十二の巻
「波濤」1




by 戸田采女

 北前問屋・中村屋の隠居、喜兵衛は着々と蝦夷への初航海の準備をしていた。隠居といっても喜兵衛はまだ五十を少しすぎたばかりだ。身代は息子・米太郎に譲り、自分は最後の一花を咲かせるのだと意気込みを見せた。

 温厚で手堅い商売をしてきた喜兵衛がなぜ今頃になって蝦夷へと、まわりの者は首をかしげたが、店を息子に任せ何の憂いもなくなった今、心残りであった蝦夷と琉球を一目見たいのだと、喜兵衛は無邪気に語った。

 六月末の出航をめざし、積み荷の手配に多忙な日々を送っていた五月二十八日、喜兵衛は溝口誠之進の訪いをうけた。

 空模様はもうひとつぱっとしない。朝から鈍色の空が広がり、今にもひと雨来そうな気配だった。

 誠之進からの蝦夷行きの船に乗せてくれぬかと言われたとき、初め、家老の嫡男である誠之進が、身軽なうちに見聞を深めたいのだなと、青年らしい積極性を好ましくおもった。人を余計の乗せれば積み荷の量を加減せねばなるまいが、誠之進には日頃から世話になってきたことだし、それくらいお安い御用と喜兵衛は胸をたたいた。

 ところが乗船するのは二人、それも内密にという。

 「溝口様…わけを、お聞かせ下さいませぬか?」

 背筋をぴしりと伸ばして端座する誠之進。思えば、昼前、店にやってきた時から様子が変だった。いつもの晴れやかさがない。重くのしかかる何かに耐えているような表情だった。

 「お話いただかねば…船にお乗せするわけには参りませぬ」

 喜兵衛としても、まさか誠之進が悪事を働いて逃亡を企てるとは思わなかったが、わけもわからぬまま、重臣の息子を船に乗せ、後で何事かあっては中村屋の身代にもかかわる。

 「当然じゃな…。では聞いてくれ、中村屋」




 誠之進の長い独白は、中村屋にとってはあきれ返る話の連続だった。

 お城の若君が側室の子、母親は関川の本陣の娘と噂にきいたことはあった。誠之進が若君の守役を勤めていることも知っている。だが、江戸のご正室や実家の田安家が、成長した側室の子を養子縁組と称して若衆狂いの大名のもとへ送りつけてしまおうなど、中村屋のような善良な町人にとっては、破廉恥きわまりない話だった。

 「なんとまあ、…御正室様もえげつないことをなさるものだ」
二の句がつげないとは、まさにこのことだと喜兵衛はおもった。

 「お方様の悋気は今に始まったことではないがな。おひろ殿の忘れ形見が憎うて仕方ないらしい」
「こう申しては何ですが、いかに養子先が五万石の大名でも、先方にそのような魂胆があるのなら、なにゆえ殿様もきっぱりお断りくださらないのでしょう?」
「色々と…家同士のしがらみがあるのだ」
「ですが、わが子がかわいくはないのですか?!そのようないわくつきの家に出さずとも、他にもっとましな養子の口が…」

 「人の親ならば、そう思うのがあたりまえ…」
「溝口様…」
「残念ながら大名家では…御家大事のあまり、人の道がまかり通らぬことが往々にしてある…」

 悲しげに呟いた誠之進に中村屋は同情を禁じ得なかった。いかに守役の誠之進と若い中老の堀がこの養子縁組に反対して頑張ってみても、重臣会議の意向、正確にいうと、城中で絶大な力を持つ、筆頭家老・溝口主膳の決断を覆すことはできないという。

 主膳は誠之進の父でもあり、そのあたりの辛さはよく理解できた。

 しかし、だからといって『出奔』とは思いきったことを…。

 中村屋喜兵衛は腕組みをしてうなった。

 はたして如何したものか。

 若君と守役の出奔を助けたと奉行所や世間に知れては、中村屋はどんなお咎めを受けるやもしれぬ。息子や店に迷惑をかけるわけにはいかない。しかし、人を人とも思わない武家社会のやり方に、一矢報いてやりたい気もあった。昨年の御用金はいたしかたなかったにせよ、喜兵衛も長年の商売の中で、武家の横暴に泣かされてきたことは多々あったのだ。

 本音を言うと侍は嫌いだ。しかし昨年来の付き合いで、溝口誠之進の人となりは好ましく思っていた。家老の地位も身分も、何もかも捨てて若君を守るという誠之進。青臭いといえば青臭い。若君へのよほどの愛情と忠義がない限り、気がふれたとしか思えない所行だ。

