十一の巻
「夕凪」2




by 戸田采女

 三郎と誠之進は浴衣に着替えて浜に降りた。

 夏の盛りではないため、砂が焼け付くような照り返しはない。時節的には梅雨の前半であったが、この時期の雨は長続きせず、越後一帯が鬱陶しい梅雨空に覆われるのはもう半月ほど後のことだった。

 梅雨の合間の夏空の下、主従は潮風に吹かれながら波打ち際を歩いた。
 
 素足に触れる水は少し冷たかったが、せっかく海に来たのだしと、誠之進と三郎は浴衣を脱いで下帯一枚で水に入った。ちょうど潮が干きはじめる時刻で波も穏やかだった。

 久方ぶりの海が楽しいのか、三郎は誠之進より一足先にずんずん海に入ってゆく。水が胸の高さに達したあたりで、三郎は抜き手をきって泳ぎ始めた。
「若、入江の外へ出てはなりませぬぞ!」
誠之進は一声かけると、三郎の後を追うように自分も泳ぎ始めた。

 藩校の池でも夏場は毎日のように水練の稽古があるが、海で泳ぐのはせいぜい年に一度か二度である。海に不慣れな三郎が入江の中はともかく、外海に出て泳ぐのは危険だと、誠之進は毎年口を酸っぱくして注意している。

 誠之進は三郎の様子を見守りつつ、平泳ぎであとを追った。

 快調に水しぶきをあげて泳ぐ三郎。どうやら入江の突端にある岩場を目指しているらしい。
「ならば…」
いたずら心を起こした誠之進は、三郎を追い越してやろうと、突然抜き手をきって泳ぎ出した。
本気を出せば三郎との二間くらいの距離はあっという間に埋まる。追い抜いた瞬間、悔し気な表情がちらりと目に入ったが、誠之進はそのまま豪快に抜き手をきり、一足先に岩場に辿り着いた。

 ひととき胸の憂いも忘れ、久方ぶりに全力で泳いだ誠之進は、爽快な気分を味わっていた。

 泳ぎついた先には人がふたりくらい座れる平たい岩棚があり、誠之進はそこへよじ登った。おそらくこのあたりは、満潮時には波に隠れてしまうのだろう。

 間もなく追い付いてきた三郎に上から手を差し伸べると、三郎は膨れっ面で渋々誠之進の手をとった。
片手で軽々とひっぱりあげてやると、
「…そなた、泳ぎも達者だな」
「…いえ、私なぞ大したことは。海で生まれ育った者にはかないませぬ」
誠之進が破顔すると、
「まだまだ何をやってもそなたに追いつけぬ…」
三郎は拗ねたように呟き、誠之進の隣に腰を降ろした。
そのまま三郎は少し甘えるように、誠之進の裸の肩にもたれかかった。

 誠之進の胸に小さな矢が刺さった。その痛みはどこまでも甘く心地よい。
相変わらず三郎は無意識の行動で、誠之進の庇護欲をこれでもかと刺激してくる。

 (若にはかないませぬな…)

 触れあった肩と肩でお互いの温もりを感じながら、ふたりはしばし無言で大海原を見つめた。

 冬は鉛色の日本海の海も、夏は鮮やかな紺碧が目に眩しいくらいだ。波も穏やかな日が多い。夏場は今町への船の出入りも多く、大小の北前船が沖合いの波間に揺れていた。

 子供の頃から何度も訪れた今町の海だが、眼前に果てしなく広がる大海は、今年は特別の意味を持って誠之進の胸に迫った。

 誠之進が寄せては返す波音に聞き入っていると、三郎がぽつりと呟いた。

 「誠之進…、今日、お福たちとここへやってきたのは、何か理由があるのだろう?」
「若…」
やはりお気付きだったか、と誠之進は胸の中で呟いた。
「倫太郎がいては話せない、秘密の…話なのか」
「はい…」

 正直、いつ切り出そうか迷っていた。皆の前で出奔の話をする前に、三郎の気持ちを確かめておきたかった。三郎から水を向けてくれて幸いだったかもしれない。誠之進は腹をくくり、ひとことひとこと慎重に言葉を選んで話し始めた。

