九の巻
「花月」3




by 戸田采女

 ちょうど菖蒲の季節を迎え、大文字屋の庭園内にある池の端には、青、紫、白と涼やかな色の菖蒲が群生している。朝からめずらしく五月晴れの空が広がり、昼時には気温はかなりあがっていた。帯刀と右近は池にかかった橋を渡り、対岸の樫や楡の木陰へと足を向けた。

 時折、遠くのほうから酒食を楽しむ客の歓声が聞こえてくる。
帯刀は呑気に空を見上げ、
「今日は暑いのう…」
懐から扇を取りだしてはたはたと扇ぎはじめた。
とぼけた仕種が癇に障ったが、右近は極力いらだちを見せまいとした。
「江戸にはいつから御滞在で?」
「ん?先月からじゃ。京、大坂に寄ったその足でこちらへ参った」
「ほう…もはや悠々自適というわけですか?」
右近は桜色の唇を薄くゆがめて笑った。

 去年の秋、藩金流用が発覚し、帯刀に閉門が言い渡されたとき、筆頭家老・溝口主膳は帯刀をそのまま隠居させ、嫡男・弥一郎に家督と次席家老の役をつがせる考えだった。

 「いや、儂はまだ隠居はしておらん」
「弥一郎殿が…家督されたのではなかったのですか?」
驚きに眉を上げた右近に、
「なに、主膳や殿にもそう言われたらしいがな、弥一郎の奴がまだ弱輩だからと辞退しおった。さすが儂の息子よ。身の程を心得ておる」
「…左様にござりましたか」

 抑揚のない声で返答しながら、右近はこれでまた帯刀との政争が振り出しに戻ったことを悟った。

 結局、万両単位の藩金を流用しながら、この男はたった百日の閉門で自由の身になったのだ。切腹はおろか、隠居にすら追い込めなかった。

 事実上、自分や誠之進の完敗だと、右近は臍を噛んだ。

 その帯刀が江戸へ出て、次は何をしようというのだ?

 「先程の少年、三郎ぎみによう似ておりましたな?」
「なかなか美しい前髪であろう?」
悪びれもせず答える帯刀。
「…あのような少年をつれ回し、一体何を企んでおられる?」
気持ちがはやり、つい詰問口調になってしまった。
帯刀は冷笑を浮かべながら、
「ふっふっふ…。あの者は彩之介というてな。今度新しく召し抱えた、弥一郎の小姓じゃ」
「左様な事を聞いておるのではない!」

 「右近…」
帯刀は片頬で笑い、じりっと右近との距離を詰めた。
我知らず、二歩、三歩と右近が後ずさりする。
帯刀は樫の大木に右近を追い詰めると、扇の端で右近の顎を軽く持ち上げた。
「何をむきになっておる…そなた、まだ誠之進と三郎ぎみのことが気に掛かるのか?」

 この男はいつも薄皮を引き剥ぐように、右近の心のうちを暴こうとする。右近自身、懸命に見るまい、気付くまいとしてきた誠之進への未練…今しばらく、時を与えられれば忘れられるはずの未練を、帯刀は右近の鼻先に容赦なく突き付けてくる。

 睫を伏せて俯く右近に、帯刀がたたみかけた。
「誠之進に愛想つかして江戸に戻ったのであろう? ふたりの命運など、そなたの知ったことではなかろうに?」

 左様、知ったことではない…!

 と…言い切れぬ自分が歯がゆくて堪らない。

 だが、帯刀を前にそのようなことは断じて認められぬ。
胸の泡立ちをひた隠し、今度は右近が負けじと冷笑を浮かべた。

 「…内藤様は勘違いしておられる」
「何だと?」
「私は…惣一郎様の家臣として、御忠告申し上げているのです。家中に騒乱の種を呼び込むようなお振るまいあらば、看過するわけにはまいりませぬ」
「偉そうな口をききおって…」
帯刀は肉厚の唇をわずかにゆがめて笑った。
右近を逃すまいとするかのように、帯刀は音をたてて木の幹に両手をついた。
「はて、家中に騒乱の種とな? それはそなたの事ではないのか?」
「何をおっしゃりたい?」
「…惣一郎様にお世継ぎができぬのはそなたのせいじゃと、お牧の方さまはえらく御立腹じゃ…」

 痛いところを突かれた右近は、柳眉をつりあげながらも悔しげに押し黙った。
「儂の耳にもとうに噂は入っておるぞ。惣一郎様は中屋敷にそなたを囲って入り浸ったまま、一向に藩邸にお戻りにならぬとか?」
わざと右近を怒らせるよう、帯刀が言葉を選んでいるのがわかった。
乗せられるものかと唇をひき結び、右近は帯刀を睨み上げた。

