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帯刀は手はず通り、彩之介とともに大文字屋の離れに駕篭で乗り付けた。
この建物の間取りは土間と水屋、食事をいただく八畳の部屋に、六畳の奥の間がついていた。奥の間は人目を忍ぶ逢瀬の場として使われることも多い。もうひとつ、八畳間の掛け軸の向こうに、二畳ほどの隠し部屋があった。本来は、怪し気な客が入ったとき、店の者が秘かに監視するために造られたものだが、今日はいささか違う目的で、隠し部屋が利用されることとなった。
「本田様、御前、いささか手狭ではありますが、しばらくご辛抱くださりませ」
手拭いで汗をふきながら、高山藩留守居役・岩田善次郎は二人に向かって何度も頭をさげた。
隠し部屋に潜んでいるのは三人。
岩田の他は駿河横河藩主・本田忠直と田安慶久である。
岩田と帯刀がお膳立てした三郎と本田家の養子縁組に、国許で思わぬ反対意見がでていた。最年少の中老、堀隼人丞が本田家の素行を調べあげ、忠直の若衆狂いが露見したのだ。この話は藩主・信輝公の耳にも入り、公は未だに決断を渋っている。
世嗣・惣一郎の母である、正室・お牧の方をとりこみたい帯刀や岩田としては、首尾よくこの縁組をまとめて三郎を厄介払いすると同時に、守役である誠之進、つまりは溝口家の立場を弱めたかった。
信輝公は迷いだしたとはいえ、義兄である田安慶久の口ききでもあるこの縁組み、そう簡単に断れるわけはない。ここは本田忠直をその気にさせて、もうひと押ししたいところであった。
帯刀は彩之介を三郎と偽って、本田忠直に『見せる』つもりだ。
話に聞くだけより、愛らしい『三郎』を己が目で見れば、忠直は自らぜひにと申し入れてくるはず。そこへ田安家が信輝公にやんわりと圧力をかければ、事はうまく運ぶと帯刀は睨んでいた。
今朝がた早く、彩之介と天満屋の手代、為吉の三人で、帯刀は霊巌島の寮を出た。
途中、馴染みの小料理屋に立ち寄り、彩之介に若君の衣装を着せて因果を含めた。
「よいか、彩之介。今日はさるお方がおまえを御覧になる。おまえにはゆえあって、若君のふりをしてもらう。今から言うことをきちんと守ってくれ」
「と、殿様…?」
不安げに見上げる彩之介に、
「なに、案ずるな。誰もその御仁におまえを抱かせようというわけではない」
「あ、そ、それだけはお許しくださりませ!」
彩之介は哀れなほど狼狽した。
縋るような瞳で見上げる彩之介の肩に、帯刀は両手をぽんと置き、
「案ずるなと申したであろう? 儂と歓談しているところを見せるだけじゃ」
「は、はい…」
そうは言われても、いかにも怪し気なこの企み。
彩之介が訝るのも当然だった。
だが帯刀は詳しい説明をする気など毛頭ない。
(おまえは何も知らなくてよいのだ…彩之介)
帯刀は閨で語りかけるときのように、熱っぽい声音で囁いた。
「今日のおまえの働き如何で、儂の御用部屋復帰が決まるやもしれぬ。儂を助けてくれ…彩之介」
彩之介は不安と疑心に満ちた目で帯刀を見上げたが、内藤家のために働けといわれて否と言えるはずもなかった。
「…心得まして…ござりまする」
潤んだ瞳で彩之介は力なくうなずいた。
*
帯刀は彩之介に、自分に対して決して敬語を使うなと言い含めた。今朝、小料理屋で稽古した筋書きはこうだ。江戸に出てきた『三郎』の寺院参詣に帯刀が供をし、大文字屋の離れで中食をとる。料理を待つ間、『三郎』と帯刀主従は一緒に絵双紙なぞを見ている。
帯刀に言われた通り、彩之介は見事に与えられた役を演じていた。
「帯刀、これはなんと言う生き物じゃ?」
愛らしい弾んだ声音で『三郎』が問う。
「それは駱駝にござります」
「ロバのようにも見えるが、何ゆえ背中に斯様なこぶがある?」
「駱駝は砂漠に暮らす生き物ゆえ…」
にわか仕立ての主従が絵双紙を見て語りあう姿を、床の間の掛け軸のむこうから覗く視線があった。
隠し部屋の板壁の一部、正座した大人の目の高さのところに、一寸ほどの穴があいている。その穴はちょうど帯刀と彩之介のいる部屋の、掛け軸の絵柄にうまく溶け込んでいた。普段は穴の部分に小さな羽目板がはまっているのだが、今日は板が外され、横河藩主・本田忠直が染みだらけの額を押し付けて、食い入るように『三郎』を見つめていた。
『あれでまことに十六なのか? ちと幼いのう…』
ひそひそと小声で尋ねる忠直。
岩田が早速にじり寄り、耳もとに囁いた。
『ですが本田様、そのほうが好都合ではござりませぬか? この先まだまだ楽しめますぞ』
『ふむ、それもそうかの。しかしどうじゃ、あのつぶらな瞳は…』
『子鹿のような愛らしさにござりましょう?』
『まこと、柔らかそうな頬に可憐な唇。おお、笑うと薄いえくぼが浮かぶのじゃな…何と愛らしい』
