|
「…まったく。田沼様も酷なことをなさりますなあ。金銀の交換率を公儀(おかみ)が決めるなど、まったくもって迷惑千万。左様なご時勢になっては、手前ども両替屋の商売はあがったり…」
「ふん…しぶといお前達のことだ。そう簡単にくたばりはせぬだろうが…、今までのような甘い汁は吸えなくなるのう…」
「御前…何とかなりませぬのか?」
御前と呼ばれた男、田安慶久は苦虫を噛み潰したような顔で、杯をあおった。
明和元年。
秋の彼岸を過ぎたある日の夕、大阪に本店のある両替商・天満屋五兵衛は、根岸の寮に御三卿・田安家当主、田安慶久を招いた。
天満屋は住友和泉屋と並ぶ大阪の二大両替商で、日本橋に江戸店を構えている。
天満屋五兵衛は江戸生まれで今年四十八歳。
婿養子だったが、十年前、先代の後をつぎ、晴れて天満屋・江戸店の主人となった。
天満屋は金銀の両替や為替業務、手形振り出しなどが表看板だが、金主として主に大名家や江戸詰め藩士に金を用立てている。
中肉中背の一見柔らかな風貌に騙され、世慣れない武士はつい安心して大金を借りてしまうのだが、実のところ取り立ての非情さは仲間内でも有名だった。
当時、大名家は江戸藩邸の維持に莫大な経費がかかっていた。天満屋のような金主(大名に金を貸す富豪。大阪では銀主といった)の存在なしには暮らしが立ちゆかぬ、といっても過言ではなかった。
田安家と天満屋は、もちつもたれつの関係で、長年昵懇にしている。
天満屋は田安家に無利子で金を融通し、慶久は天満屋に対して何かと便宜をはかってやっていた。
近頃、そんな二人の目の上の瘤となっているのが、田沼意次だった。
数年前、田沼が将軍家治の側用申次に昇格して以来、幕閣での発言権が増し、老中守旧派との対立が目立ってきた。
慶久自身は老中に名を列ねていなかったが、門閥譜代の間では隠然たる力を持っている。
田沼意次と田安家の対立の構図は、だれの目にも明らかなものとなっていた。
慶久が伝え聞いたことろによると、田沼は来年の秋頃、金銀固定相場制の実現をもくろみ、金との交換率を定めた銀貨を新たに鋳造する予定だという。
当時の日本で流通していた通貨は金・銀・銭の三種類。
少額貨幣の銭は全国で流通していたが、高額貨幣については、江戸を中心とする関東・中部・東国は金、京・大阪を中心とした上方・西国・日本海地域では銀が流通し、いってみればひとつの国に二つの通貨が存在するような状況であった。
このように通用する区域がはっきり分かれていると、通貨『金』と通貨『銀』は、各々の経済圏の力関係を反映する。つまり、経済の実勢を反映して、金銀相場は刻々と変動していた。
金銀の固定相場制が現実のものとなれば、元禄以来、金銀相場の騰落を利用して、巨額の富を手にしてきた両替商にとっては、手痛い打撃となる。これは死活問題だった。
反田沼という点で、門閥譜代と両替商の利害は一致し、田安家と天満屋は増々結びつきを強めていた。
「…こう申しては何ですが、昨今の田沼様のご政策は、大商人を目の敵にしているとしか思えませぬ。手前どもも、ほとほと迷惑しておるのでございます」
「存じておる…。彼奴は虎の威を借る狐じゃ。上様の信任をいいことに、頭にのりおって…。まったく近頃は腹が煮えることばかりじゃ」
慶久は乱暴に杯を突き出し、酒を所望した。
慶久はかなりきこしめしていたが、血走ってどんよりとした眼は酒のせいだけではなかった。
田沼への憎しみか、目の底に暗いものをたたえ始めている。
「…しかし、どこまでも可愛げのない奴め」
一気に酒をあおると憎々しげに呟いた。
「田沼様も御老中をないがしろにし、専横が過ぎまするな…」
「ちがう!」
慶久は塗りの杯を膳に叩き付けた。
「…田沼も勘に触るが、天満屋、そちも存じておろう、右近のことよ」
いきなり鉾先が変わって驚いたが、
「ああ、惣一郎様の御用人様でございますね」
天満屋は、くだんの一件か、とわけ知り顔で頷いた。
「…右近の奴…田沼邸の剣術仕合なぞに出おってからに。あれ以来、屋敷に出入りを許されて、懇意にしているそうだな」
慶久にぎろりと睨まれ、天満屋は思わずのけぞって言った。
「て、手前どもは何も詳しいことは…」
「惣一郎も惣一郎だ。右近に甘い顔をするから、つけあがっておるのだ!」
「御前…」
以前から慶久が右近に『興味』を持っていることに、天満屋は薄々気付いていた。
だが流石の慶久も、甥の惣一郎から寵臣の右近を取り上げるような真似もできず、長年、指をくわえて見てきたのだった。