 「先日、溝口の屋敷へ帰りましたおり、三郎ぎみと本田家との養子縁組の儀につき、父・主膳と膝を交えて話しをいたしました」
「うむ…」
「残念ながら…父は本田家との縁組をすすめる意向です。横河藩は温暖な気候に恵まれ、実石高以上の豊かな藩。三郎ぎみのご領地として理想的ではないかと…」
「誠之進っ…」
三郎の眸が不安に揺れ始めている。
「…父上と主膳が賛成ならば、分家は…もう望めぬということか?」
誠之進は無言でうなずいた。
「さすれば…いかにしても本田家との養子縁組、断ることができぬなら、三郎ぎみの後見として本田家へ供に参りたい、私を廃嫡し、弟・慶次郎に家督させ、家老職を継がせてほしいと父に願いでました…」
三郎は息をつめ、黒目がちの瞳がひたと誠之進を見つめていた。
「なれど…」
「わかっておる…主膳が左様なことを許すわけがない…」
皆まで言わせず三郎が悲しげにひきとった。
誠之進は三郎の目の奥を見つめて、
「私の力が足らず、父を説得できませんでした。誠に申し訳…ござりませぬ」
首を垂れて詫びる誠之進を前に、三郎は目を伏せたまま何度も小さくうなずいた。
「よいのだ…誠之進。そのようなこと、初めからわかっておった‥そなたが謝ることなど…」
「若…」

 三郎の頬が涙で濡れていた。
幾筋もの涙が頬を伝う中、懸命に口元に笑みを浮かべようとしている。

 誠之進に無理をさせまいと、これ以上負担とかけまいと、三郎は別れを受け入れようと心の準備をしているのだろうか?

 だとすれば、守役で、三郎より遥か年上の自分の、なんと往生際の悪いことか…。

 誠之進とて己の判断に常に自信があるわけではない。なれど、江戸藩邸奥の企みが、誠之進や堀隼人丞の杞憂だとはどうしても思えなかった。三郎が若衆狂いの老人の餌食になるくらいなら、この先どんな苦難が待っていようとも二人で新天地を求めたほうがましではないか?!

 往生際なぞ悪くて結構。

 商人と多少の付き合いがあるとはいえ、武家の世界しか知らぬ誠之進だった。しかし自分が武家社会の外で生きられぬとは思わない。愛しい三郎となら、いくらでも新しい道を切り開いていけるような気がした。

 少なくとも、誠之進とふたり、出奔する意志があるかどうか、三郎に聞いてみないことには始まらない。もし三郎が今の暮らしや若君の身分を捨てられぬのなら、誠之進はすべてを潔く諦めようと心に決めていた。

 誠之進は三郎の肩に腕を回してしっかりと引き寄せ、勇気づけるように続けた。
「若…大事な話はこれからですぞ」
「え…」
三郎が嗚咽をかみ殺しながら、上目使いに見上げた。
「よろしいですか、若。殿や父が何と言おうと、私は…若のお側を離れませぬ」
「誠之進…?」
「決して…離れぬと誓うたではありませぬか?」
「誠之進っ」

 『出奔』を仄めかすのはさすがに勇気がいった。口に出したら最後、自分でももう後戻りはできない。誠之進は今いちど、己の胸のうちに問いかけるかのように、深く息をついて瞑目した。

 「もし…私が、ふたりで旅に出ようと言いましたら、若はいかがなされます?」
「旅…に?」
三郎の唇が震えていた。
裸の肩をぴったりと寄せながら、誠之進の前腕にすがりつくように力を込めてくる。
誠之進はしっかりとうなずき、
「左様…。ふたりだけで高山を離れるのです…」
「それは…二度と戻らぬという意味か?」
「おそらくは…そうなりましょう」
「誠之進っ!」

 三郎は目をいっぱいに見開き、誠之進の腕を揺すぶった。
「そなた、溝口の家はいかがする?!」
「…かくなる上はいた仕方ありませぬ」
「家を…捨てるのか?!」
誠之進は無言でうなずいた。

 無論、そのことに何の呵責も感じないわけがない。
だが、残していく家族の心配は今は二の次だ。三郎をなるべく早く領内から連れ出さねば、本田家との縁組が成立してしまう。そして…誠之進と三郎の仲を暴いた、例の怪文書が藩主・信輝公の目に触れる前に動かなければ、万事休すだ。

 「そんな…主膳やそなたの母上をいかがする? 家老の地位は…」
三郎の声がうわずっていた。
「…覚悟は、決めたつもりです。知行、身分、家…すべてを捨てて裸一貫になりまする」
「そのようなこと、できるものかっ!」
ほとんど金切り声で叫ぶ三郎を、誠之進はきつく両腕で抱きしめた。

 三郎は誠之進の胸に額を擦り付け、にぎり拳で誠之進の肩を叩いた。
「ばかなことを言うな…誠之進。そんなことをすれば、そなた…必ずや後悔するぞ…」
涙声で言い募る三郎…。誠之進はただひたすら腕に力を込めて、三郎の身体をじっと抱きしめていた。