次第に興奮してきた忠直を、背後から田安慶久が、目を細めて小馬鹿にしたように眺めていた。
忠直は『三郎』の愛らしさに骨抜きにされたようだ。
『ううむ…これでは可愛がりすぎて、儂の心の臓のほうが先にまいってしまうやもしれぬのお』
(恥ずかし気もなく、よう言うわ…)
田安慶久は本田忠直の好き者ぶりに内心呆れかえっていたが、
『ふふ…三郎がお気に召したようですな』
社交用の笑みを浮かべて、大きくうなずいた。
『それはもう…』
忠直は肩ごしに慶久を振り返って、目尻を下げた。
岩田はほくほく顔で、
『では、田安様から殿にふたたび返事を迫っていただきましょう…』
『是非ともよろしくお頼み申しあげます…』
忠直本人からも鄭重に頭を下げられ、
『…心得ました。信輝殿が八月に江戸へ出府されるまでに、私からも直接書状を送りますが、それで埒があかぬなら、一度、直に会ってお話してみましょう』
『かたじけない…』
『御前、何卒、よろしくお願いいたしまする』
感謝に耐えない眼差しで、岩田は蛙のように畳に這いつくばった。
*
右近は庭先に潜み、しばらく座敷の様子をうかがっていたが、中の会話まではよく聞こえなかった。帯刀がここで何をしているのか、ぜひとも確かめたかったが、
「もし…何ぞこちらに御用でしょうか?」
店の者だろうか。背後から町人風の男に呼び掛けられ、右近ははっと振り向いた。
「おぬし…っ」
物堅そうな町人のなりはしていても、右近はその男に見覚えがあった。
蛇のような眼は一度みたら忘れられぬ。
「おぬしこそ、江戸で何をしておる…」
男は内藤帯刀子飼いの忍び、たしか玄海とか呼ばれていた。
「おや、私のような下賤の者の顔を覚えていて下さったとは…光栄ですな。右近様…」
ねっとりと低い声音で男は呟いた。
「今度はどこぞの手代に化けたか…」
「ご明察…天満屋の手代、為吉というのが今の名にござります…」
腰低く応対しながらも、為吉は右近と離れの上がり口の間にさりげなく割って入り、これ以上右近を建物に近付けまいとしていた。
「あの少年は…?」
為吉が口を割るとは思えなかったが、右近はやはり尋ねずにはいられなかった。
「気になりますか?」
為吉は薄い唇にからかうような笑いを浮かべた。
右近が答えに窮していると、
「為吉。誰ぞおるのか?」
障子戸の向こうから、忘れもしない、内藤帯刀の野太い声が聞こえた。
「殿様…。思いもかけないお方とはち合わせしたようですぞ」
もはや隠しても仕方ないと割り切ったのか、為吉は、
「櫻田右近殿にございます」
言いながら、上目使いに右近を見てにやりと笑った。
「なにっ…」
今度は帯刀が驚く番だった。
するりと障子戸が開き、銀鼠の小袖に袴をつけた帯刀が顔をのぞかせた。派手好きな帯刀にしては珍しく地味な衣装だ。
「ほう…斯様なところで再会するとは…」
「…おひさしぶりにござります」
右近は年長者に対して相応の礼をつくした。
帯刀は右近をまじまじと見つめた後、
「息災のようじゃな…。もうすっかり身体の具合はよいのか?」
「はい…おかげさまで」
「うむ…それは祝着至極。国許におったときのそなたは、気の毒なくらい憔悴しておったからのう…」
この男の、傷口に塩を塗りこむような物言いは、今に始まったことではない。
右近は薄絹をまとったような微笑で淡々と答えた。
「ご親切…痛みいりまする。内藤様こそ、さぞやお力落としのことと思いきや、増々御健勝の御様子にて安堵いたしました…」
「何の何の…殺しても死なぬとは、儂のような男のことを言うのであろうな」
帯刀は逞しい半身をゆすって、さも愉快そうに笑った。
「御運の強さ…某もあやかりたいものです」
右近も負けじと、口元に芙蓉のごとき笑みを浮かべる。
皮肉の応酬は引き分けというところか。
ふたりはしばらく無言で対峙していたが、
「帯刀…いかがした?」
座敷の中から声変わり前の愛らしい少年の声がした。
(先ほどの…少年か?)
障子戸の隙間から顔を覗かせた少年に、右近は一瞬目を奪われた。が、よく見ればやはり三郎ではなかった。声が高すぎるし身体つきも小柄だ。
黒目がちの瞳が三郎と似た雰囲気をたたえていたが、顔の造作はそれほど酷似しているわけでもなかった。
右近に吟味するがごとく見つめられ、少年は慌てて部屋の奥へひっこんでしまった。
帯刀がくすりと笑い、
「為吉、用は済んだ。彩之介を駕篭で連れて帰ってくれ」
「かしこまりました」
一礼して店の者を呼びにいった為吉を見送り、
「右近…せっかくじゃ、少し庭を歩かぬか?」
意味ありげに目配せする帯刀に、右近は承知とうなずいた。
つづく
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