 「反論せぬことろを見ると、図星か」
「……」
「ほう…。前髪の美少年ならともかく、二十いくつにもなった男に夫を寝取られては、綾姫さまも立場がないのう…。おいたわしいことじゃ」
真っ赤に溶けた銑鉄のごとく、右近の内部で怒りと悔しさが逆巻いていた。
なれど帯刀の言葉はことごとく真実で、右近はひとことも言い返せない。

 帯刀は舐めるような視線を這わせ、
「そなた…いくつになっても花のごとき若衆ぶりじゃのう…」
「くだらぬことを…」
右近が吐き捨てるように言い、つんと横を向く。
帯刀は右近の頬に扇をあて、ぐいと正面を向かせた。
「肌理の細かい女子顔負けの白い肌…、眸も濡れ濡れと艶めいて…これが同じ男とは、いやはや恐れ入る」

 帯刀はさも面白そうに鼻をならし、右近の頬に唇を寄せた。
「尻奉公もほどほどにな…」
ほとんど耳朶に触れんばかりに囁いた。

 (おのれっ…!)

 そのひとことが鋭利な刃物のごとく、右近の我慢の糸をさくりと断ち切った。
右近の指先が脇差の鍔にかかった。

 かすかな金属音に、帯刀が弾かれたように身を離した。

 「ほう…抜く気か?」
帯刀は一歩後ずさり、自分も大刀の束に手をかけた。
右近が鯉口を切りかけた瞬間、
「右近様っ?!」
突然、遠くから大声で名を呼ばれた。

 右近の指の動きが止まった。
「仙之丞…」
菖蒲の池の向こうから、仙之丞がこちらをうかがっている。
「右近様、いかがなされました!?」
樫の木に押し付けられた右近を見て、何事かとこなたへ駆けてくる。

 「ふん…忠犬が加勢にきたか…」
帯刀は鼻先で笑うと、
「右近、儂は逃げも隠れもせぬぞ。当分は天満屋の寮におるつもりじゃ」
「天満屋?!」
自分たちとも縁浅からぬ商人の名に、右近は瞠目した。
「霊巌島の寮じゃ。儂に会いたくば、いつでも訪ねてこい」
帯刀はそう言い捨てると、足早木立の向こうへと消えていった。

 入れ代わりに仙之丞が息を切らして橋を渡ってきた。
「右近様! いったいどうなされたのです? 厠へたったきりお戻りにならぬゆえ、若殿も御心配ですぞ?」
「ああ…すまぬ」
右近は一度大きく息を吸って答えた。
「先程の御仁は?」
「ああ、古い知り人に出会ったのでな…ちょっと世間話をしておった」
「…そういう様子には見えませなんだが?」
仙之丞は警戒心も露に、帯刀の消えていった方角を凝視した。




 内藤帯刀と上屋敷の奥…。
筆頭家老・溝口家に敵対する勢力が、ふたたび江戸で顔を揃えていた。

 三郎によく似た少年…。帯刀はいったいあの者を使って何をしようというのだ?

 自分が安穏と暮らしていた数カ月の間に、陰謀の輪が、ふたたび軋んだ音をたてて回り始めていた。

 いったい…国許で今、何が起こっているのだろう?

 (誠之進…!)

 この数カ月間、もがき苦しみながら、懸命に忘れようと努めた『友』の面影が、右近の脳裡に鮮烈に蘇った。

 「う、右近様…お顔の色が真っ青ですぞ…?」
ふらつきかかったところ、仙之丞が右近の両肩を支えた。
「何でもない」
親身な手を押し退け、右近は先にたって惣一郎の待つ離れに戻ろうとした。


 昨年末の江戸出府以来、右近は微妙な平衡感覚で己を保っていた。滝川道場や中屋敷の面々に囲まれて和やかな日々を送るうち、引裂かれた心は確かに癒されていた。惣一郎の側を己が居場所と決め、一生を捧げるつもりでいる。

 しかし帯刀の出現によってそこに狂いが生じた。

 帯刀は誠之進に何をしかけるつもりなのか?

 友の一大事に、私は何も知らずに江戸で遊びくらしていたのか…?

 右近の心は驟雨の中、行き場を失ったように立ち尽くしていた。
 

花月 了


「花月」2「母の庭」1
青嵐・目次 | 書庫目次


イラストは「十五夜」さんからお借りしています。


Copyright © 2004 戸田采女
All rights reserved.