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日本橋からの帰り道、右近は今日の礼もかねて彦四郎を飲みに誘った。といっても蕎麦屋の二階の小座敷で盛りと肴を注文し、男ふたり、冷や酒を酌み交わした。
何せ昔から寡黙で真面目な男ゆえ、彦四郎は下戸かと思いきや、
「いやあ、舅殿に酒の味を教えられた」
と、茶碗酒をうまそうに飲んだ。
銀次とも申し合わせて、右近と市松のつなぎは滝川道場でつけることにした。金ならいくらでもというわけにはいかないが、手先の手間賃くらいはすれば倹約すれば自分の俸給でまかなえる。
帯刀が誰と会い、どんな密議をこらしているのかを探りたいのだ。そして、あの若君の衣装を着た三郎によく似た少年…。帯刀が彼を何に利用しようとしているのか。
帯刀の言うとおり、三郎の命運なぞ知ったことではなかったが、帯刀の狙いは常に誠之進のはず。確実な情報を得て国許に知らせてやるくらいなら、今の自分にもできる。
(誠之進…)
脳裡に蘇った友の面影に、右近が我知らず溜息をもらした時だった。
「ところで右近、天満屋といえば…ちと噂がな」
「噂…?」
「ほれ、一昨年あたり、田沼様が鋳造を命じた『明和五匁銀』だが、おぬし、滅多に市中で見かけぬであろう?」
「確かに。私もそういうばあれはどうなったのかと不思議に思うていた」
「出始めから両替商の根強い反対があったが、昨年、ご公儀が出したお触れが、皮肉にも『明和五匁銀』の息の根を止めてしもうたようじゃ」
国許にいた右近はこのあたりの経緯を全く知らなかった。
「彦四郎、それはどういうことだ?」
過日、右近は田沼邸に挨拶に出向いたが、意次自身は多忙を極め城泊まりの日が続いており、面会することはできなかった。
「ご公儀が突如として、『五匁銀は時の相場の 如何にかかわらず、金1両を銀60 匁と交換するべし』と宣言したのだ。実際の相場は金1両が銀60〜65匁と銀安となっていたため、町の者たちも誰も進んで使いたがらない。ますます敬遠されてしもうた」
「なれど、両替屋はお上の決めた通りの相場で金・銀の交換を行うべきであろう?」
「実際にはそうは行かぬのだ、右近」
ゆっくりと首を左右にふる彦四郎に、
「公儀の決めたことに逆らうのなら、両替屋の株(営業免許)をはく奪すべきだ!」
右近はあくまで正論を吐いた。
「だがそうは言っても両替商たちは幕閣にそれぞれ後ろ楯をもっていてな。自分たちの保身はぬかりない」
「なんと…腹だたしいことよな」
「そこなのだ、右近」
「彦四郎?」
「天満屋が真っ向から田沼様の御政策に逆らい、なおかつ処罰されずにいるのは、後ろに大物がついているからだ」
「田安の慶久か…」
そうだ、その線があったと、右近は過去のいきさつを苦々しく思い出していた。田沼意次が頭角を現わすはるか以前から、天満屋は田安家と浅からぬつながりがあった。
田安慶久は小姓あがりで老中格となった意次を目の敵にしていた。
「天満屋の奴、最近では調子にのって、『庶民の利益を守るため、両替屋の代表たる己が立ち上がり、間違った御政道を正す』とかなんとか、同業の集りで息巻いているらしいぞ」
「なんと…」
右近は自分が江戸を離れている間、世の中が大きく動いていたことを改めて痛感した。
「庶民の利益というよりは、両替屋が甘い汁を吸い続けたいのであろう…」
右近の嘆息に彦四郎は黙って首肯した。
(金銀相場については曼珠沙華を参照)
「彦四郎…ところで、何ゆえおぬしがそのような話を…」
さきほどから浮んでいた素朴な疑問だった。
何処で仕入れてきたと聞きたかったが、
「なに、舅殿の受け売りじゃ。舅殿はとにかく顔が広いゆえ…」
照れくさそうに破顔する彦四郎に、右近はなるほどと笑みを浮かべた。
田安家と天満屋が手を組んで、田沼意次の改革を阻もうとしている。
お牧の方を正室とする高山藩結城家は、田安家や天満屋と深い縁があった。さらに内藤帯刀が絡んで、いったい何を企んでいるのか? 政治に全く関心のない信輝公はさておき、惣一郎は将来選択を迫られたとき、田沼派、反田沼派、いったいどちらの勢力に組みする気なのか?
