江戸サイドでこの直前にあたるのは九の巻「花月」です。
時は少し戻る。
六月初め、江戸。
根岸の大文字屋で内藤帯刀に遭遇して以来、右近は上屋敷・奥と内藤の身辺を探る手だてを考えあぐねていた。帯刀の不正の調査の際、国許では筧真之介をはじめ、探索の手足となる部下が大勢いた。それもこれも勘定吟味役という己の立場と筆頭家老・溝口主膳の力があればこそだった。
学問所や幕臣の知己に斯様な相談をするわけにもいかない。今さらのように独りでは何もできないことを痛感する右近だった。何か良い知恵はないものかと、おもいあまって滝川道場へ相談に出かけた。
*
蝉時雨が木々に染み込む時節となった。入道雲の浮ぶよく晴れた日の午後、右近はちょうど出盛りの水蜜桃を手土産に滝川道場を訪なった。彦四郎の妻・いくへの土産のつもりだ。
道場の主は滝川勘十郎という六十過ぎの老剣客だ。そこへ右近の剣友、佐久間彦四郎が養子に入り、娘・いくと夫婦になっている。昨年の秋、心身ともに疲れ果てて江戸へ出てきた折、食客として何ヶ月も厄介になり、右近としては足を向けて寝られない場所でもあった。
数カ月一緒に暮らし、右近は勘十郎の人柄にひとかたならぬ尊敬を抱いていた。身体はどちらかと言えば小柄で話し好きの好々爺然としているが、泰然と懐ふかく、門弟ひとりひとりの性格や剣技の癖をよく見抜き、各々に応じた指導をした。
婿の彦四郎も剣技を磨くだけでなく、舅の優れた部分を無意識のうちに吸収し、自らも門弟を導いているようだった。昔から素直で努力家の彦四郎だからこそ自然にできることでもあった。
水蜜桃を台所でいくに渡したのち、右近は道場のほうへ回った。竹刀の音がやみ、稽古が小休止に入ったのを見計らい、右近はまずは見所に座した勘十郎に挨拶した。
「これはこれは…櫻田殿」
満面の笑みを浮かべて勘十郎が立ち上がった。
声を聞き付けた彦四郎もやってくる。
「右近!」
「御無沙汰しております…もっと早う御機嫌うかがいに参るつもりでしたが…」
「なんのなんの。いざ屋敷勤めとなれば、毎日御用繁多なことじゃろう。ともかく、ようおいで下さった」
白髪頭をふってこくこくとうなずく老人に、婿の彦四郎も相好を崩して同意した。
せっかく来たのだから付き合えと、半ば無理矢理稽古着をきせられ、右近は一刻(二時間)ほど高弟たちの相手をさせられた。させられたというよりは、久しぶりに右近も存分に稽古を楽しんだ。中屋敷でも竹刀は握るが、なんせ相手は小姓や中間、若党で、弱すぎて右近の相手にはならない。ほとんど棒振りや型の指導をするのみである。
激しい竹刀の音や気合いの入った声が鳴り響く中、滝川道場の門弟、それも上位の者との稽古は、右近に心地よい刺激と緊張感を与えてくれた。
*
七つ(午後四時)を過ぎ陽も傾いてきた頃、右近、勘十郎、彦四郎の三人は稽古を早めに切り上げ、井戸端で汗を流したのち座敷へ戻った。彦四郎の妻・いくもおしゃべりに加わろうとしたが、やんわりと勘十郎に退けられ台所へ追われた。あの膨れ面では今夜あたり彦四郎にとばっちりがいくことだろう。
右近は稽古の礼をいいつつ、今日の来訪の目的を素直に告げた。
国許で勘定吟味役として、元次席家老・内藤帯刀の藩金流用の調査をしていたこと、その結末をかいつまんで勘十郎に説明し、閉門がとけた内藤と江戸で遭遇したと話した。
「閉門が正式に解けているなら、大手を振って旅もできるというわけか」
苦々しく呟く彦四郎に、
「一応はな」
右近は静かに首肯した。
「本来なら切腹が当然のところ…悪運の強いお方だ」
彦四郎は首を左右に振りながら溜息をついた。
勘十郎は上座で茶をすすりながら、黙ってふたりの話に耳を傾けている。
庭の獅子脅しがなった。
「で…櫻田殿は、その内藤とかいう御仁をいかがなさりたいのじゃ?」
彦四郎と向き合っていた右近は、勘十郎のほうへ身体の向きを変えて居住まいを正した。
「江戸に何用で参ったか…探ってみたいと存じます」
「ただの遊山ではないと?」
右近はゆっくりと首を振った。
「既に両替商・天満屋の霊巌島の寮に滞在していること、本人の口から聞きました。自分に会いたくばいつでも訪ねてこいと…」
「ならば土産片手に訪ねていってはどうじゃ。近頃人気の松屋の『うさぎ饅頭』なぞ、喜ばれるぞ。黄身餡の上品な甘さが美味でな」
いたずらっぽく目を光らす勘十郎を、
「義父上!」
また舅の悪いくせが出たと、彦四郎はたしなめた。
「何じゃ彦四郎、虎穴に入らずんば虎児をえずと言うではないか」
「それはそうにござりますが…」
帯刀に『うさぎ饅頭』とは悪い冗談だ。
「右近…誰ぞに天満屋の寮を見張らせたいのか?」
『うさぎ饅頭』でそれた話を元に戻そうと、彦四郎が単刀直入に聞いた。
さすが彦四郎、話が早いと右近がうなずいた。
