十二の巻
「波濤」3




by 戸田采女

 日中、暑い船室に隠れているのはさすがに辛かった。日が暮れて桟橋に人気がなくなると、誠之進と三郎は甲板へ出て夜風にあたった。
「ふう…生き返りまするな」
「うむ。潮風が心地よいな…」
穏やかな波の音が耳にやさしい。
ふたりは積み荷の米俵にもたれて座り込み、満天の星空を見上げた。

 船に残っているのは船頭ひとり。中村屋と三十年以上も一緒に航海をしてきた寡黙な男だった。中村屋もこの男にだけはふたりの身元を明かしてあるという。船頭はほとんど誠之進たちに話し掛けることもなく、船の番をするという己の仕事に没頭しているようだ。

 誠之進と三郎は手を固く握りあったまま、それぞれに思いを巡らせていた。

 関川宿へ墓参と偽り、首尾よく城を抜け出した。今町までは無事辿り着いたが、積み荷の関係で出航が遅れた。この微妙な時間のずれが吉とでるか凶と出るか。誠之進の心に不安の陰がさす。

 しかしもはや自分たちにできることはない。明日、昼までに上方からの船が帰着し、荷の積み換えが終わればすぐに出航だ。城で騒ぎが起こる前に今町を出てしまえば…大丈夫、逃げ切れる、と誠之進は懸命に自分に言い聞かせた。

 この計画を知るのは小兵太とお福のみ。関川から城へ戻るのは明日の夜ということにしてある。

 「誠之進…」
三郎の呼び声に誠之進は我に帰った。
「『兄上』ですぞ、三郎ぎみ!」
小声で注意すると、三郎がくすくすと笑う。
「自分とて『三郎ぎみ』と申したではないか」
誠之進はこほんと咳払いをして、あたりを見回した。
「案ずるな、船頭の儀助しかおらぬ…」
「あの船頭…儀助というのですか?」
「ほら、また私に敬語を使った」
「…ああもう、難しゅうござりますな!」

 ふたりは顔を見合わせて忍び笑いを洩らした。
「まことに…蝦夷へゆくのだな。何やらわくわくするのう…」
三郎が星空を見上げて目を輝かせた。
「まずは無事に津軽海峡を越えられるか、ですな」
「そんなに危ないところなのか?」
「はい…地獄海峡とも呼ばれております。蝦夷は海産物の宝庫。無事たどりつけば、昆布や俵物など貴重な品を手に入れることができますが、海峡で難破する船もおおく、大型船といえども油断はできませぬ」

 「…船の大きさは関係ねえ。要は運と船頭の腕次第じゃ…」
どこで聞き耳をたてていたのか、儀助老人が米俵の向こうから禿げ頭をのぞかせた。
三郎がにっこりと笑いかけると、
「まあ儂に任せておけ…」
老人は無愛想に呟いたきり、すたすたと船首へと戻っていった。

 「運と腕次第か…」
反芻する誠之進の胸中を察したのか、三郎が握った手にきゅっと力を込めた。

 航海への期待と不安を抱えながら、誠之進と三郎は肩を寄せあって長い夜を過ごした。




 風待ちをしていた上方帰りの中村屋の船は、日の出と同時に能登の福良を発ち、順風に乗り四ッ(午前十時)には今町に到着した。砂糖に茶、畳材料など、遅れていた上方からの積み荷が揃い、昼前には出航の手はずが整いそうだ。

 ふたたび船室に隠れ、息を詰めて小窓から外の様子をうかがっていた誠之進は、ほっと胸をなで下ろした。桟橋に奉行所の侍がでばってくることもなく、平穏無事に荷の積み換え作業が進んでいく。

 最後のはしけから荷の積み込みが終わり、いよいよ碇を上げるかという時、桟橋付近がにわかに慌ただしくなった。

 (何事?!)
 
 誠之進が目を凝らしてみると、騎馬の侍が二騎、桟橋に駆け込んできた。

 誠之進の喉が音をたてて鳴った。背筋に緊張が走る。ただならぬ様子を察したのか、三郎が誠之進の背に身を寄せ、そっと肩越しに外を覗こうとした。
「若…。御心配なく」
見せまいと遮る誠之進。

 船が碇泊している位地から桟橋まではかなり距離がある。騎馬の武士の顔形までははっきりとはわからない。だがその声には覚えがあった。

 (慶次郎っ…、何ゆえそなたがここにおる?!)