 誠之進は若君・三郎が九歳の時から仕えているという。片時も離れず、父のように兄のように若君の成長を見守ってきたのだろう。武家に多いといわれる衆道関係かどうかは…この際詮索すまい。重臣たちの汚い思惑から若君を守ろうとする誠之進を見捨てては男がすたる。そもそも蝦夷行き自体が大博打だ。運が悪ければ自分も津軽海峡で海の藻屑と消えるやもしれぬ。

 ならば誠之進たちの出奔を助けるのもまた一興と、中村屋は腹をくくった。

 「溝口様…」

 長い沈黙の後、中村屋は口を開いた。

 「出航は六月二十二日の昼にござります」
「な、中村屋?!」
「若君と、湊においでなされませ」
「では…乗せてくれるというのか!」
「左様で。ただし、客人としてではありませぬぞ。色々とお手伝いいただくつもりですが、よろしゅうござりますな」
「中村屋…、か、かたじけない!」
畳に手をつき、男泣きに崩れんばかりの誠之進に、
「くれぐれも…身をやつしておいで下さりませ」
中村屋はしっかりとうなずいた。




 六月に入り、高山城下はいよいよ本格的な梅雨を迎えた。ここ数日、庭先の紫陽花も露を含んで重たげに首を垂れたままだ。加賀からこのあたりの日本海側は、大平洋側より梅雨が半月程遅く、皐月よりも今頃のほうが雨量ははるかに多い。六月末になってようやく青空が広がり始め、盛夏が訪れるのだ。

 船の手配ができて以来、誠之進は粛々と城での勤めに励んでいた。

 「何事も殿のお心のままに…」と、もはや養子縁組の儀について多くを語らず、父・主膳に言われるまま農地を視察し、今年の作柄を調べて回った。大金を投じて用水路を整備した介あって、今年は稲の生育も順調に進んでいる。台風にさえやられなければ豊作はほぼ間違いないだろう。

 高山藩を捨てていく身ではあるが、それでも藩士や領民の安泰を願う自分に、誠之進は苦笑した。

 城中では何くわぬ顔を続けていた誠之進だが、堀隼人丞までも欺かねばならぬのは辛かった。しかし、いくらこれまで誠之進に協力し、三郎の養子縁組に反対してくれたとはいえ、中老の堀に出奔の計画を知られるわけにはいかない。

 誠之進はもはや実家へも顔を出すまいと心に決めていた。

 ここ数日、誠之進は早朝から御門外の直心影流・酒井十太夫道場へ赴き、吉田小兵太との木剣稽古を日課としていた。誠之進も小兵太も、幼き日より酒井十太夫の薫陶をうけた。木剣稽古は竹刀とは違い、ひとつ間違えれば大怪我をすることもある。打ち込む側と受ける側で技量の差がありすぎても稽古にならない。剣技の優劣のみならず、お互い信頼関係も不可欠だ。

 朝稽古に居合わせた門弟は、高山藩屈指の剣士、溝口誠之進と吉田小兵太の稽古を固唾を飲んで見守った。殺気は全く感じられないが、水のごとき静謐な闘気が二人の周囲に充溢していた。

 己の持てる力のすべてで、誠之進は小兵太に打ちかかった。友として、剣士として最大級の敬意を払う男への迷いのなき一撃だ。小兵太がそれを見事な剣さばきで受ける。体を入れ替え、ふたたび間合いをとって対峙する。今度は小兵太が袈裟に切り降ろすと、誠之進がふわりと無駄のない動きで受けた。ふたりは一刻以上もそうして無心に稽古を続ける。時折、師の十太夫が見所(けんぞ)からじっとふたりを見守っていた。

 これが間もなく領内から姿を消す誠之進へ、小兵太の餞(はなむけ)であることを、余人は知る由もなかった。


 一方、三郎は今まで通り藩校へ通っていたが、ここ数日、夕餉のあと、ひとり自室で書き物をするのが常となっていた。

 三郎は父・信輝公を含め、親しいものたちへ、一通一通心をこめて手紙をしたためていた。父に対しては自分の不徳を詫び、あたかも自分が誠之進に無理矢理頼み込んで、この出奔を企てたかのように説いた。主膳や残った溝口家の家族や、西の丸の使用人たちに一切おとがめなきようと、切々と訴える。

 乳兄弟の源蔵はやはり何かを感じ取ったのか、しきりに三郎につきまとい、心配そうな眼差しを向ける。そんな源蔵をさりげなく無視しながら、誠之進同様、三郎もまた失うものの大きさに、胸の潰れる思いであった。

つづく


「夕凪」5「波濤」2
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壁紙は「空色地図」さんからお借りしています。


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