「私は面が割れておりますし、第一、藩邸や聖堂周辺以外、江戸の地理をよく知りませぬ。うちの若党にでも申し付けようかと思いましたが、いずれも頼りなく…。どごぞにあの界隈をうろついても怪しまれず、かつ目端のきく町衆はおりませぬものかと…」
「なるほど…相わかった」
「内藤が誰と会い、どんな話をしたか…当面はそれがわかりさえすれば…」
思案していた彦四郎がぽんと膝をたたいた。
「義父上、日本橋、霊巌島界隈といえば、銀次のとこの市松などいかがでしょう?」
「おお、手が空いておればよさそうじゃな」
「信用できる輩なので?」
「ああ、ひょうきん者だが、親分の銀次がまっとうな御用聞きゆえ…十分役に立つだろう。『雪駄直し』が表の仕事で、町家に出入りするのはお手のものだ」
彦四郎がそういうなら間違いないだろう。
とりあえず安堵した右近に、
「ただし駄賃ははずんでやれ。…商売の合間に張り込みをするのじゃからな」
勘十郎がきっちりと念を押した。
*
滝川道場の紹介で、右近は日本橋界隈を縄張りとする御用聞き・銀次とも面識をえた。お上の十手を預かりながらあこぎな真似をする御用聞きも多いなか、さすがに滝川親子が人物を保証するだけあり、銀次は正直できっぷのいい三十男だった。
「うひょお…こいつはたまげた」
彦四郎に伴われて日本橋の長屋に銀次を訪ねたとき、第一声がこれだった。
煙管を手にとったままあんぐりと右近を見つめる。
「どこの美人画から抜け出てきたかと思ったぜ」
「…櫻田右近にござる。お初にお目にかかる」
しかつめらしい顔で答えたが、相手はいっこうに動じない。
さらにまじまじと右近を見つめ、
「いや〜、ったく。…そっちの趣味がなくても、ふるいつきたくなるような別嬪だねえ」
この男…苦手やもしれぬ、と引きかけた右近だったが、
「さもありなん。越後高山藩結城家、家中一の美男と称される男じゃ」
大真面目で答える彦四郎を、
「ははは、そりゃあいいや! 若先生も隅におけないねえ」
銀次は腹を抱えて笑った。
隅におけぬとはどういう意味だ。私と彦四郎はそのような仲ではないわ!
思わず柳眉をつり上げた右近だが、
「いや、日本一の美男やもしれぬ」
差料をはずしながら、のどかな口調で彦四郎がいった。
「あがらせてもらうぞ」
彦四郎はこの男とかなり親しいのか、勝手知ったる何とやらで、さっさと草履を脱いであがりこんでしまった。
土間につったっている右近に向かい、銀次は人なつこい笑顔を向けた。
「櫻田様もどうぞお上がりください。むさくるしいところでござんすが」
「ご…御免」
ふたりの間合いに慣れない右近は、ぎこちなく背を向けて草履を脱いだ。
「申し添えておくが、この右近、家中一の美男だけでなく、家中一の切れ者じゃ。去年まで勘定吟味役を勤めておった」
「ほお…左様で」
銀次が素直に感嘆の声をあげた。
「加えて、一刀流免許皆伝。ふるいついたりすれば痛い目に会うゆえ、覚悟しておけ」
「若先生、冗談ですってば…」
気のおけない友人同士のごとく、ふたりは楽しげな笑い声をたてた。
(彦四郎…すっかり江戸の町に馴染んでおるな…)
右近は江戸の町衆など今まで付き合ったこともない。大きなカルチャーショックの始まりであった。
*
「なるほど…話はわかりやした。天満屋の寮にいる、内藤帯刀って野郎を見張ってればよろしいんですね」
「いかにも。江戸で誰とどのような交流があるか、まずは調べてもらいたい」
「がってん。滝川道場の若先生の御友人とあらば、喜んでお力になりやしょう。しかし、藩の金をくすねて千石船を作るとは…なかなか大胆な思いつきじゃあござんせんか…」
「これ、銀次!」
「おっと、別に褒めてるわけじゃありませんぜ。横領は横領、ふてえ野郎だ。なのに腹を切らずに済むなんざあ、よっぽどお宅の殿様は寛大なんですね」
右近は苦虫を噛み潰したような顔でうなずいた。
「とりあえず、市松をお貸ししまさあ」
「雑作をかける」
右近は銀次に向かって軽く頭を下げた。
「天満屋の寮を張っていれば人の出入りがあるはずだ」
銀次はぽんと膝を叩き、
「ついでにわっちも床下に潜って何か聞きだしてきやしょうか?」
そのくらい朝飯前と胸をそびやかす銀次だったが、
「言い忘れるところだった。あちらには忍びの者がついている」
「なんですと?」
「天満屋の手代、為吉などと名乗っておるが、彼奴、国許から付き従っている内藤帯刀の忍びじゃ。十分注意してくれ」
「わかりやした」
「残忍な男ゆえ…無理な探索はせぬよう、市松とやらにもよう言い聞かせておいてくれ」
「へい」
軽口を叩いていた銀次だが、
「天満屋といやあ…色々良からぬ噂もあるんでね。ま、ちょっくら突いてみるにはいい機会でさあ」
最後は精悍な御用聞きの顔でしかとうなずいた。
つづく
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