十一の巻
「夕凪」1




by 戸田采女

 『出奔』

 残された選択肢はそれしかないように思えた。しかし無事逃げ切るには周到な計画が必要だった。

 いつ? どこへ? どのようにして?

 仮に三郎と首尾よく領内を脱したとしても、その後どうやって暮らす? 武家の主従の姿では到底諸国を旅することなどできぬ。すぐに身元が割れてしまうからだ。身をやつして市井に暮らすか、修行中の武芸者を装い諸国を放浪しつづけるのか?

 当座の金はこれまでの自分の貯えで賄えるとしても、何年も遊んで暮らせるわけはない。

 自分の身すぎ世すぎだけでなく、残った家族はどうなる? 父や溝口家に類が及ぶことは…?

 それに、三郎とふたりだけでは事は成せない。信用できる協力者が必要だ。いったい誰を選ぶ?

 問題は尽きなかった。幾多の疑問符が誠之進の脳裡に浮んでは消える。

 街道を中途半端に逃げても、すぐに捕まって連れ戻されるのは目に見えている。
ならば海はどうだ…。これまでは単なる夢でしかなかったが、一気に海路で蝦夷まで逃げれば、追手もあきらめるやもしれぬ。

 右近…。おまえが今ここにいれば、おそらく命がけでとめるであろうな。若君と抜き差しならぬ仲になった挙句、出奔とは、まこと、分別ある男のすることではない。

 なれど…三郎ぎみ分家は許されず、私が本田家へ入る道も封じられた。もはや万策尽きたのだ。

 父上はできるだけ姫との祝言を遅らせるというが、縁組を正式に承諾すれば、結局、田安様あたりから圧力がかかり、どんどん話をすすめられてしまうに違いない。この縁組、やはり何があっても承諾してはならぬのだ。それには本田家に返事をする前に姿を消すのがよい。今ならまだ、私が三郎ぎみを連れて出奔すると思う人間は少ないだろう。

 それに…万一、失敗して連れ戻された時、私は切腹を免れまいが、他国への養子をそこまで厭う三郎ぎみのお気持ち、殿もわかって下さるやもしれぬ。私の命とひきかえに三郎ぎみが助かるなら本望じゃ。

 右近。今いちど、おまえに会っておきたかったが…。三郎ぎみを連れて出奔した後、江戸へおまえを訪ねるなど、もはや許されることではない。

 この出奔が成功しても失敗しても。
おまえに二度と会えぬとすれば、それが…何より心残りだ。




 五月二十八日

 誠之進は三郎、小兵太、お福、源蔵を伴って、今町湊へ海水浴に出かけた。町外れの溝口家の別邸で一泊するつもりである。

 まことに海水浴が目的ならば、三郎の友人でもある、警護の神原倫太郎も連れていくところだが、今回、誠之進は『久々に実家へ戻って親孝行せい』と申し付け、敢えて倫太郎を伴わなかった。

 仲間はずれにされたと思ったのか、倫太郎は明らかに不服そうだった。可哀想だが、秘密を分かちあうのは限られた者だけにせねばならぬ。誠之進は肩を落とす倫太郎に心の中で詫びた。

 桜狩以来の遠出に源蔵ははしゃいでいたが、三郎はこれがただの遊山ではないことを敏感に感じ取っていた。

 本田家との縁組、江戸の堀田からの返書の内容については、とっくに小兵太やお福の耳に入れてある。誠之進はその日、三郎の気持ちを確かめたのち、出奔の決意を三人に話そうと思っていた。




 早朝高山城下を出発し、水路、川船で今町まで下り、昼時には湊に到着した。一旦、溝口家の別邸に入って荷を解くと、重箱に詰めて持参したお福の手料理で腹を満たした。

 溝口家の別邸は、山屋敷にくらべると小じんまりしたものだったが、背後には深閑としたブナ林が広がり、入り江になった浜へ降りるのも丘を下れば二、三分という、夏の休日を遊ぶには格好の場所にあった。

 別邸には毎年夏になると溝口家の誰かが訪れるので、管理を任せている老夫婦が毎年五月頃から掃除をしている。夜具は清潔なものが用意され、薪も十分納屋に貯えられていた。誠之進は夫婦に心づけをやって労うと、今回はお福と源蔵を伴っているので、食事の仕度や風呂焚きはこちらでやるからと、遠回しにこれ以上の手伝いを断った。

 気をきかせた夫婦は余計な詮索はせずに、米や味噌に手製のぬか漬け、新鮮な野菜を駕篭いっぱい、台所に残して去っていった。

 「よし。魚は俺様が釣ってきてやるから安心しな」
小兵太は襷をかけて既にやる気まんまんだ。
この男、剣と口だけでなく、釣りもなかなかに達者だった。
「小兵太様、では魚屋へは参りませぬので、よろしくお願いいたしますよ」
「おう!お福、まかしとけ!」
小兵太はどんと胸をたたいた請け合った。

 「では私は岩場で貝でも採ってまいりましょう」
源蔵が妙に明るい声で申し出た。
実は源蔵、泳ぎがあまり得意でない。
誠之進に水練でしごかれるのを恐れたのか、すすんで食料調達を志願した。

 「なんじゃ源蔵、せっかく海に来たのに泳がぬのか?」
無邪気に問いかける三郎に、
「わ、私は潮干狩りのほうが性にあっておりまする。三郎ぎみはどうぞ誠之進様と水入らずで…」
源蔵は言葉にしてから気付いたのか、思わず歯をむいて、うししと笑った。
三郎は頬を微かに染め、しばらく押し黙っていたが、
「…言われなくてもそうさせてもらう」
つんと横を向きながら、存外したたかにやり返した。

 それを聞いた源蔵が、
「…なんか三郎ぎみ、最近初々しさがなくなりましたね」
三郎に背を向けてぼそぼそと呟いた。
「何! 何か言ったか、源蔵!」
「いいえ〜、私は何も〜!」

 源蔵は振り返って三郎にあかんべーを食らわすと、かまどの傍に転がっていた竹駕篭を掴み、脱兎のごとく外へ飛び出していった。

 「あいつ!」
拳を振り上げた三郎を、誠之進が後ろからふわりと抱きしめた。
「…放っておきなされ」
「せ、誠之進!」
小兵太がまだその辺にいたはずと、三郎は慌てて周囲を見回し、誠之進の腕を外そうともがいた。
背後で誠之進は可笑しそうに喉をならした。
「小兵太なら釣り竿を探しに、お福と一緒に納屋のほうへ行きましたよ」
「なんじゃ…早うそれを申せ」
ほっとしたように三郎は肩の力を抜いた。

 誠之進は三郎のこめかみに後ろから軽く口づけた。
「では、私達は早速泳ぎにいきましょうか?」
「うむ」
あっさりと機嫌を直した三郎は、両頬に薄いえくぼを浮かべ、嬉しそうにうなずいた。


つづく


「母の庭」3「夕凪」2
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壁紙は「空色地図」さんからお借りしています。


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