十の巻
「母の庭」3




by 戸田采女

 裃姿で帰宅した父を誠之進と慶次郎が迎えた。父・主膳は誠之進の姿を見て一瞬目をみはったが、「よう戻った。今宵はゆるりとしていけ」と言葉をかけ、奥へ着替えに向かった。

 誠之進と慶次郎は夕暮れ時まで、屋敷内の道場で軽く打ち合って汗を流した。

 日が陰り始めた頃、座敷に燭台が運びこまれ、家族水いらずの夕餉がはじまった。五人が揃ってゆっくり膳を囲むのは、思えば正月以来であった。

 守役の仕事だけでなく知行地の視察など、昨年来多忙が日々が続き、誠之進が実家を訪なう回数はめっきりと減っていた。幼き頃から慣れ親しんだはずの夕餉の風景が、どこか懐かしいものとして誠之進の胸に迫った。

 相変わらず慶次郎は盛り上げ役に徹しており、志保も負けじとよくしゃべる。

 今日の父は比較的機嫌がいいのか、ふたりの話ににこにこと耳を傾けている。養子縁組の儀は夕餉のあと、堀田又座右門からの書状をみせながら、父とふたりきりで話そうと思っていたが、今町の御用金の件はこの場で聞いても差し支えなさそうと判断した。

 「父上…つかぬことを伺いますが、勘定方が今年も今町の商人に御用金を課すという噂は、まことにござりますか?」
「誠之進…それは何処からきいた?」
「…商人たちが懸念しておりましたゆえ」
とりあえず、勘定方内部の情報源、筧真之介の名は出さずに、誠之進は話をすすめようと思った。

 「父上は御存知の話でしたか?」
「いや、御用部屋から斯様な指示を出した覚えはない。去年は非常事態ゆえ、一万両という大金を掻き集めたが、常から御用金に頼るのは健全な財政政策とはいえぬ」
「私も同感にござります」
父の言葉に安堵した誠之進はしっかりとうなずいた。

 主膳はゆっくりと杯を干すと、
「奉行の梶田は何をしておる? まさか部下が勝手に動いているのではあるまいな?」
「しかとはわかりませぬが…その懸念はござります。大勢の役人の中には、倹約に努めるより、商人から搾り取るほうが楽と考える者がいるやもしれませぬ」
「困ったものだな。よし、一度儂から梶田に話をしておこう」
「よろしくお願いいたします…」
主膳はふうと息を吐き、
「勘定方の実務ができ、なおかつ金に振り回されない、櫻田右近のような男は中々おらぬのう…」
「まこと…おおせの通りにござりますな」
「惣一郎様が右近をいずれ江戸留守居役にとお考えゆえ、強引に引き止めることはできなんだ。…残念でならぬ」
「父上…」

 はからずも父の口から右近の名が出た。

 小兵太恋しさに、右近との縁組を蹴った志保は、ばつが悪そうに居住まいを正した。誠之進は微笑を浮かべながらも、友を深く傷つけた記憶が蘇り、胸の奥が熱を持ったようにしくしくと痛んだ。

 「結衣様も…孫作殿もお寂しいでしょうに、おふたりとも気丈でいらっしゃる…」
今まであまり口を挟まなかった母・咲が、しみじみと呟いた。
「母上は最近、お会いになったのですか?」
尋ねる誠之進に、
「ええ、つい先日。文吉の里から李(すもも)が届きましたゆえ、少しお持ちしたのです」

 誠之進も春先までは右近の母・結衣に『人参』を届けがてら、時折櫻田家を訪なっていた。心の中で無沙汰を詫びつつ、それとなく様子を見にいってくれる母・咲の気づかいに感謝した。

