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七月といえば、暦の上で東都はもう秋。
とはいえ、まだまだ残暑厳しく、惣一郎は相変わらず日中の外出を避け、屋敷で昼寝三昧の日々だった。
藩主ともなれば、定められた日に江戸城へ登城せねばならぬ。何かと多忙で気疲れも多いが、未だ責任のない大名嫡子の生活は、下手をすれば欠伸が出るほど暇なもの。
たいていの家では若い頃から遊蕩に耽らぬよう、学問だ歌舞音曲だと、家臣が一生懸命スケジュールを埋めてくれる。世の若殿たちは家臣のひいたレールの上を大人しく歩むのが常だ。
だが窮屈な暮らしの中で最大限に己を生かそうとする者もいる。好きな道、得意な事があれば、大名家の世嗣の人生もそれほど捨てたものではない。金はともかく時間は有り余るほどあるので、趣味に没頭し、玄人はだしの腕前を持つものも少なくない。
これが芝居や遊廓に関心が向いたりすると、家臣団としては大慌てである。外聞もあるが、諸藩が財政難のおり、金を湯水のように使われてはたまったものではない。
高山藩・世嗣の結城惣一郎も、元服後しばらくの間は吉原で散々遊び、重臣たちをやきもきさせた。
それが今ではすっかり堅実な暮らしぶりで、趣味と実益を兼ねた『絵』の製作に打ち込んでいた。版元の近江屋の依頼で、四十ハ手衆道枕絵集の第二巻にとりかかっている。それもこれも皆、しっかり者で美貌の『側用人』がついているおかげだ。
ところが六月の半ば以来、夏の疲れもあるのか惣一郎はあまり筆が進まぬようだった。
一方、惣一郎の寵愛する側用人、櫻田右近は、最近、供もつれずに一人で外出することが多くなった。主人の目を盗んで不義密通かと思いきや、訪ねる先は巣鴨の元留守居役・堀田又左衛門の隠宅だったり、浅草の滝川道場だったりと、惣一郎が案ずるには及ばぬ所ばかりなのだが。
要は右近が留守がちなのが淋しいのであった。
風通しのよい東側の書院で、惣一郎は今日もぼんやりと午後を過ごしていた。小姓にゆっくりと団扇で風を送らせ、畳の上に手まくらで寝そべっている。揺れる竹笹の葉ずれに、時折混じる蝉の声。庭園に引き込んだ流水のせせらぎに、ふと静寂を破る獅子脅しの音…。よく冷えた瓜。
これ以上何を望むかといいたいほど、贅沢な夏の午後だった。
「…竹弥、今日も右近は浅草か?」
浅草には右近の藩校時代の友、滝川彦四郎の道場がある。
団扇で扇いでいた小姓が、
「さて…私は何も聞いておりませぬが?」
惣一郎は胸の奥から重い溜息をつく。
「この暑いのに…いったい連日何処をうろついているのやら…」
控える小姓ふたりが顔を見合わせてくすりと笑った。どうやら惣一郎の悋気ととったらしい。
惣一郎はわざとらしく咳払いすると、ふたたび無言で庭を見つめた。
何も外出するなとは言っていない。屋敷の用人の仕事は完璧にこなしているのだから、文句のつけようがなかった。朝起きれば必ず惣一郎の居室へ挨拶にくるし、外出しても夕餉までには戻っており、夜は惣一郎と碁を打ったり、謡の稽古をしたり、顔を見ずに終わる日などないのだ。
しかし惣一郎は肌で感じとっていた。
右近が中屋敷の暮らしだけを見つめてはいけぬこと。
ここの暮らしが退屈というよりも、右近の目はもっと大きな世の中の流れに向いていた。相良候(田沼意次)の貨幣政策や今後の高山藩のあり方など、右近の政(まつりごと)への関心は尽きない。
将来藩主を支える側近としては、まことに頼もしい限りなのだが…。それを必ずしも喜ばない自分がいた。
狭量だと思う。
惚れた相手とひがな一日過ごしたいなど、ほとんど女子のような心理かと思う。
斯様なことではいつか右近に疎まれるな…。
惣一郎は畳の目を数えながら、ふたたび鈍い溜息をついた。
陽射しは増々強く、蝉の声が一段と高くなった。
*
気楽な若殿の暮らしにも、実はひとつだけ避けて通れぬ大仕事があった。
血を絶やさぬための、『お世継』作りである。
惣一郎には府中藩から輿入れした正室・綾姫がいる。
大人しい、文句を言わぬ女子ゆえ、惣一郎もこれまで安心して放っておいたものの、ここ中屋敷への滞在が長引くにつれ、上屋敷・奥から、正確に言うと母・お牧の方から、月に何日かは奥へ泊まるよう、矢の催促がきていた。
考えてみれば綾姫も哀れだ。
武門の習いとはいえ、愛のない結婚を強いられ、おまけに夫が寵愛するのは側室どころか立派な成人男子とくれば、確かに綾姫の立場はなかった。こんなことならいっそ離縁してやったほうが幸せかと思うのだが、それは重臣たちが許さない。