高山藩の行く末に、右近は一抹の不安を感じるのだった。
*
二人はふたたび他愛ない世間話に戻り、程よく酔も回った頃、彦四郎がおもむろに切り出した。
「ところで…右近」
「ん?」
何やら言いにくそうな様子に、右近は首をかしげた。
「おぬし…国許を出るとき何かあったのか?」
「どういう意味だ」
右近は思わず身構えてしまった。
彦四郎も右近の声が低くなったのを感じ、慌てていい募った。
「い、いや、その…おぬしが国許に居辛いようなことをしたとか、そういう意味ではのうて…」
「あたりまえだ」
「そ、その…」
「何じゃ、はっきり申せ」
「最近は途絶えておるが、実は春先まで誠之進から…何度も便りが来ておってな」
彦四郎の口から誠之進の名を聞いた途端、右近の胸がとくんと高鳴った。
「おぬしが元気でやっておるのか…そればかり気にしておったぞ」
「そう…か」
右近は薄い笑みを浮かべ言葉少なに答えた。
(誠之進が私のことを…?)
たったそれだけのことに、右近の頬が熱くなった。
今、多くを語っては声の震えが彦四郎にわかってしまう。
右近は丹田に力をこめて、心の揺れを垣間見せまいとした。
彦四郎は右近の杯を満たしながら、
「某は…立ち入るつもりは毛頭ないが、おぬしら、あれ程仲が良かったのに、江戸に出て来て以来、おぬしが一言も誠之進の話をしないのでな…」
「…そうであったか?」
右近はとぼけたつもりだが、目が笑っていないのだろう。
「お節介はすまいと思うていたが、正直、気になっておった」
彦四郎が案ずるような瞳で続けた。
「国許で、誠之進と…仲たがいでもしたのか?」
そうだとも、ちがうとも、右近は即座には答えられなかった。
右近はゆっくり茶碗酒を干すと、
「そろそろ参ろうか」
右近はかたわらに置いた差料をつかみ、腰帯に刺した。
「親爺、勘定だ」
階下に向かって声をかけると、
「へーい」
のんびりした返事が返ってきた。
右近はじっと見上げる彦四郎に柔らかく微笑んでみせた。
「おぬしが案ずるようなことは何もない」
「右近…」
「誠之進は今も…私の大切な友だ」
そう…。それだけは何があっても揺るがない。
しっかりとうなずく右近に、
「ならばよいのだ」
彦四郎が無骨だが暖かい笑みで応えた。
*
浅草から日本橋界隈をめぐり、さすがの右近も疲れを感じていた。神田の蕎麦屋を出たあとは彦四郎と別れ、ひとり駕篭を拾って中屋敷へ戻った。
霊巌島の寮のほうはこれでよし。帯刀の動きを見張っていれば、おそらく留守居の岩田あたりが接触してくるだろう。それ以外、帯刀がいずこに顔を出しているのかをつきとめ…奥の様子を本格的に探るのはその次でよい。
もちろんこの探索には十分な大儀名分がある。罷免になった帯刀が江戸で何を画策するのか。御家の安泰のため、ひいては将来藩主となる惣一郎のためにも調べておく必要がある。
しかし、右近は誠之進を助けたいという気持ちを、惣一郎にうまく説明する自信がなかった。これが恋の未練なのか、揺るぎない友情なのか、自分でもわからなくなることがある。おそらくは両方が微妙に入り交じった心情なのだろうが…。
当面は惣一郎に内密で動きたい。となると、仙之丞の助けを借りるわけにもいかなかった。
惣一郎はこれまで主膳と帯刀、どちらかに肩入れすることはなかった。婚儀の際、帯刀からの金銭的援助をうけたとはいえ、あれはお牧の方が勝手にやったこと。惣一郎は何も義理を感じる必要はないと右近は思う。
だが、本人が帯刀をどう評価しているのか、はっきり惣一郎に正したことはない。誠之進が絡んでいなければ、腹を割って惣一郎と話をするところだが…。ここでも一歩踏み込めぬ己に右近は歯がみしていた。
*
「旦那、着きやしたぜ」
簾をめくられ表に出ると、中屋敷の正門だった。
駕篭にのっている間にとっぷりと陽が暮れていた。
「…釣りはとっておけ」
「これはこれは、ありがとうごぜえます」
駕篭かきが喜色満面で去って行くのを見送りながら、右近はひとりごちた。
「次ぎは…堀田様をお訪ねしてみるか…」
隠居した元・留守居役の堀田を訪ね、国許で何か異変がなかったか尋ねてみよう。
万一、国許で他藩が絡んだもめ事が出来すれば、誠之進はもとより、誰かがここへ相談をもちかけるはず。特に江戸詰めを経験した藩士の間で堀田の人望は篤い。
「土産は『うさぎ饅頭』がよいかな」
右近はくすりと笑みを洩らし、門番の開けた木戸を潜って中へ入った。
つづく
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