 皆がしんみりとしたところへ、女中が水菓子を持ってきた。

 李は瑞々しい果汁をたっぷり含み、ほのかな酸味が口の中いっぱいに広がった。




 食事が終わると、主膳は当然のように誠之進を奥の書院へともなった。口には出さねど、話し合うべきことはお互い承知している。

 父のあとについて座敷を出ていく誠之進に、慶次郎がちらりと目配せした。おそらくは廊下で立ち聞きするつもりだろう。場合によっては助勢する気かもしれない。

 部屋に入って父と一対一で向き合う。

 誠之進はまずは落ち着こうと深く息を吸った。懐には堀に借りてきた堀田又左衛門からの書状がある。これが大きな援軍となるはずだが、真っ向から意見が対立している父を説得するのは至難の技だ。今さらながら、目の前に坐る筆頭家老の父に、誠之進はえも言われぬ威圧感を感じた。

 緊張が嫌が上にも高まっていく。

 「誠之進…。先日、堀隼人丞とともに殿にお目にかかったそうだな」
ついに主膳が口火を切った。
「はい…」
「本田家の素行について調べたということだが…」
「はい。父上にお見せすべく、ここに堀田様からの書状をたずさえて参りました」
誠之進は懐から分厚い書状を出すと、押し頂くように主膳の前に差し出した。
「…では拝見しよう」
主膳はうなずくと、幾重にも折り畳んだ書状を広げながら読み進んだ。

 主膳は途中、一文字眉を微かに上げて驚きを示しながらも、ていねいかつ冷静に書状を最後まで読み切った。

 「…なるほど」
主膳は唇の端に冷笑を浮かべた。
「いかにも御正室様の企みそうな話じゃな」
主膳は書状をたたみながら、軽蔑したように鼻をならした。

 少なくとも、この点においては自分と父の解釈は一致したようだ。
誠之進が勢いこんで、
「…では、堀田様がおおせのように、この縁組、三郎ぎみのおためにはならぬゆえ…」
「待て、誠之進」
主膳の声が沈んだ。

 「いかに本田忠直に斯様な性癖ありといえ、それを理由にこちらから縁組を断るわけにはいかぬぞ」
「何ゆえにござります!?」
「ばか者!そんなこともわからぬのか?」
誠之進は唇をかんだ。
「先方はあくまでるり姫の婿にと言ってきておるのだ。こちらが忠直殿の性癖をあげつらい、危惧を口にすれば、あちらの重臣どもから『わが藩を侮辱するのか』と反発をくらうは必定」
「反発とは笑止な。どうせ重臣たちもぐるではありませぬか?」
「わかっておる。彼奴らの狙いは何とか世継を決めて幕府に届け出て、御家の安泰をはかること。もうひとつは忠直殿が外で悪さをせぬよう、美童を邸の中にかこって押し込めてしまおうというわけじゃ」

 「そこまでおわかりなら、何ゆえ父上は反対して下さりませぬ!」
「田安殿と揉めとうはない」
「何と…それでは、父上は田安様やお牧の方様の悪意を承知の上で、みすみす三郎ぎみを差し出すおつもりですか?!」
「そうは言っておらぬ」
「養子縁組を断らぬというのは、そういうことでござりましょう?!」
誠之進は思わず声を荒げて、父を睨み上げた。
主膳は腕組をしながら、
「形の上、一応受けておいて、できるだけ婚儀を引き延ばすのじゃ。何なら三郎ぎみの元服を一年くらい遅らせてもよい」
「父上!」
「又左殿の言うことが真なら、本田忠直は美童を好むのであろう? ならば、三郎ぎみが前髪を落とし、立派な成人男子ともなれば、そう言う意味ではもはや食指が動くまい」
「父上…なんと言うことを。わが父上のお言葉とは思えませぬ」

 結局三郎を「餌」として差し出すことにかわりない。
しかも、とうがたって旨味が落ちた頃に差し出そうなどとは…三郎を人とも思わぬ、あまりな言い種である。三郎を心底愛する誠之進としては耐え難い。