 奥歯を噛みしめながら、誠之進はふたたび小窓から外をのぞいた。若い武士のほうは弟の慶次郎…中年の武士はおそらく溝口家用人・生島太郎左衛門だろう。馬を降りた両名は桟橋を駆けずり回り、中村屋の隠居の船はいずこじゃと尋ね回っている。

 米俵をかついだ人足が、誠之進たちの乗る五百石船を指差した。

 慶次郎と生島が大きくうなずき、早速はしけに乗り込んだ。

 誠之進は小窓を閉めて三郎を振り返った。
「誠之進…」
何事か出来したのは明白だった。
しばし言葉を失い、ふたりが見つめあう中、中村屋が甲板から船室へ降りてきた。

 「溝口様…。はしけが一双こちらへやって参ります」

 うなずく誠之進の額にじわりと汗が浮いた。

 如何する…。この土壇場へ来て何たることだ。

 ふたりが誠之進と三郎を追ってきたのは間違いない。城からの追手よりはましとはいえ、今さらふたりと話して何になる。

 誠之進は瞑目した。

 「中村屋、出航の準備は整ったのか?」
「はい…いつでも出られます」

 「せ…誠之進?!」
三郎が誠之進の腕にすがった。

 「では…碇をあげろ」
「ですが、はしけのお侍は…」
「構うな」
誠之進は短く言い捨てた。

 『兄上〜!』

 とうとう慶次郎が大声で誠之進を呼んだ。

 「…慶次郎だな」
三郎が制止する誠之進の腕を振り切って、小窓から外をのぞいた。

 『兄上!慶次郎にござりますっ! 船にのっておいでなら、どうかお姿をお見せ下さりませ!!』
割れんばかりの声で必死に叫ぶ慶次郎だった。
『其の船、出航することまかりならぬぞ!』
動転し、ひっくり返ったような生島の声も聞こえる。

 誠之進が再び小窓から外を見やると、はしけは船にあと四、五間のところまで迫っていた。

 「中村屋!何をしている。早う船を出せ!」
切羽詰まった誠之進は、思わず中村屋を怒鳴り付けていた。
「誠之進様…」
困り果てたように中村屋が小さく首をふった。

 誠之進とて理屈ではわかっているのだ。この船を中村屋の船と知って溝口家の者が追い掛けてきた以上、振り切っていけばお咎めを受けるは必定。息子や店に迷惑はかけられぬという中村屋の気持…わかりすぎるほどわかっている…。

 だが今城下へ戻っては…!

 がつんと鈍い音がして、船体がぐらりと揺れた。はしけが船にぶつかったのだろう。誠之進は観念したように小窓の前に立った。見下ろせば、下から小窓を見上げる慶次郎と目があった。

 誠之進の姿を認めた生島は蒼白になった。
「若様っ…何ということを。三郎ぎみも御一緒でござりますかっ!」
苦りきった表情の生島を、
「生島、そなたは黙っておれっ」
慶次郎が一喝した。

 「兄上…」
「慶次郎…なぜ我らがここにいるとわかった…」
「その儀はいずれまた…」
慶次郎は目を伏せて息をつくと、あらためて誠之進を見上げた。

 「昨日の午後、父上がお倒れになりました」

 「何じゃと…。おまえ、私をたばかっているのではあるまいな。我らを連れ戻そうとして…」
慶次郎は激しくかぶりをふり、
「まことにござりまする! 医師の見立てでは卒中ではないかと…」
「信じられぬ…」
呆然と見返す誠之進に、
「兄上! おふたりが出奔されたこと、城ではまだ騒ぎになっておりませぬ。どうかここはひとまず、船を降りて屋敷にお戻りくださりませ」
慶次郎が懇願した。

 「今さらそのようなこと…できぬ」
誠之進は低く呟くと、ぱたりと小窓を閉めてしまった。

 父が倒れた…?

