十の巻
「母の庭」2




by 戸田采女

 「兄上! やぶからぼうに左様なことを言われても、私も理解に苦しみます!」
慶次郎は半ば強引に誠之進の肘をとって、顔をあげさせた。
「どうかきちんと御説明くださりませ。何ゆえ…私に家督せよなどとおおせになるのです?」
誠之進は深い息をついて、居住まいを正した。
「慶次郎…、三郎ぎみの養子縁組の儀、父上から何か聞いておるか?」
「いえ…何も」
「左様か…」
さほど意外な答えではなかった。
父は政争や藩公一族の話など、藩政の中枢にかかわる事柄を、ほとんど慶次郎に話さないのが常だった。

 「では聞いてくれ…」

 誠之進は三郎に駿河横河藩・本田家との養子縁組の話が持ち上がり、父を含めた重臣たちは乗り気だが、この話にはとんでもない裏があると、中老・堀隼人丞の調べでわかったこと。

 背後に三郎を疎んじる御正室の悪意あり。この縁組は三郎にとって決して好ましいものでなく、最悪の場合、本田家当主・忠直の慰みものにされる懸念すらあること。

 慶次郎は黙って兄の言葉に耳を傾けている。真摯な眼差しで凝と見つめられ、誠之進もこの弟に、包み隠さず本音を語ろうと思い始めていた。

 「だが、田安様が仲介の労を取ったこの話、お断りするのは容易ではない。堀殿や私の懸念は少し穿ちすぎではないかとおっしゃるが、斯様ないわくつきの家に三郎ぎみを送りだすのは、殿としても御本心では気が進まぬはず。殿自身も大変苦慮しておられる御様子じゃ…」
「…そのあたりの難しさは、私にも想像がつきます」
「殿がきっぱりお断りくださればよいのだが、そうなると、わが藩の擁護者でもある田安家との関係がこじれると、父上をはじめ重臣たちが難色を示すだろう…」
「兄上…」
「そこでじゃ…。万一、この話、押し切られてしまった場合、私は三郎ぎみとともに本田家に入ろうと思う」
「あ、兄上っ!なれど兄上はっ…殿様からも次の筆頭家老にと…」
慶次郎が思わず腰を浮かせて叫んだ。
「…それゆえ慶次郎、こうしておまえに頼んでおる」
「わ、私に家老になれとおっしゃるので?」
「いかにも」
慌てふためく弟に、誠之進はしっかりとうなずいた。

 「そのようなこと、無理でござります!」
「何ゆえじゃ。おまえとて今後精進して研鑽を積めば、家老職くらい立派につとまると思うが」
「兄上、ご冗談を…」
「何を言うか!父上や堀殿はともかく、他の重臣方を見てみるがよい。山崎様はお人柄のよさで、これもまた立派に中老の器と思うが、世襲の地位に甘んじ、高禄を食みながらろくな仕事もせぬ輩がごろごろおるわ!」
「それとこれとは話が別にござります…」
「慶次郎、もっと己に自信を持て」
「兄上…」

 慶次郎は困り果てたように眉尻を下げていた。
「兄上がそのように言うてくださるのは、まことに光栄にござりますが…やはり、兄上と私とでは出来が違います」
「左様なことはない!」
「いえ、父上が断じてお許しになりますまい…」
「慶次郎…」

 やはり話はそこへ行き着くのかと、誠之進は鈍い溜息をついた。

 「兄上…」
「ん?」
「ひとつ…お尋ねしてもよろしゅうごさりますか?」
「何だ?」

 慶次郎の声が急に低くなった。
「何ゆえ…溝口の家、家老の地位をすててまで、三郎ぎみとともにゆこうと…?」
「…三郎ぎみをお守りするには、それしか手段がないからだ」
「仮に本田忠直に斯様な性癖があるにせよ…兄上や堀様の懸念している事態にいたらず、三郎ぎみが無事姫と夫婦になられたら、いかがいたします?」
「け、慶次郎?」
「もしくは…例えば、本田家に入っていくらもたたぬうちに、忠直様がぽっくりいけば、三郎ぎみは辛い目にも会わず、晴れて万石の大名に…」
「これ、慶次郎、滅多なことを言うものではない!」
「例えば、の話にござります」
まともに取った誠之進をいなすかのように、慶次郎が茶目っ気たっぷりに笑った。

 「おまえ…何が言いたいのだ?」
慶次郎は真顔に戻ると、 「私が思いますに…、たとえ兄上が家老の地位を捨てて、三郎ぎみに付き従い駿州へ行っても、何年もたたぬうちに本田家の事情が変わることもあると…」
「それならそれで祝着至極。私は三郎ぎみのお幸せのみを考えている」
「兄上…そこまで言い切られますか」
慶次郎はちいさな溜息をついた。

 「兄上、私は、兄上がお役目に励む姿を長年見てまいりました」
「慶次郎…」
「三郎ぎみを真の身内のごとく可愛がり、肉親の縁薄い三郎ぎみが寂しいおもいをされぬようにと、心を砕いていらしたこと…私とてよく存じておりまする」
「ならば、斯様な家には送り出せぬという気持ち、わかってくれるだろう?」
「はい…されど」
一度言葉を切った慶次郎を誠之進はひたと見つめた。