まあまあと宥めながら、天満屋は何か閃いたように片手で顎をさすった。
「御前…じつは手前に妙案がございます」
「…何じゃ。申してみよ」
「いえね、以前から時々考えていたんですが…」
天満屋が好色そうな笑みを浮かべると、
「何じゃ、早う申せ」
慶久は身を乗り出すようにして先を促した。
「何しろ御用人様は稀にみる美形でございましょ? そこらの役者なぞ、ほっかむりして逃げ出したくなるような…」
「…彼奴はそれを鼻にかけておるのだ。以前、我が屋敷に来いと声をかけてやったものを…人を見下したような目で断りおった」
「まあまあ、御前…」
鼻息まで荒くなってきた慶久に、天満屋は苦笑した。
「実は、うちでひとり若手の絵師を世話しておるのですが…。これがなかなかの腕で、知り合いの版元に引き合わせたところ、気に入ってくれましてね。今度、限定版の組み物を出してはどうかと言うのです」
天満屋はいわくありげな眼差しで慶久に微笑んだ。
「……枕絵か」
「さすが御前、勘のおよろしいことで」
「天満屋、まさか…?」
「その絵師、瑛泉といいますが、何ぶん枕絵は初めてで、絵姿があったほうが描き易いと申します」
慶久は酒で濁った眼を思わず見開いた。
天満屋は目元に柔和な笑みを浮かべ、猫撫で声で囁いた。
「…御用人様もいささかやんちゃが過ぎたようですね…。一度、お灸を据えてさしあげるのもよろしいかと…。いかがです、御前?」
庭の獅子脅しが乾いた音をたてた。
慶久はまじまじと天満屋の目を見つめたが、やがて両頬に笑みが広がり、おかしそうに喉を鳴らした。
「そちの言う通りじゃ。…で、身供も見物できるのだろうな?」
「もちろんでございます…。よろしければ、後で味見など…」
「…それは楽しみじゃな。段取りはまかせたぞ、天満屋」
「おまかせくださいませ」
「…まったく、そちとおると退屈せぬわ」
慶久の高笑いが座敷に響き渡った。
「お誉めにあずかり、光栄にございます」
天満屋は深々と頭を下げながら、ずる賢い笑みを口元に浮かべていた。
***
上野池之端・高山藩中屋敷。
九月に入り、秋の気配も深まってきた。
蝶に似た可憐な花をつけた白萩が、庭先で秋風に揺れていた。
「仙之丞はおらぬか?」
七ツ(午後四時)頃、中屋敷の用人、櫻田右近が小姓たちの詰め所に顔を出した。
丁度居合わせた仙之丞が、小姓達の談笑する輪から抜けて、摺り足で部屋の出入口までやってきた。
「あ、右近様、どこかへお出かけで?」
右近は羽織りをつけ、大小を腰にたばさんでいた。
「うむ…御事(おこと)に一言断ってゆこうと思うて」
「はい…」
右近は中の様子を伺うと、声を落としていった。
「…そこの襖を閉めてまいれ」
仙之丞が言われた通りにすると、右近は仙之丞の袖をひっぱり、次の間の隅へと連れていった。
「実はこれから、根岸の天満屋の寮までゆかねばならぬ」
「天満屋…? 日本橋の店ではないのですか?」
右近はさらに声を潜めて囁いた。
「…惣一郎様の借財の件で、内密に話があると言ってきた。出向かぬわけにはいかぬだろう…」
右近と仙之丞、二人の溜息が鈍く漂った。
「根岸の寮というとどの辺りなので?」
「私も初めて訪ねるのだが、梅屋敷の近くらしい」
時々屋敷に顔を出す、天満屋五兵衛のことは仙之丞も見知っている。
仙之丞の浮かぬ顔つきを見て、右近が苦笑した。
「案ずるな、取って食われはせぬ」
「…私は、あの男が大嫌いです。どうしてもお一人でゆかれるのですか?お供するわけには参りませぬでしょうか?」
右近は優しく目元を和ませて、小さく首を振った。
「少し帰りが遅くなるやもしれぬ」
「右近様…」
「若殿にはうまいこと言ってごまかしておいてくれ」
「は、はい…」
仙之丞は困ったようにうつむいた。
あまりに素直に困ってみせるので、右近は少しからかってやりたくなった。
「…岡場所へ行ったとでも言っておけ」
「右近様! そのような戯れ言、誰も信じませぬ」
「では御事が何か適当に考えてくれ」
途方に暮れた顔つきの仙之丞に見送られ、右近は軽い笑い声をたてて廊下へと出ていった。
***
根岸・天満屋の寮。
わびた構えの竹門をくぐり、延石が敷かれた露地をいくと、数寄屋作りの玄関が現れた。
訪ないを告げると、まもなく主人の五兵衛が直々に出迎えた。
「これはこれは御用人様、ようお越し下さいました」
右近は庭つたいに奥の六畳間に通された。