 「誠之進…誤解しておるようだが…」
誠之進は膝上に視線を落としたまま、主膳の顔を見ようとはしなかった。
「儂とて三郎ぎみが可愛くないわけがない」
「…信じられませぬ」
誠之進は冷たく言い捨てた。
「お小さい頃から、幾度もこの邸にもお招きし、家族で御成長を見守ってきたのだからな」
「ならば、何ゆえ若のお幸せを考えて下さりませぬ?!」

 「分家五千石が三郎ぎみの幸せか?」
「はい…それで十分と若は以前から申されております。三郎ぎみは何処へもいきとうはないのです!」
「それはまだお若いからじゃ。駿河横河藩…、領地としては悪くないぞ」
「父上…っ」
「この高山に比べ、気候は温暖、漁業も盛んで作物の収量も多く、東海道の宿場町には多くの金が落ちる。斯様な場所では民の生活も豊かで不満がたまりにくい、ゆえに国を治めるのは容易なはずじゃ」

 結局父も、武家の目線、統治者の目線でしか物事を見ようとしない。部屋住みや分家よりも、一国の藩主のほうが上、それが武家に生まれたものの幸せと…。

 押し黙る誠之進を前に、主膳はなおも続けた。
「三郎ぎみが幼い頃からつきっきりでお育てしたのじゃ。情が移ってしまった其許(そこもと)の気持はわかる。だが、其許も『三郎ぎみの幸せ』というのなら、今のお気持だけでなく、長い目で見た将来も考えてみてはどうじゃ?」

 既に高齢の本田忠直があの世へいってしまえば、三郎ぎみは晴れて五万石の藩主。めでたしめでたしというわけか。

 「誠之進…儂は最終的には殿の御判断を尊重しようとおもう。なれど、今申したことは、儂の意見として殿にも言上つかまつるぞ」
「父上…」

 父・主膳に斯様な妥協案を出されては、殿はすぐにも飛びつくだろう。父は巧妙に信輝公が欲する答えを用意し、結局は自分の意志を通す。とても誠之進には太刀打ちできなかった。
 
 となれば後は…。

 「では父上…」
誠之進はいよいよ覚悟したように面を上げた。
唇が震えぬよう、誠之進は深く息をついて心を鎮めようとした。
「殿が承知なさった場合、私は側近として、三郎ぎみと共に駿州へ参りたいと思います」

 誠之進が決死の思いで放った一言を、
「ならぬ」
主膳はさして驚きもせず、片手で叩き落とすように一蹴した。
「父上、私は本気にござります」
「しつこいぞ、誠之進。お役目は三郎ぎみ元服までじゃ」
「いいえ、誰が何といおうと御一緒に参りまする」
「ならぬ。側仕えならお福や源蔵がついていけばよい」
「…父上が本田家との縁組みをすすめるおつもりなら、私を廃嫡していただきとう存じます」
「ほう…廃嫡とな」

 主膳は大声こそ出さぬものの、誠之進を正面から睨んだまま一歩も譲らぬ構えのようだ。誠之進もここは退けぬと丹田に力を込めた。

 ところが緊張の糸をさくりと断つがごとく、主膳がふと口元を綻ばせた。
「誠之進…、実はな、慶次郎の養子の口が決まった」
「な、何ですと?」
誠之進は呆然と父を見つめた。
「山崎殿の親戚筋で、大村郷の代官の家じゃ」
「そのような話…初耳にござります」
「うむ…返事をしたのは昨日のことでな。まだ慶次郎本人にも伝えておらぬわ」
「なんという…」
蒼白になる誠之進を前に、主膳がかすかに笑みを浮かべてうなずいた。
「…そういうことじゃ、誠之進。其許以外にこの溝口の家をつぐ男子はおらぬ」
「ち、父上…」
「わかったな、誠之進…」