 腕の中のいとしい温もり…。触れあった胸から三郎の思い乱れた胸の鼓動が聞こえてくる。三郎は自分のことはさておき、家族を捨てていく誠之進の気持ちを思い心を痛めている。

 そういう三郎が、誠之進はいじらしくてたまらない。
七年前、加賀屋から城に引き取られるときも、九歳の三郎は大きな黒い瞳に涙をいっぱいためながら、ただの一言も駄々をこねずに、迎えにきた誠之進の馬に乗った。祖父と引き離され、不安と寂しさに震えながらも、健気に己の立場をわきまえて、周囲の大人たちの言うことに従った。

 今も三郎は…本田家に自分が養子に入ることが、誰にも迷惑をかけぬ最善の道と考えているのやもしれぬ。

 せつなすぎて…胸が張り裂けそうだった。

 「後悔など…いたしませぬ」
誠之進は深い声音で三郎の耳もとにささやいた。
「誠之進…」
「若をおひとりで本田家にいかせてしまっては、それこそ悔いが残ります」
黒目がちの瞳をのぞきこむようにして、誠之進は唇を柔らかく綻ばせた。

 前髪好きの本田忠直が、姫の婿に迎えるといいながら、その実、三郎を閨の相手にしようと手ぐすねひいている。しかも斯様な茶番を仕組んだのが、信輝公の正室・お牧の方とその兄・田安殿。三郎がそれ程までに御正室に疎まれていることを、誠之進はとても本人には告げられなかった。

 この事実を伏せていては、誠之進の危機感は三郎に十分伝わらない。しかし、それでもよいと誠之進は思っていた。既に思い悩んでいる三郎の心をこれ以上傷つけたくはない。

 三郎がどこまでも誠之進とともに行きたいのか否か。その問いへの答えがもらえればよい。

 誠之進は三郎の前髪にそっと口づけた。
「何も、今すぐ返事をいただかなくても結構です」
「え…?」
「若もどうかよくお考えくださりませ。父君の意向に背き、何不自由ない暮らしを捨てて…それでも私とともに出奔する意味があるのかどうか…」
「せ、誠之進…」
三郎は掠れた声でひとこえ呟いた。
「今日は…この話をしたくて、わざわざ遠出をいたしました。西の丸の屋敷で使用人に話を聞かれ、万一密告されれば、取りかえしがつきませぬ。ふたりだけで出かけて人目をひくことも避けたかったゆえ、お福や小兵太も一緒に…」
「そうだったのか…」
再びじんわりと潤み始めた三郎の瞳から、涙が溢れそうになっている。

 たったひとりの父君を裏切って出奔など…三郎にとっても過酷な選択だった。

 愛人としての本音を言えば、問答無用、今、この場からでもさらって逃げたい。しかし、誠之進の中の守役としての声が、性急な行動をとることに歯止めをかけていた。

 三郎にも考える時間を与えるべきだと。三郎の生きる世界の中に、誠之進以外にも大切なものがあるだろう。失いたくないものが沢山あるだろう…。それら全てのものと秤にかけ、最後に誠之進の手をとってくれるなら…。その時は、何があっても必ず三郎を守り抜き、幸せにする…。

 西の空が茜色に染まり始めていた。崖の上の松ヶ枝が長い影を落とし、浜に降りてから随分時がたったことを知らせていた。

 一刻ほどの間にさらに潮がひき、誠之進たちの腰掛けた岩場も、三尺ほど水面から高くなっていた。

 話すべきことはすべて話した。
誠之進は沈んだ気分をひきたてるべく、
「そういえば源蔵のやつ、どのあたりまで貝をとりにいったのやら…。丁度引き潮ですし、サザエやトコブシなぞ、さぞかし沢山とれたでしょうな」
「ああ」
「つまみ食いのしすぎで腹痛を起こしているやもしれませぬ」
源蔵をねたに冗談めかして笑った。
「う、うん…」
「夕餉が楽しみにござります」
「ああ…」
三郎は誠之進と顔を合わさず、ほとんど上の空で返事していた。

 「さあ、そろそろ泳いで戻りましょうか…」
「うむ…」
三郎は小さくうなずくと立ち上がり、一足先に水に飛び込んだ。

 (やはり悩んでおいでなのだな…無理もない)

 誠之進はすぐさま後を追い、前をゆく三郎を気づかいながら、浜を目指して抜き手を切った。


つづく


「夕凪」1「夕凪」3
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壁紙は「空色地図」さんからお借りしています。


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