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弥生の末。
春の日はうららかに晴れていた。
惣一郎は右近や小姓を伴い、小ぶりな屋形船を半日借り切って向島へ出向いた。ここ数日晴天続きで、大川の流れもゆるやかだ。向島の桜はまだ葉桜になりきらず、花見時のおびただしい人出避け、静かに花を楽しむにはうってつけであった。去年の秋以来、久方ぶりの舟遊びに、小姓たちはもちろん、右近も心が浮き立つのを感じていた。
仙之丞は十四歳の時、小姓として召し抱えられ、前髪が取れた今も惣一郎の側近く仕えている。今では先輩小姓として、若い松之丞や竹弥の面倒見る立場だが、丸顔にどんぐり目という容貌も手伝って、どうにも幼さが抜け切れない。
時折へまをやらかして右近の失笑を買いながらも、誠心誠意仕える仙之丞の姿は微笑ましい。伽をさせる相手ではないものの、いるだけで周りを和ませる仙之丞を惣一郎は深く寵愛していた。
今日も名物の桜餅を買いにいくと言ってきかぬため、吾妻橋を過ぎたあたりの渡し場で、一度舟をつけて小姓たちを岸に降ろした。屋形舟には船頭と惣一郎、右近主従だけが残された。屋形の簾を巻き上げて、惣一郎は水上から見た向島の遠景を画帳に写し取っていた。
「…墨をもう少しお摺りいたしましょうか?」
黙々と画帳に絵筆を走らせる主に、右近が柔らかく問いかけた。
「うむ…」
手元に目線を落としたまま惣一郎はうなずいた。
右近は黙って微笑むと、静かに墨を摺り始めた。
惣一郎は今年に入ってから時々絵筆を持つようになった。玄人はだしの画才を持つ、父・信輝公の影響もあり、惣一郎は少年の頃から絵に興味を持っていた。父が絵を描く事を嫌う、母・お牧の方への遠慮から、一時は筆を置いていた惣一郎だったが、やはり絵画への情熱は止み難かったらしい。
冬の間は室内で手すさびに右近や小姓たちを描いていたが、外出のできる季節になると、待ちかねたように
画帳と矢立て(携帯の筆記用具)を持って写生に繰り出した。
芝居や吉原へはとんと足が向かなくなり、生活は一見極めて地味になった。実のところ、絵の具や唐渡りの筆など、費用はそれなりにかかっていたのだが、遊蕩に耽って散財するよりははるかに前向きな出費である。
右近は惣一郎の変化を好ましく思っていた。
用人としての仕事の合間に、惣一郎の側に控えて、墨を摺ったり筆を洗ったり、制作の手伝いをするのは、右近にとっても心休まるひとときだった。下絵が彩色を経て美しい作品に仕上がっていく様を、間近で見るのは面白い。
信輝公の繊細な画風に洒脱な趣きが加わった作風である。惣一郎はすでに独自の世界を構築しつつあった。
やがて、惣一郎が軽い溜息をついて筆を置いた。小休止するようだ。右近は無言で摺った墨汁を壷に移し変えた。
「仙之丞たちはいずこへ参った?」
先程、岸で降ろしたのをお忘れか?と、右近は苦笑した。
「桜餅を買いに参りました。ほどなく戻ると思われますが…」
「…そういえば腹が減ったかのう」
惣一郎は呑気に笑うと、大きく伸びをして肩をほぐした。
「拝見してもよろしゅうございますか?」
右近が画帳に視線をあてて問うと、惣一郎は子供のような笑みを浮かべた。
「では…」
右近は主のもとへにじり寄った。
画帳を惣一郎から受け取り、じっくりと眺めた。
遠景に諏訪明神、法泉寺を望み、手前に咲きこぼれる堤の桜が、繊細な筆致で描かれている。
「見事なものにござりますな…」
このままでも十分鑑賞に耐えるが、彩色した後の仕上がりが楽しみだった。
「誠にそう思うのか…?」
「はい」
右近は力強く首肯したが、惣一郎は何か物いいたげである。
「お疑いなのですか?」