 主膳に深々と釘を刺され、誠之進はがっくりと畳に両手をついた。

 「其許が斯程に情に振り回される男とは思わなんだ…。もっと精進せい…」

 父の呟きを遠くに聞きながら、誠之進の思考は深い闇の中に沈んでいった。

 主膳は『夜も更けたゆえ、もう西の丸へ帰れ』と言い残し、静かに座敷を出ていった。やはり立ち聞きしていたのか、しばらくして入れ代わりに慶次郎が現れた。

 「兄上…」
「慶次郎…」
「私の養子の話など…口から出まかせ、はったりではありませぬか?」
「かもしれぬが…いずれにせよ、これで八方塞がりじゃ…」
誠之進はうなだれたまま、力なく首を振った。
「兄上っ! 弱気になってはいけませぬ! …そうじゃ、こちらから断れぬなら、本田様のほうからお断り下さる様、仕向ける策を考えてみませぬか?」
「慶次郎…もうよい」

 誠之進は慶次郎の手をとって、
「よいのだ…慶次郎、ありがとう」
熱く目を潤ませながら、何度もうなずいた。




 帰りがけ、見送りに出てきた母と志保から包みを手渡された。
「これは?」
「三郎ぎみの夏袴ですよ。中村屋さんから良い反物をいただきましたゆえ…」
「母上、いつも…かたじけのうござります」

 長年、三郎をわが子のように慈しんでくれた母。
誠之進は今までの感謝をも込め、包みを押し頂くようにして礼を言った。

 「兄上の分はこれから私が縫いまする!」
志保が明るい声で、誠之進にまとわりついた。
「ほう…おまえがか。それは出来上がりが楽しみじゃな」
妹に向かって笑顔を作ることさえ、今の誠之進にはつらかった。
「はい…来月中にはお届けにあがります」
「うむ…楽しみにしておる」
誠之進は言葉少なに微笑むと、
「では母上、志保、私はこれにて」
二人に向かって深々と一礼した。
「今度は三郎ぎみもお連れくださいませ」
ふくよかな、慈愛に満ちた母の笑顔が、誠之進の胸に突き刺さった。

 誠之進が守役を仰せつかり西の丸に移り住んで以来、母は毎年欠かさず、季節の変わり目ごとに誠之進と三郎の着物を縫って届けてくれた。滅多に屋敷に戻らぬ誠之進に愚痴ひとつこぼさず、たまの帰宅には誠之進の好物をあふれんばかりに用意して…。

 自分は…三郎ぎみを守るためとはいえ、この母と妹を捨てようと…。

 後ろめたさが大波のように誠之進を襲った。

 奥歯をかみしめつつ無言で目礼すると、誠之進はきびすを返して足早に長屋門を出ていった。




 提灯片手に堀割り沿いの道をゆく。湿気を含んだ生暖かい夜風が柳の枝を揺らしていた。蛙の鳴き声をどこか遠いものに聞きながら、誠之進は沈思に落ちていた。

 もはや三郎とふたり、袋小路に追い詰められたような気分だった。
三郎は本田家へやられ、自分はついていくことも叶わず、三郎のいなくなった国許で家老としての責務を果たしつつ、妻を娶り溝口の家を守る…?

 そして本田家にやられた三郎は…。

 元服を遅らせ、多少の時間稼ぎをしたところで、三郎を見れば、その愛らしさに、瑞々しい身体に本田忠直の食指が動かぬわけがない。閨にひきずりこまれ、好色な老人に嬲り尽される三郎を思い描き、誠之進は怒りに骨まで震えた。

 そのようなこと、断じてあってはならぬ!

 『ならばいっそ、ふたりで死ぬか…』

 契り合ったふたりに別れなどあってはならない。当然のごとく誠之進の思念はそこへ行きついた。だが、実際言葉にして呟いてみると、その愚かしさに誠之進は苦笑した。

 『ばかな…なぜ我らが死なねばならぬ。…三郎ぎみの人生はこれからぞ。手塩にかけてお育てした若の命、己が奪うような真似をしてはならぬ』

 『ふたりで供に生きてこそ…じゃ』

 かくなるうえは一。
今まで考えてもみなかった二文字が、誠之進の脳裡に鮮明に浮んだ。


母の庭 了


「母の庭」2「夕凪」1
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イラストは「十五夜」さんからお借りしています。


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