越後サイドでこの直前にあたるのは七の巻「葵」です。
旱魃に見舞われた去年とはうってかわって、今年の高山領内は春先から雨が多く、田植えも順調に進んでいた。このまま天候にさえ恵まれれば、もともと米どころといわれ地味豊かな土地柄だ。豊作ならば、『半知御借上』も今年限りで終わり、藩士たちの生活も随分と楽になるだろう。
無論、秋の稲刈りが終わるまでは楽観は許されない。藩としては無駄な出費を見直し、このまま倹約を続ける必要があった。
二週間ほど前、今町の海商、中村屋が誠之進を訪ね、藩は今年も商人に御用金を課すつもりなのか、それとなく調べてほしいと頼んできた。右近が勘定吟味役を辞して以来、勘定方の役人とは疎遠になっていた誠之進だが、久しぶりに右近の部下だった筧真之介に会って話を聞いた。
端午の節句も過ぎた五月七日、誠之進は夕餉のあと自室にこもって中村屋への手紙をしたためていた。筧真之介によると、勘定方内部では確かに御用金の話が出ているという。しかし、昨年のように差し迫った理由からではなく、商人たちから一万両という金が『容易に』集まったことに、味をしめた連中がいるというのだ。
御用金を取ろうと思えば、いくらでも絞りとれるとでも言うのだろうか?
実際、説得に出向き、頭を下げた誠之進としては到底納得できない。飢饉を未然に防ぐためという、正当な理由があったからこそ、自分も商人たちと交渉し、「藩としても今後悪いようにはしない」という誠之進の言葉を信じて、彼等も合力してくれた。
一度前例を作ったからといって、今年からも当然のごとく御用金を要求するなど、誠之進から見ればあまりにも虫のいい話であった。
筧真之介から知りえた事実を綴り、誠之進は一旦硯に筆をおいて沈思に落ちた。
父はこの件を知っているのだろうか?
まさか、知っていて黙認するつもりなのか?
誠之進は、父・溝口主膳が斯様な恥知らずな行為を許すとは思えない。
すぐにも溝口の屋敷へ帰り、父に問いただせばよいのだが…誠之進の腰は重かった。
四月の初め、本田家と三郎の養子縁組の儀が大書院で発表された日も、誠之進は主膳から屋敷を訪ねるように言われていた。しかし結局、誠之進は自分のほうからは出向かなかったのだ。堀の提案もあり、本田家の素行に関する江戸の堀田又左衛門からの返書を待って、誠之進は行動を起こそうと考えていた。
お人の好い信輝公は、堀田の調べた内容を聞いてもなお、この縁組がご正室様と田安家の悪意で仕組まれたものとは信じがたいようだ。正直なところ、心の奥底では不安を感じながらも、他人に対してそれを認めるわけにはいかないのかもしれない。
信輝公は本田家への返事を、八月の江戸出府まで考えさせてくれと、決断を先延ばしにしていたが、重臣の間には、どちらとも決めかねる山崎翁以外、現時点でこの縁組にはっきり反対するものは堀しかいなかった。
誠之進と三郎が契りあった仲だという、例の怪文書をばらまかれた以上、口惜しいかな、養子に反対する理由、本田忠直の性癖を表沙汰にすれば、誠之進にとってはやぶ蛇だ。なんら手を打てぬまま、御用部屋の意見は本田家との縁組をすすめる方向へと傾きつつあった。
こうなっては、筆頭家老でもある誠之進の父、溝口主膳を翻意させねば、誠之進にまったく勝ち目はない。
父上に…会わねば。
中村屋に頼まれた件もあるし、もはや猶予はならぬ…。
誠之進は胸底に石を抱えながらも、明日こそは溝口の屋敷へ帰ろうと決心した。
*
「誠之進殿、よう戻られました…」
長屋門をくぐり訪ないを告げると、母・咲が奥から急いで現れた。
玄関先の日陰には紫陽花、日向には立葵と、母・咲の丹精した初夏の花々が屋敷を彩っている。
妹の志保は吉田小兵太に会いたさで、何のかんのと用事を作って西の丸を訪ねてくることも多く、しょっちゅう顔を見ていたが、母とは弥生の末の桜狩以来である。誠之進と良く似た鳶色の優しい瞳で、咲は嬉しげに息子を迎えた。
「夕餉は…ご一緒できますのか?」
「はい…そのつもりでおりますが」
軽くうなずく誠之進に、咲は満面の笑みで応えた。
「では文吉に言って、誠之進殿の好物を用意させましょう…」
「母上…どうぞお構いなく」