*
七月三日。快晴。
仙之丞がきびきびと小姓達に指図し、朝から虫干しに勤しんでいた。右近は滝川道場へ稽古に出かけ、遊び相手のいない惣一郎はいよいよ退屈でしかたない。虫干しの手伝いでもするかと庭先に降りていけば、仙之丞に「ここは手が足りておりますから、お部屋で書でも読まれたら」などと体よく追い払われた。
今日は夕方、上屋敷から迎えがくる。結局何をしようという気にもなれず、惣一郎は怠惰な午後を過ごした。申の下刻(午後五時頃)にやってきた迎えの駕篭にのり、小姓頭の仙之丞ひとりを伴い上屋敷へ向かった。
早速、綾姫の居室を訪ない、久方ぶりに夕餉をともにする。侍女ともども、恨み言のひとつも言わずに嬉しげに惣一郎を迎える。それがかえって惣一郎を重苦しい気分にさせた。
当たり障りのない会話、礼儀正しい空疎なやりとり。
これが大名家の普通の夫婦というのなら…。いや、これ以上考えるのはよそうと惣一郎はひとりごちた。
不憫だと思う。同じ武家でも他所に輿入れしていれば、幸せな婚姻もあり得たかもしれぬ。それでも結城家に嫁いだ以上、この綾姫に世継を生んでもらわねばならぬ…。武家社会の男の身勝手さが我ながら嫌になる惣一郎であった。
*
夕餉のあと、母・お牧の方にも顔を出さねばと、惣一郎は母の居室に向かった。奥は原則として男子禁制だが、重臣たちの一部は役目柄、たまに出入りすることもある。
奥女中に先導され惣一郎が廊下を渡っていくと、華やかな母の声に混じって、卑屈な男の笑い声が聞こえた。
(あの声は…岩田か? 今頃奥で何をしておる?!)
惣一郎は眉間に皺を刻みながら、母の居室にやってきた。
「お方様、惣一郎様がお越しにござります」
『おお、惣一郎殿!』
中から母の弾んだ声が響き、女中がするすると障子戸を開けた。贅沢な伽羅の香りがふわりと漂った。
部屋の中には母とお年寄の藤江、留守居役の岩田の三人が顔を揃えていた。
「岩田、斯様な時刻に奥へ何用じゃ?」
母への挨拶より先に、惣一郎の第一声は岩田への詰問だった。
「惣一郎様、これはよいところへ参られました」
この男は武士のくせにもみ手が癖になっている。
惣一郎は不快感を露にし岩田から目を逸らした。
「惣一郎殿、早うこちらへ来ておすわりなされ」
お牧の方は艶やかな笑みを浮かべて、惣一郎に手招きした。
惣一郎は無表情に一礼して室内へ入り、上座に腰を降ろした。
「母上、ご壮健の様子にて祝着至極にござります」
丁寧に頭を下げると、
「堅苦しい挨拶はいりませぬ」
お牧の方は鈴のような笑い声をたてた。
母は何やら上機嫌だった。
「惣一郎殿、じつは本日の午後、国許より面白い知らせが届いたのじゃ」
「面白い知らせ…?」
「はい…」
岩田がおもねるように微笑み、話を続けた。
「三郎ぎみの守役、誠之進殿が罷免になりましたぞ」
「な…に?」
一瞬、呼吸が止まるかと思った。
「表向きには殿のご勘気をこうむったという話ですが…」
「ふふふ。三郎と誠之進が割りない仲になっていること。とうとう殿のお耳に入ったのじゃ」
「母上!?」
「惣一郎様、以前にも某が御報告いたしました通り、誠之進殿は守役の身でありながら、お育てした若君と深い仲になり、」
「そなた、そのような埒もない話を母上に吹き込んだのか…」
惣一郎が途中で遮った。
「埒もないとは失敬な。御家の行く末にかかわる大事でござります。此度の本田家との養子縁組に誠之進殿が強硬に反対したのも斯様な裏があってのこと。挙句のはてに出奔を企てたというではありませぬか」
「なに…出奔じゃと?」
さすがに惣一郎の目が大きくなった。
惣一郎はそもそも本田家と三郎の縁組の儀を知らなかった。ふたりがそれを厭うて出奔といわれても皆目話が見えない。
したり顔の岩田を苦々しく思ったが、まずは話を聞かねば始まらぬ。惣一郎は黙って耳を傾けた。
「本田家五万石の養子になる三郎ぎみを攫って逃げようなど、家臣にあるまじき行い。殿も一度はお手討ちになさろうとしたらしいですぞ」
岩田は扇子で大袈裟に扇ぎながら、勝ち誇ったように言った。
「して誠之進は…」
「屋敷にて謹慎申し付けられております。己の色欲のために若君を拉致しようとしたわけですし、早晩、腹を切らされるのは確実でしょう」
「まさか…」
惣一郎は信じられぬと小さく首をふった。
あの良識派で慎重な誠之進がそこまでするとは…?