歩きながらふと、小体な庭に咲く、むくげの花が目に止まった。
夕闇迫る中、微風に煽られた五弁の花が、はかなげに紅紫色の頭を振っていた。
「して、天満屋。用向きを聞こうか」
「はい。実は前々から一度、御用人様にご相談したき儀がございまして…」
「惣一郎様の借財との話だが…」
「左様でございます」
「若殿が中屋敷へ移られてから、私は用人として、屋敷の金の出入りはすべて把握してきたつもりだ」
「…承知いたしております」
「…私の知る限り、返済が滞っているものはなかったはずだが?」
天満屋はもっともらしくうなずくと、
「御用人さまがお側に仕え始めてから、若様は随分おとなしくおなりで。吉原へもとんと足が向かなくなりましたなあ」
五兵衛のねっとりした物言いに、右近は眉をひそめた。
「天満屋。無駄話はよい。完済していないというなら、証文を見せてもらおうか?」
「では、少々お待ちを」
天満屋は右近に軽く礼をして立ち上がると、違い棚から手文庫を取り出してきた。
塗りの箱をあけ、中から数枚の証文を取り出すと、右近の目の前に並べた。
右近は真剣な眼差しで目の前の証文を吟味した。
日付けは全て宝暦十年から十一年。高山藩邸ではなく惣一郎個人の借財である。
五枚の証文の総額は千両近くにのぼっていた。
これに四、五年分の利子がついたら、いったいいかほどの額になるのか…。
おそらく惣一郎本人は忘れているのだろう。
何故もっと早く自分の知る所とならなかったのか…右近は歯がみした。
寡黙になった右近を前に、天満屋が同情するような声音で言った。
「この借財は、御用人様がお役に付く前のものですから、御存知ないのがあたりまえ…」
「だが、もはや知らぬでは済まされぬだろう…」
「私どもも、これまで上屋敷の勘定方のお役人に何度もかけあってみたのですが、どなたも言葉を濁していっこうに埒があきませぬ。かといって、お世話になっている田安の御前様の手前、若様に直談判するわけにもいかず…。御用人様にお願いするのは筋違いとは思いましたが、このままでは利子がどんどん膨れるばかり…。何とかお力添えいただけぬものかと、こうしてお話している次第でございます」
「…とりあえず、惣一郎様御本人に事情を話し、藩邸と相談せねばならぬ」
右近は重い溜息をつき肩を落とした。
借りた金は返さねばならぬ。
世間には、借金を踏み倒して平然としている旗本や大名も多かったが、右近は惣一郎にそのような真似はさせたくなかった。
「しかし、御用人様…。こう申しては何ですが、藩邸とて台所は火の車。藩邸は藩邸で別の借財を抱えておりまする」
「それもそなたの店からか」
「…はい。おそらく他にも何軒か…」
さすがの右近もこれには参った。
ない袖は振れぬのだ。
国許に泣きつけば、千両くらいの金は融通してくれるだろうか…?
しかし、それでは惣一郎の面目は丸潰れである。
「失礼いたします…」
軽い音をたてて、障子戸が開き、女中が茶を運んできた。
「御用人様、そんな思いつめたお顔をなさっても始まりません。ひとくち茶でもいかがですか?」
「うむ…」
右近はぼんやりと勧められるまま、茶に口をつけた。
何やらかぐわしい花の薫りが鼻腔をくすぐる。
嫌な薫りではなかった。
「これは?」
「唐渡りの茉莉花茶にございます」
「清清しい良い香りがするの…」
「お気に召しましたか?」
右近は軽くうなずき、黙って茶を最後まで飲み干した。
*
しばらくして、右近は身体に異変を感じた。
不思議な感覚だった。
頭は一種恍惚とした浮遊感を覚えならも、身体が鉛のように重い。
「御用人様…誠に失礼ながら、藩邸にかけあっても無駄かと存じます。ですが…」
「うむ…」
「御用人様のお力があれば、千両くらいのはした金、稼ぎだすのはわけないこと…」
「わたし…の…?」
天満屋の声がどこか遠い所から聞こえてくるようだ。
視界がぐるりと回った。
もはや座ぶとんの上に正座しておれず、右近は畳の上に崩れるように突っ伏した。
「おや、御用人様、いかがなされましたか?」
目の前から光りが消えていく。
暗闇の底に吸い込まれて行く寸前、天満屋がぱんぱんと手を打って、使用人を呼ぶ声が聞こえた。
「ほれ、玄助、御用人様をあちらへお運びしなさい…」
最後に聞いたのは、数人の大きな足音と襖が乱暴に開けられる音。
屈強な腕が右近の身体を抱き上げ、どこかへ連れさられるのを、右近は朦朧とした意識の中で感じていた。
つづく
|