嫡男の帰宅をよろこび、いそいそと立ち働く母を前に、誠之進の胸は痛んだ。
父との話し合いが穏やかに済むはずはない。「三郎ぎみとともに本田家に入る」などといえば、一、二発殴られても不思議はない。
さすがに母の顔を見ると誠之進の心はひるみかけたが、三郎との未来のため、腹をくくらねばならぬと、誠之進は奥歯を噛みしめて己を叱咤した。
草履を脱いで式台に上がりかけたところ、少し遅れて弟の慶次郎が出迎えた。
「兄上!」
「おお慶次郎」
弟が在宅していて幸いだった。
誠之進は家督の件、慶次郎とふたりきりで話したく、わざと父の下城前を狙って早めにやってきたのだ。
「ちょうどよかった。本日はおまえにも大事な話があって参ったのだ」
「私に…?」
小首をかしげる慶次郎に誠之進は大きくうなずく。
「母上…私はしばらく慶次郎の部屋におりますゆえ、父上がお戻りになったら知らせてくださりませ」
「それは構いませぬが…」
誠之進は努めてにこやかに言ったつもりだが、咲はどこか切羽詰まったものを感じたのか、訝しげに息子を見上げる。
誠之進は案ずるような母の目をまともに見ることができず、伏目がちに一礼すると、弟をひきつれて奥へと廊下を進んだ。
*
慶次郎は誠之進を上座に坐らせ、自分も着座するなり問いかけた。
「兄上…本日は改まって…いったい如何されました?」
誠之進は向き合って端座したまま、じっと弟の目を見つめていた。
四つ違いの弟、慶次郎は今年二十三歳。立派な成人である。藩校時代はお調子者で、教授の娘に付け文をしてこっぴどく絞られたり、家老の息子にしては軽々しい振る舞いも目についたのだが、ここ二三年は人が変わったように落ち着きがでてきた。次男の部屋住みということで、何のお役にもついていなかったが、最近では佐伯羅山の私塾に通ったり、藩校時代よりもむしろ学問に励んでいるようだった。
昔は部屋に書物など置くタイプではなかったが、今は日々本に親しんでいると見え、部屋の隅には書物の山が三つほどできていた。
「慶次郎…佐伯先生はお変わりないか?」
「はい…とはいえ、今年で古稀を迎えられましたゆえ、お年を召されたことは否めませぬが…」
「左様か…。随分御無沙汰しておる。おまえも世話になっておることだし、一度ゆっくり御挨拶にうかがわねばならぬな」
慶次郎は頭をかきかき苦笑した。
「兄上…私もよい年になりましたし、遅ればせながら、最近ようやく学問の面白さ、奥深さがわかりかけてきました」
「それはよいことじゃ」
「真面目に講議をうけておりますし、時には幼い者の素読を見てやっております」
「ほう…おまえがか?」
「ですので…どうぞ御心配なく…」
慶次郎は上目使いに誠之進の顔色を伺った。
「わかっておる。何もおまえの様子を確かめにいこうというのではない。私は…久方ぶりに佐伯先生の御尊顔を拝したいだけじゃ」
誠之進は破顔して、小さく首を振った。
慶次郎は肩をすぼめてばつが悪そうに笑った。
兄弟というのは不思議なものだ。
お互い成人していい年になった今も、誠之進の前に出ると慶次郎は昔のままである。父・主膳からも『兄を手本として文武に励め』と、さんざん摺り込まれてきたのだ。いくつになっても兄に頭が上がらぬということだろうか?
誠之進はふと唇の端を歪めて、かすかな笑みを洩らした。
その兄も、三郎ぎみの前ではただの恋する男だ。
愛しい若君のために、地位も家族も捨てていこうという、度しがたい男だ。
もはやおまえの尊敬には値せぬ…。
なれど…。
「兄上…?」
慶次郎がひたと誠之進を見つめていた。
誠之進は心を決めて口を開いた。
「慶次郎、今日はおまえに頼みがあって参ったのだ…」
「私に…たのみ?」
何事です、と弟の目が大きくなった。
誠之進は一度大きく息を吸うと、
「慶次郎…私の代わりに溝口の家を継いでくれぬか?」
「あ、兄上?!」
瞠目する弟を前に、誠之進は畳に手をついた。
「頼む…」
「兄上、何をなさります! お手をお上げ下さいっ!」
「頼む!」
誠之進は手のひらをしっかり畳につけ、深く首を垂れた。
つづく
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