 「三郎ぎみとてもはや童子ではありませぬ。元服すれば一人前の男。身に振るかかる火の粉は自分で払える、払うべきお年頃ではござりませぬか?」
「け、慶次郎」
「いつまでも、兄上が真綿でくるむようにお守りするわけにはいきますまい…」

 何としたことか。弟に斯様な正論をはかれては、誠之進の立場がない。

 「三郎ぎみ御成人のあかつきには、兄上には兄上のなすべきことが、この国許であるはず…」

 何やら父か右近と話をしているような気分になってきた。

 まっとうな意見を吐く弟を前に、誠之進は有効な反論を繰り出せずにいた。

 「と…言うのが父上を含めたおおかたの反応でしょう」
慶次郎は唇の端を持ち上げてにやりと笑った。
「慶次郎…」
誠之進は弟の真意をはかりかねていた。
慶次郎は軽く頭を下げると、
「生意気なことを言って申し訳ありませんでした」
「いや…よい。おまえの言うことも一理ある」
苦笑する慶次郎を前に、
「この兄を黙らせるとは…十分に家老になれる器と思うがな」
誠之進はしみじみとうなずいた。

 「それは違います」
「頑固じゃのう…おまえも」
「今の兄上が…理ではなく情によって行動されるのは、特別な理由(わけ)があるのでござりましょう?」
「け、慶次郎」
「以前の兄上なら…きっと先程の私と同じことを言ったはず」

 誠之進はぴくりと眉を動かした。もしや…と思った瞬間、慶次郎が核心をついた。

 「情というより…恋しいお方への誠のためにござりますか?」
「慶次郎…」
誠之進はもはや弟を前に取り繕う気は失せていた。


 「なぜ…わかった?」
慶次郎はくすくす笑い出し、
「それはもう…、兄上はともかく、三郎ぎみの兄上を追う眼差しを見ておれば、お二人の間が尋常なものではないことくらい、少し勘のいい者ならすぐにわかります…」
「さ、左様か…」
以前、小兵太にも同じようなことを言われた。やはり親しい者たちにはばれてしまうものか…。
「志保もとうの昔に気付いております」
「なに…志保までもか!」

 小兵太の奴がばらしたのではあるまいな…?!

 妹にまで己の道ならぬ恋を知られ、誠之進は柄にもなく頬が赤らむのを感じていた。

 慶次郎は狼狽する兄を面白そうに眺めていたが、ふと真顔に戻って話を続けた。
「実は兄上、半月ほど前、文吉(下男)が台所で妙なものを見つけました」
「な…に?」
「投げ文です」

 誠之進は思わず腰を浮かせた。
まさか…、溝口家にまであれが投げ込まれていたとは…。
絶句する誠之進を前に、慶次郎が淡々と続けた。

 「中には…兄上と三郎ぎみのことが書いてありました」
慶次郎は一度だけ、遠慮がちに誠之進を上目使いに見ると、静かに目を伏せた。
「文吉はすぐに私のところへ持って参りましたゆえ、父上はもちろん、他のだれの目にも触れてはおりませぬ」
「慶次郎…すまぬ」
誠之進は父母に投げ文を見せなかった弟の判断を、心からありがたく思った。
「何者の仕業か、お心あたりは…」
「おそらくは…内藤帯刀」
もはや中身を見ずとも同じ文面であることは間違いない。

 やはり内藤のやることは徹底していると、誠之進は今さらながらに思い知った。この分では本丸に「文」が届くのも時間の問題だろう。

 「兄上…」
「慶次郎…政敵に斯様な弱味を握られるとは面目ない。愚かな兄と笑うてくれ」
「いいえ、そのようなことは」
慶次郎はきっぱりと頭をふった。

 「恋ならば…この慶次郎、喜んで兄上と三郎ぎみのお味方になりまする!」
「慶次郎?!」
「なれど私はやはり家老の器ではありませぬ。家督を私に譲って本田家に入るなど、どうかお考え直しくださいませ」
「しかしもう他には打つ手が…」
「あきらめてはなりませぬ、兄上。殿が本田家へのお返事を渋っていらっしゃるのは、御自身も迷われている証拠。及ばずながら私もない知恵を絞ってみますゆえ…」
「慶次郎…」

 「兄上」
慶次郎が何やら嬉しそうに微笑んだ。
「幼き頃より、兄上にはいろいろと御心配をかけてまいりましたが、やっと…兄上のお役に立てる日がきたようで、慶次郎、嬉しゅうござります」
「何を言うか、心配なぞしておらぬわ」
誠之進は破顔すると、
「おまえに…話してよかった」
かすかに瞳を潤ませて、弟に頭を下げた。

 しんみりと見つめあっていると、廊下を摺り足でやってくる足音を聞いた。
障子戸の向こうにしゃがんだ人影は母・咲のものだった。

 「誠之進殿、お父上様がお戻りになりましたよ」

 誠之進と慶次郎は顔を見あわせて、しかとうなずきあった。


つづく


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イラストは「十五夜」さんからお借りしています。


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