「そういうわけではないが…」
珍しく歯切れの悪い惣一郎を、右近が訝しげに見つめた。
惣一郎は小さく咳払いをすると、
「ま、まあよい…」
きまり悪そうに遠くへ視線を投げた。
ぽかぽかと暖かい午後の日射しが、屋形舟の中にも差し込んでくる。水面に乱反射する陽光は目に眩しいほどで、右近は簾を半分まで降ろし、適度な日陰を作った。
一仕事終えた惣一郎は、急に眠気を覚えたらしく、
「右近…膝を貸せ」
右近が否という間もなく、左の頬を正座する右近の袴の上に凭せかけた。
惣一郎は心地よさそうに、頭と顔の重みを右近の膝に預けてくる。
(年上のくせに…このお方は時々幼子のような振るまいをなさる…)
これだから甘やかされて育った若君は度し難い、と苦笑しながらも、右近はそのまま黙って膝を貸してやった。
右近にふと、いたずら心が湧いた。
少し前から、いつ惣一郎に許しを乞おうか…言い出す機会を狙っていたことがある。
(今なら機嫌がよさそうだ…)
「惣一郎様…」
「うん?」
睡魔に襲われながらも、惣一郎は薄く目を開けた。
「実は…お願いがござります」
「…申してみよ」
「最近…どうも剣の腕がなまったように思えまして…」
「…屋敷でそなたの相手が努まるものはおらぬからな…」
「…市中の道場へ…稽古に通ってもよろしゅうござりますか?」
「それは構わぬが…」
一旦言葉を切って、惣一郎は上目に右近を見上げた。
「…そなた、何か企んでおるな? 単なる稽古が目的ではなかろう?」
「…企むなど滅相もない」
「嘘をつけ。正直に申してみよ」
右近は観念したように苦笑した。
「…実は…八月の初めに、さるお屋敷で江戸市中の剣客を集めて仕合が行われます」
「…で?」
「…私も、腕試しをしたいと存じます」
「…なるほど。その仕合には推挙がなくても出られるのか?」
右近の膝の上で惣一郎がくすりと笑う気配がした。
「はい。腕に覚えがあれば、予選には誰でも出場できると聞き及びました」
「…左様か」
「…お許し…いただけますか?」
しばしの間をおいて、惣一郎の右手が右近の膝頭を軽く叩いた。
「ところで…さるお屋敷とはどこの屋敷じゃ?」
さすがに『田沼邸』と口にするのは勇気がいった。
「…神田御門内…」
「…遠州相良藩上屋敷だな」
と、惣一郎が引き取った。
十代将軍、徳川家治の側用申次を勤める田沼意次は、幕閣での働きもさることながら、武芸の興隆に熱心なことでも有名だった。藩邸内に道場を設け、一流の剣客を招いて藩士に稽古をつけさせたり、二年に一度、上屋敷で剣術仕合を催している。
右近は一刀流の免許皆伝であり、藩校時代は誠之進と並び『宗道館の竜虎』と称された遣い手だ。予選には誰でも参加できるとあれば、剣を志すものとして血が騒ぐのも当然だった。
だが右近の傾倒する『田沼意次』は、惣一郎の母方の伯父、田安慶久とは政敵ともいえる間柄だった。
惣一郎本人は政治に全く関心がなかったが、伯父の機嫌を損ねるようなことを敢えて許すかどうか…。
それに、惣一郎は、「これを機会に田沼に目通りしたい」という、右近の真の目的も看破しているだろう。
右近は緊張して主の返答を待っていた。
「…伯父上には内緒にしておけよ」
「惣一郎様!」
右近は思わず声をあげ、膝の上にある主の肩を掴んだ。
「揺らすな…眠たいのだ…」
「…お許しいただいて…嬉しゅうござります!」
右近は素直に弾んだ声音で感謝した。
目を閉じたままの惣一郎が、端正な口元に薄い笑みを浮かべた。
巻き上げた簾を揺らし、暖かい風がふわりと吹き込む。
舟底が一度だけ大きく揺れた。
水音と波の余韻が収まったころ、惣一郎が呟いた。
「そなた…このまま江戸に残れ」
「惣一郎様…」
