思った。
胸の奥に大切にしまってきた、誠之進への想い…。このまま江戸と国許に離れて暮らせば、いずれ恋の想い出は清冽な流れとなって去りゆき、確かな友情の絆だけが残るのだろうか?
(私は…江戸に残ったほうがよいのかもしれぬ…)
おぼろな夜の月を見上げ、右近は嘆息した。生暖かく吹き抜けた夜風に流され、薄紅色の花弁がはらはらと右近の鬢に舞い落ちた。薄い花びらに指先で触れると、ふと懐かしい記憶が蘇った。
誠之進と江戸で別れた年の春。
吉原、仲の町の通りを埋め尽す染井吉野の波…。
桜花舞う春風の中、佇む誠之進の後ろ姿が、右近の閉じた瞼の裏に浮んでは消えた。
つづく
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