いったいこの縁組には何があったのだ?
沈鬱な面持ちの惣一郎に、
「惣一郎殿、そなた溝口家の者に同情するのか?」
お牧の方が眉をひそめた。
「母上。私は…主膳にも誠之進にも含むところはござりませぬ。親子ともども有能な家臣と頼りにしておりますが」
冷静に言葉を紡ぐ惣一郎を、お牧の方はきっと睨み付けた。
「そなた…この母を裏切って主膳の肩を持つのか?」
「裏切るなどと…」
「そうであろう? 何かと言えば諸事倹約と、数年に渡って奥の経費を切り詰め、我らに惨めなおもいをさせてきたのはどこの誰ぞ!」
「母上…」
「そなた、帯刀や島崎屋からの援助がなくば、綾姫との婚儀の体裁も整わず、大恥をかくところであったのじゃ…よもやそれを忘れてはおるまい?」
ふたこと目には金の話だ。
惣一郎は母の繰り言に内心辟易していたが、忍の一字でその場に坐り続けた。
「まあまあお方さま、せっかくお越しになった若様に左様なお小言ばかりでは…」
見かねた藤江がとりなすように割って入った。
「藤江…」
「もっと楽しいお話をなされませ」
険悪な雰囲気を何とかしようと、藤江も苦労している。
薄情な息子だなんだと、恨みがましく呟くお牧の方だったが、惣一郎の母に対する心は急速に冷めつつあった。
お牧の方は岩田相手になおも養子縁組の話を続けた。
「これで五月蝿い誠之進も身動きがとれまい。岩田、今のうちに早う三郎と本田様との縁組、まとめてしまうがよいぞ」
「仰せの通りにござります。此度の一件を踏まえて、田安の御前からも殿に書状をお送りいただき…」
「私からも兄上に催促しましょう」
「ありがたき幸せ」
「三郎なぞ、一日も早う忠直殿にくれてやるのじゃ」
夢見るように呟くお牧の方を、惣一郎は呆然と見つめた。
「母上、『くれてやる』とはいかなる意味です?」
「文字通り、くれてやるのじゃ。三郎はいずれ忠直殿の孫、るり姫の婿になるが、るり姫はまだ幼女。姫が大人になるまで、せいぜい舅の忠直殿にかわいがっていただくがよい」
悪びれもせずお牧の方は言ってのけた。
「今、何と仰せになりましたか?」
惣一郎はわが耳を疑った。
お牧の方はつんと上を向き、
「守役をもたぶらかすような魔性の者ぞ。舅殿の閨に侍るなぞ朝飯前であろう?」
「母上!何ということを!」
(それが…目的にござりましたか)
三郎を辱めるための仕組まれた縁組。おおかた岩田がそそのかしたのだろうが、女の陰湿な、底意地の悪さをむき出しにする母に、惣一郎はどう向き合ってよいかわからない。
いくら妾腹の三郎が疎ましいとはいえ、孫姫の婿にと偽り、美童好みの舅の閨に送り込もうとは、あまりといえばあまりな仕打ちだ。
惣一郎はこの場の空気を吸うことにさえ、言い知れぬ嫌悪を感じた。もはや長居はできぬと惣一郎は無言で立ち上がった。
「惣一郎様?!」
見上げる藤江からも目をそらし、
「御免」
惣一郎はお牧の方と岩田に一瞥もくれず、部屋をあとにした。
*
磨き上げた廊下を行きながら、惣一郎は深く息をついた。
まだ見ぬ弟の三郎であったが、頼みとする誠之進と引き離され、さぞや心細かろうと不憫さが募った。おまけに江戸の正室によって斯様なうさん臭い縁組が仕組まれていたとは…。事実を知ったときの誠之進と三郎の衝撃はいかばかりか。
田安の伯父がこの話に一枚かんでいる。それが父・信輝公や国許の重臣たちが即座に断れない理由だろう。自分が三郎の父親なら、本田忠直の噂が耳に入っただけでも、即刻破談にするところだ。
誠之進は信輝公の不興を買っても、身を呈して三郎を守ろうとしたのか。
『口惜しいが、誠之進はそういう男だ』と、惣一郎はひとりごちた。
