宝暦十一年、卯月末。
風薫る季節。
藩主・三男、三郎の守役に抜擢され、留学中の江戸から呼び戻された溝口誠之進は、その最初の役目として、三郎を城へ迎えるべく、三郎の亡き母の実家、関川宿・本陣『加賀屋』へ赴いた。(壱の巻2参照)
加賀屋から三郎を連れて城へ戻った時、藩主因幡守信輝は満面の笑みで三郎を出迎えた。
上座に着座したまま大人しく待っておれなかったのか、扇片手に居間の中を行きつ戻りつしていたらしい。側用人の青木忠座右衛門が苦笑している。今か今かと到着を心待ちにしていた様子がありありと伺えた。
誠之進に手をひかれてやってきた三郎を見て、
「おお、三郎、ようまいった!」
と嬉しげな声をあげ、上座へ戻った。
誠之進と三郎が御前に控えて到着の挨拶を済ませると、待ちかねたように、三郎を側近く呼び寄せた。三郎は多少もじもじとはしたものの、親しげに信輝の膝元へ近付いていった。
意外そうな顔つきの誠之進に、信輝が破顔した。
「誠之進、左様に驚くことはなかろう。実は三郎とは時々会うていたのじゃ。参勤の時はもちろんだが、鷹狩りの途中でこっそり加賀屋へ寄ったこともある」
「…なんと」
この殿様にそんな器用なことができたのか、と、思わず感心する誠之進だった。もちろん父とは名乗らずに、密やかにおひろと語り合い、三郎とひととき遊んでやったに過ぎないのだろうが。
大人二人のやりとりを黙って見つめていた三郎が、
「お殿様…」
おずおずと信輝に呼びかけた。
瞬間、信輝は戸惑ったような視線を誠之進に投げてよこした。
「誠之進、まだきちんと話しておらぬのか?」
否定しようと誠之進が口を動かしかけたところ、三郎がためらいがちに信輝を見上げた。
「お殿様が…私のお父上なのですね?」
三郎の黒目がちの瞳を覗き込むようにして、信輝が大きく頷いた。
「そうじゃ…」
「お父上なのですね…」
うるんだ瞳がひたと見つめ返した。
「…今まで黙っていて、すまなかったの…」
信輝は胸の奥から絞り出すような声音で詫びると、膝立ちになって三郎を抱きしめていた。
今、詳しい事情を語ることはあるまい。
信輝公はこれで胸のつかえもとれ、安堵されたことだろう。
三郎ぎみにしても、すぐに「お父上」と呼ぶのは抵抗があるやもしれぬが、
殿に何となく慕わしい気持を抱いておられるなら、案ずることもない。
これからゆっくり親子の絆を育ててゆかれればよいのだ。
時間はたっぷりあるのだから…。
*
正直に言えば、今しばらく江戸暮しを続けたかった。
諸藩の留守居役や若手藩士との交流も興味深く、もっと人脈を広げておきたかった。
叶うなら、右近の傾倒する田沼意次と言う人物にも会うてみたかった。
されど…。誠之進は思う。
自分が今、この時期に国許に帰り、殿と三郎ぎみの側にあることが、少しでもお二人の役に立つのであれば、お役を賜ったはむしろ幸せである、と。
信輝公があのように手放しで喜ぶ姿を見たのは初めてだった。おひろのことを知らなかった誠之進は、失礼ながら信輝は画才は飛び抜けているが、絵にしか興味のない、一種、人の情が欠落した人間ではないかと思っていた。
だがそれは、誠之進の考え違いであった。
三郎ぎみを見る愛情溢れる眼差しこそが、信輝公本来の姿なのだろう。九年前、愛しいものたちを手放さなければならなかった日から、ご自分の感情をひたすら内に秘め、封印をしてこられただけの話なのだ。
だからこそ、今回三郎ぎみを引き取るというのは、殿にとっても一大決心なのだろう。その結果生ずる、ご正室との心情的な軋轢を、予測できぬわけはない。
殿のご意志を尊重し三郎ぎみを大事にお育てしつつ、何とか穏便に嫡男・惣一郎様への家督相続を果たし、お牧の方様にもご納得いただく。これが家老である父、主膳の書いた筋書きだった。
それが画餅に帰さぬよう、己も守役として力を尽くさねばならぬ…。