「…江戸藩邸には、そなたが必要だ」
右近は息を詰め、膝の上の主の横顔を見つめた。
「私の側に…いてくれ…」
最後は静かに懇願するような声音だった。
*
十八の時から吉原へ通い、最高位の遊女、『呼び出し』しか相手にしない惣一郎は、派手な遊び方で有名だった。日々倹約を強いられている家臣の間で、そんな若殿の評判は必ずしも良くなかった。浪費と遊蕩の代名詞のように思われている節もある。
かつて惣一郎の守役を勤めた留守居役の堀田や江戸家老の武村でさえ、ご正室と田安家への遠慮から、惣一郎にきつく意見することはなかったという。
正直、右近も始めは、惣一郎を悪い意味での「典型的若殿」と軽んじていた。だが、この三年間、側近く仕えてみて、右近の惣一郎に対する評価は変わった。
勝手気侭に生きているようで、実は情が深く、父母や伯父にも並々ならぬ気づかいを見せている。中屋敷に仕える家臣にも、常に労りの気持を忘れなかった。
暗愚な主君は政治に口出しせぬほうがよいのだ、と笑いながらも、未来の藩主として、自分の果たすべき役割は十分心得ている。優秀な家臣団を御していく、青写真すら持っているのでは、と思う時もあった。
おそらく、惣一郎は周りを有能な側近で固めれば、立派に藩主として采配を振るうだろう。
本人もそれをよくわかっている。
そして、右近を心から必要としていた。
優秀な家臣としてだけでなく、信頼し、心を通わす相手として…。
惣一郎が自分という存在を、真摯に求めていることはわかっていた。右近も惣一郎を嫌いではなかった。
江戸に…惣一郎の傍らに…自分の居場所はあるのかもしれない。
既に生じていた迷いだった。
江戸に残るか、国許へ帰るか…。
右近の心の中で、天秤がかすかに傾く音が聞こえた。
*
「側に…いてくれ」
右近は答えなかった。
答えの代わりに、惣一郎の肩に置いた手にそっと力を込めた。
*
舟を舫いだ岸の向こうから、仙之丞たちの声が聞こえてきた。
「右近様〜、売り切れ間際でしたけど、何とか少し手に入りましたよ〜!」
土手を駆けおりてくる草履の音がかしましい。
惣一郎が右近の膝の上で片目を開けた。
「…せっかくいい夢を見ておったのに。うるさいのが戻ってきたな」
「若殿のために、わざわざ舟を降りて山本屋まで参りましたのに…あまりな申されようですな…」
右近は喉の奥で静かに笑った。
「桜餅より美味な夢じゃった…」
「それはようござりましたな」
「そなた、知りたくないか?」
わずかに好色さが滲んだ声音に、右近ははっと身構えた。
惣一郎の大きな手のひらが、右近の膝頭をゆっくりと撫でさすっていた。
「御免」
右近は一応断ってから、惣一郎の頭を自分の膝の上からぐいっと持ち上げ、肩を押しやるようにして強引に起こした。
「何をする、乱暴な奴じゃな!」
膝枕でうっとりから一転して、無慈悲に起こされた惣一郎は、憮然として胡座をかいた。
「せっかくの桜餅です…茶をいれねばなりませぬ…」
何事もなかったように右近が微笑みかけた。
惣一郎はしばし惚けたように右近を見つめていた。
絶妙の間合いで、仙之丞たちが息を切らして舟に戻ってきた。
皆が乗り込むのを見計らい、
「出してくれ」
右近が簾のむこうにいる、船頭に声をかけた。
「へい」
船頭は舫い綱を外し、主従を乗せた屋形船は、再び滑るように大川へ漕ぎ出した。
桜餅を楽しむ間、舟は三囲稲荷のあたりから木母寺まで、ゆっくりと大川をのぼった。 向島の堤には、散り残った染井吉野や今を盛りと咲き乱れる八重桜が、うららかな暮春の日かげに白く光っていた。
おわり
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