 慶次郎が自分たちを連れ戻すために、偽りを申しているのやもしれぬ。一昨日、父上を城中でおみかけしたときも、ぴんぴんしておられたではないか。卒中などと、見え透いた嘘をつきおって…。

 「誠之進…」
「三郎ぎみ…」
「誠之進…顔が真っ青じゃ」
「いいえ、そのようなことは」
否定しながらも、誠之進は己の指先が冷たくなっているのを悟った。
それでも誠之進は、
「中村屋…後生だっ…船を出してくれ」
「溝口様…もはや」
「頼むっ…」
誠之進はがっくりと床に片膝をつき、首を垂れた。

 中村屋は返事をしなかった。
沈黙の意味を三郎も悟ったのか、
「誠之進…これ以上無理をいっては中村屋に迷惑がかかる」
自分も床に膝をつき、誠之進の肩に両手をおいた。

 下から覗き込むような黒目がちの瞳。
ひたすら誠之進を案ずるような目の色に、誠之進の胸中に熱く、苦い思いが溢れ返った。
「若…!」
「誠之進…」
「…ここを動いてはなりませぬ!」
誠之進は中村屋がいることも忘れ、両腕で三郎をきつく抱き締めた。

 (何を犠牲にしてもあなたを守ると決めたのです…! 今さら城へ戻るなどっ!)

 三郎は誠之進の心の声を聞いたのか、胸に顔を埋めながら誠之進の着物の背を握りしめた。

 (父上が倒れた…。嘘かも知れぬ。だがまことなら、ここで慶次郎を振り切って行けば、二度と生きて父上に会うことは叶わぬやもしれぬ…)

 誠之進は眉を寄せ、奥歯をかみしめた。

 (それでも、断じて引き返すわけにはいかぬ…っ)




 主膳が倒れた…。

 それでも誠之進は慶次郎や生島を振り切ってゆこうとしている。私のために…病に倒れた父を捨てていこうとしている。

 なれど誠之進…こうして触れあった身体から、悲しいほどに伝わってくるのだ。

 微かな身体の震え。冷たい汗が伝う背中。胸の動悸がこんなにも速い。

 そなた…辛いのだろう? なのにそれを懸命に押さえ込み、逃げるように今町から去ろうとしている…。

 だめだ誠之進…!

 私と父上のような縁の薄い親子とはわけが違う。

 主膳はおそらく、生まれたそなたを己が手で抱き上げ、湯をつかわせ、時には馬になって遊んでやり、長じた後は自ら剣や学問を教え…。そう、丁度そなたが私にしてくれたように…。長い年月、日々息子の成長を楽しみに見守ってきたのではないか?

 そなたら父子の姿を私は幼い頃から見てきたのだ。…主膳とそなたの絆をずっと羨ましいと思うていた。

 誠之進…、このまま主膳に会わずに行っては必ず後悔する…。

 私は…そなたに斯様な思いをさせとうはない。




 どれだけの時が流れたのか?

 気がつけば、規則正しい波音と船体が時折きしむ音以外、あたりは静まり返っていた。

 船頭や水夫も息を詰めて成りゆきを見守っている。

 「誠之進…船をおりよう」
長い沈黙の後、三郎が誠之進を決然と見上げた。
「若?!何を申される!」
「おりよう…」
三郎は口元にうっすらと笑みさえ浮かべていた。

 「…そなたの誠は…もう十分受け取った」
大人びた声音でそう言うと、三郎はすっくと立ち上がった。
「若っ…」
誠之進は思わず三郎の袴をつかんだ。
「降りるぞ、誠之進」
凛とした声で誠之進に命じると、三郎は甲板への階段を先にのぼろうとした。
「若、出ていっては…なりませぬっ…」
誠之進の喉から苦渋に満ちた、絞り出すような声が出た。

 いかに隠そうとしても、三郎は誠之進の葛藤を完全に見抜いていた。肩越しに誠之進を見つめる黒耀の瞳には、全てを受け入れ、赦す、深い覚悟が見てとれた。

 「誠之進、船を降りよ」
「三郎ぎみっ…」
「主命じゃ、逆らうことは許さぬ」


波濤 了


「波濤」2「残照」1
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壁紙は「空色地図」さんからお借りしています。


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