改めて静かな決意が誠之進の胸に広がった。
*
無事、親子の対面を済ませ、誠之進の肩の荷も降りたかに見えたが、やはり町家育ちの三郎にとって、城中での生活は世界が180度変わるに等しいものだった。
まず、せっかく親子の名乗りをあげたのに、父のいる本丸では暮らせない。
毎日ご機嫌伺いにまいりましょう、と微笑みかけても、
「なぜ、お父上のお側で暮らせないのか?」
と、素朴な疑問が向けられる。
西の丸の屋敷は小じんまりしていて、誠之進の目から見れば住み心地はよさそうであったが、問題はそのようなことではなかった。
乳母のお福と乳兄弟の源蔵は、常に三郎の側近く仕えることを許されていたが、やはり立場上、給仕はしても、食事まで一緒にとるわけにはいかない。
加賀屋で家族皆で膳を囲む生活に慣れていた三郎には、ひとりで食事を取るのは寂しいという。あっという間に食欲が落ち、ついには箸をつけなくなった。
最初はやはり大名家の作法に慣れてもらわねば、と、心を鬼にして放っておいた誠之進だが、ついに見兼ねて自分が一緒に食事を取ることにした。父、主膳に知れれば良い顔はされないだろうが、守役の立場としても三郎がこのまま病気にでもなれば大事だ。
役目柄、やむおえず、と判断したつもりだった。
「お福!おかわり!」
「はい、ただいま」
お福は満月のような顔でにっこり笑って茶碗を受け取り、いそいそと飯をよそった。
三十路を過ぎたばかりのお福は、まだまだ肌の色つやもよく、顔は笑うと童女のようにあどけない。息子の源蔵も、母の愛嬌のある顔つきをそっくり受けついでいる。
誠之進は今朝も、江戸から呼んで来た料理人の味噌汁の味に舌鼓を打ちながら、三郎の食べっぷりに目を細める。
(子供とはげんきんなものよ…)
自分が一緒に食事を取り始めた途端、三郎は昨日までの気鬱が嘘のように食欲を盛りかえした。お福と源蔵は相変わらず給仕で控えているだけだが、何となく四人揃うと『家族で膳を囲む』雰囲気が出たのだろう。
取りとめのない話をしながら、嬉しそうに卵焼きを頬張る三郎。
そんな姿に、何やら胸に暖かいものが滲みわたる誠之進だった。
食事の件が落着するのと前後して、もう一つ誠之進を驚かせる出来事があった。
誠之進は三郎を屋敷に連れてきてからしばらくの間、実家と西の丸の屋敷とをいったり来たりしていた。だが、三郎が膳に手をつけなくなって以来、ついに屋敷内の自分の居室に実家から夜具を運ばせた。事実上、西の丸に移り住んだのである。誠之進は三郎の居室から近い、渡り廊下で結ばれた北側の棟の一室を自分の居室としていた。
五月の節句を一週間後に控えた朧月の夜だった。
寂光に仄かに浮かび上がる庭の藤を愛でつつ、誠之進は夜更けまで書見に励んでいた。
ようやく床に入り眠りにつきかけた頃、廊下を渡る軽い足音が聞こえた。
足音はゆっくりと確実にこちらへ近付いてくる。
やがて誠之進の部屋の前でぴたりと止まった。
次の間に人の入ってくる気配を感じるや、誠之進は完全に覚醒した。
素早く身を起こし、枕元に置いた脇差しを掴む。
そのまま足音を忍ばせて襖際に歩み寄り、侵入者の死角になるところへ身を潜めた。
息を殺して脇差しを抜き去る。
侵入者の手が襖にかかった。
すうっとかすかな音をたてて襖が開いた。
人一人がやっと通れるほどのすき間から、頭らしき影がのぞく。
続いて襖がさらに押し開けられた。
影が室内に一歩踏み込んだ途端、誠之進は相手の喉元に青白い刃を突き付けて、誰何した。
「何者だ?!」
ひゅっと息を飲むかすれた音が聞こえた。
「斯様な夜更けに何用じゃ?」
「…せ、せいのしん?」
恐怖でひきつった声に、誠之進は思わず脇差しを取り落としそうになった。
「三郎ぎみ?!」
影がこくこくと頷いた。
「これは…何と、御無礼を!」