その夜は奥泊まりの予定だったが、何やら女が疎ましくなった惣一郎は、お鈴口の鈴を鳴らして表へ戻ってしまった。とばっちりを受けた綾姫が哀れとは思ったが、小姓の仙之丞とともに中奥の部屋で休むことにした。すぐに中屋敷にとって返したのでは、右近が何事かと心配する。
寝間着に着替えた惣一郎の傍らで、仙之丞はせっせと蚊帳を用意していた。惣一郎は夜具の上に胡座をかき、あごを撫でさすりながら思案に耽っていた。
誠之進の罷免の知らせ。右近に伝えるべきか…。
こうして自分の耳に入った以上、話してやるのが筋と思う。迷いに迷った惣一郎だが、やはり自分から右近に伝える気にはなれなかった。
ようやく右近の心が傾き始めたのでは…と感じた矢先のことだ。誠之進の苦境を知れば、右近はすぐにでも国許に戻ると言い出すやもしれぬ。言い出すことはできずとも、右近の頭の中はもはや誠之進のことで一杯になるだろう。惣一郎は未だ右近を完全に己のものにした自信がなかった。
卑怯かも知れぬが、惣一郎は右近には何も知らせまいと思う。
それに…もしかすると。
惣一郎の中でひらめくものがあった。
堀田の爺の隠宅へ頻繁に通い出したのは、国許の事件を知ったからか…?
日々の勤めを怠らぬ一方で、近頃の右近は何を考えているのかわからぬふしがあった。
「まさか…」
だが誠之進罷免の知らせが耳に入ったなら、もっと取り乱しているはず。
「わからぬ…」
重苦しい溜息をついた惣一郎を、蚊帳を吊り終えた仙之丞が心配そうに見つめていた。
「いかがなされました? 若殿」
「いや…たいしたことはない。ちょっとした気鬱じゃ」
仙之丞には奥泊まりをやめて中奥に戻ってきた理由は言っていない。
仙之丞も心得たもので、詮索したりはしなかった。
義務感から奥へ渡ったものの、やはり綾姫の相手が邪魔臭くなったとのだと、思っているのやもしれぬ。
「お薬湯でもお持ちしましょうか?」
「それには及ばぬ」
惣一郎は唇の端だけで薄く笑うと、夜具の上に身を横たえた。
仙之丞はしつこくまとわりつかず、
「では、次の間に控えておりますので、御用があればいつでもお呼びください」
「うむ」
蚊帳を出て部屋を退出していく仙之丞に、惣一郎は瞼を閉じてうなずいた。
寝所から人の気配が消え、生暖かい闇があたりをおおった。
(右近…)
惣一郎は瞼を閉ざしたまま、夜具の上に大の字に横たわった。
(そなた…やはり身供の側にいるだけでは満たされぬのか?)
閨では惣一郎の愛撫に応え、身も心も蕩け切ったような風情を見せる。快楽に泣く右近をぎりぎりまで焦らし、惣一郎の楔を自らねだるまで辛抱強く愛してやる。やがて惣一郎を躯の奥深く受け入れ、内側からの快感に果てもなく乱れていく右近…。
美しくも淫らな姿を思い浮かべ、惣一郎は己の股間が漲るのを感じた。
だが身体の昂りとは裏腹に、惣一郎の心は鬱々と暗い水底へと沈んでいくようだった。
(いかに肉の交わりが深まろうと、心の襞の一本一本までは…やはり読めぬものよな)
惣一郎の美しい蝶は自から望んで『かご』に戻ってきたのだが…。再び外へ飛び立とうというのなら、そっと扉を開けておいてやるべきなのか。
(ばかな…。そこまでお人好しにはなれぬわ)
何も知らぬふりをして、右近と過ごそう。
右近が己の手の中にある今この時を、一瞬たりとも無駄にすまい。
それとももはや身動きとれぬよう、いっそ江戸藩邸で要職につけてしまおうか…。
またもや右近を失う不安に駆られ、役目で縛ろうとするのか?
(情けないものだな…)
惣一郎のやるせない溜息が夏の闇に融けていった。
憂愁 了
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