誠之進は慌てて脇差しを鞘に納めると、三郎の正面にまわり膝を折った。
「しかし、三郎ぎみ、どうなされたのです? こんな夜更けに?」
思わず宿直のものは何をしているのかと、怒鳴りつけたい気分だったが、ともあれ三郎の話を聞いてやるのが先だろう。
だが、三郎はなかなか語ろうしない。
夜目にも俯いてじっと唇を噛んでいる様子が伺える。
誠之進は口調をやわらげてもう一度問うた。
「…どうなされたのです? 恐い夢でも見ましたか?」
三郎は一度深く息を吸うと、ようやく口を開いた。
「……眠れないのだ」
「…」
「あの部屋は広すぎて…、それに隣の部屋にも誰もおらぬ…」
「次の間の向こうには宿直の者が控えておりまする」
「知っておる…さっきも刀を抱えて居眠っておった…」
誠之進は頭を抱えた。明日きつく叱りつけてやらねばならぬ。
「誠之進…」
続ける三郎に、誠之進は再び耳を傾けた。
「広くて寒い部屋は嫌いだ…」
語尾がかすれて震えていた。
(独りで休むのは、お寂しいのだろうか…)
今頃になって誠之進はようやく思いいたった。
自分が九歳の頃…。
妹が生まれて母はそちらに手をとられていたはずだ。
嫡男ということで早くから一人部屋で寝ていたような気もする。
だが、隣は弟の部屋であったし、近くに人の気配が全くないという事はなかった。
知らない場所へ連れてこられ、あのような広い部屋で独り眠れと言われても…。
確かに落ち着かぬであろうな…。
誠之進は俯いたままの三郎の両手をとり、軽く握った。
「…では今宵はこちらでお休みになられますか?」
「…構わぬのか?」
「もう遅いですから…。今から宿直の者を叩き起こして小言を言う気力はございません」
冗談めかして誠之進が言うと、三郎は嬉しそうに大きくうなずいた。
あっと言う間に夜具に向かって駆け出し、上掛けの下に潜り込んでしまった。
「誠之進! 早う来ぬか、かぜをひくぞ!」
先程とはうって変わって元気いっぱいの声に、誠之進は半ば呆れつつも、苦笑しながら自分も夜具の間に身を滑らせた。
並んで横たわり上掛けでくるんでやると、三郎は夜風で冷えた身体に心地よいのか、ほっとしたように目を閉じる。
「あ、そういえば、枕がござりませぬな」
「なくてもいい…」
「ではこれで…」
誠之進は仰臥する三郎の頭をそっと持ち上げて、自分の右腕を差し込んだ。
「うん…」
暖かいのが気持いいのか、安心したのか、三郎は早くもうとうとし始めた。
何とも無防備な、安らかな寝顔を誠之進は不思議な思いで眺めた。
武家の躾けで育った子供とはやはり何処か違う…。
決して行儀が悪いというのではないが、素直すぎるくらい感情を表に出す。
依存心が強いわけではないが、一度打ち解ければ好意を全身で伝えてくる。
誠之進は新鮮な驚きとともに、猛烈な庇護欲をかきたてられた。
誠之進は三郎の前髪のあたりを優しく梳いてやる。
「斯様な甘えん坊では…立派なお武家になれませぬぞ…」
「うん…」
重い瞼は閉じたまま、三郎の両頬にえくぼが浮んだ。
「明日からはお部屋でお休みください…」
「うん…」
「私が次の間で休みますから…」
「…」
「それならお寂しくはないでしょう?」
もはや応えはなく、三郎の規則正しい寝息だけが聞こえていた。
「…添い寝もやはり役目のうちなのだろうか?」
右近なら『貴公ともあろうものが……似合いすぎて頭痛がする』と嘆き、
吉田小平太あたりなら、
『おぬし、桔梗屋でももてたが、子供にもえらい好かれようではないか! いやはやおぬしの人徳にも恐れ入ったのう』
などと、腹の皮が捩れる程笑うだろう。
誠之進自身も何となくおもはゆい気分だったが、さりとて今の状況が決して嫌ではなかった。
それどころか…。
あれこれ思い巡らしていると睡魔が襲ってきた。
誠之進も傍らの小さなぬくもりの心地よさに誘われ、やがて深い眠りに落ちていった。
おわり
|