十五の巻
「蝉時雨」3




by 戸田采女

 高山藩前留守居役・堀田又左衛門の隠宅は、巣鴨のお薬園近くにあった。空家になっていた御家人屋敷を買い取り、手を入れたらしい。もう少し先へいくと植木屋の多い染井村がある。幕府お薬園では薬草を主に栽培していたが、綿羊も飼われており、時折のどかな鳴き声があたりにこだましていた。

 堀田家の家督は嫡男が継いだ。娘もとうの昔に片付き、もはや堀田は悠々自適。役目を退いた後、菊を作って暮らすという長年の夢を実現させていた。内儀は堀田が留守居在任中に他界しており、今はやもめ暮しである。屋敷から連れてきた家令と、警護と薪割りや風呂炊きもしてくれる若党兼下男ひとり、近所の百姓屋から手伝いにくるおきね婆さんと孫娘のおみつ、計五人が隠宅の住人だった。

 藩の留守居役まで勤めた人物が、斯様なところに引きこもって寂しゅうはないのかと、藩邸の者たちは心配していたが、どうやらいらぬお節介だったようだ。巣鴨の隠宅には碁仲間や植木仲間を中心に来客が多く、留守居役時代の知己も時折手みやげ片手に訪ねてくる。

 十五日の『山王祭』を間近に控えた六月十三日。午後、右近は松屋の『うさぎ饅頭』を携えて隠宅を訪ねた。

 門をくぐり玄関で訪いを告げても誰も出てこない。勝手に上がるのもためらわれ、どうしたものかと思案していると、庭の奥から陽気な老人の声が聞こえてきた。

 右近は庭伝いに奥へ回ろうとした。まだ花の季節には遠かったが、堀田が丹精した地植えや鉢物の菊が、夏の暑さにもまけずに濃い緑の葉を広げていた。菊に混じって、茄子やきゅうり、南瓜などの野菜もたわわに実っている。

(堀田様も案外やるものだな…)

 右近が感心しながら畑を通り過ぎ、座敷前に出ると、堀田と客人は縁側で碁盤を挟んで向き合っていた。

 ゆっくりと歩みよる右近の足下を、雌鳥が一羽、こっこっこと横切っていった。

「玄斎どの。もはや手詰まりなのじゃろう? 潔く負けを認めなされ」
「なんのまだまだ…」
客人は碁盤を睨みつけたまま、唇をひき結んだ。
「しつこいお方じゃのう…。退屈ゆえ、どれ、瓜でも切ってこようかの」

 腰を浮かせかけた堀田が、地面を踏みしめる足音に気付いた。
「おっ…これは」
白髪頭を上げて見つめる堀田に、右近は深々と一礼した。
「堀田様、お久しゅうござります」
「貴殿…江戸へ戻ったとは風の便りに聞いておったが」
「ご挨拶が遅れまして誠に申し訳ござりませんでした」


 数年前、堀田が隠居するとき、右近を後任に推挙したいきさつがあった。当時の右近の役目は惣一郎の側用人。留守居部屋に勤めたこともなく、藩邸内ですれ違えば挨拶する程度の面識しかなかった右近は、なにゆえ堀田が自分を推したのか不思議に思っていた。

 惣一郎が言うには、右近の切れ者ぶりを聞き付けた『堀田の爺』が、ひそかに目をつけていたらしい。それがどこまで本当かどうかわわからねど、堀田のような人物に認められたことは右近にとっても光栄であった。

 ただ、親しく付き合っていたかといえば、そうではない。

 突然、隠宅を訪ねたりして、不躾ではなかろうか…。
正直不安を抱えながらの訪問であったが、
「何の、何の。…息災であったか?」
髷を結うには毛が薄くなったとはいえ、まだまだ血色のいい顔に、堀田は親身な笑顔を浮かべた。
「…おかげさまを持ちまして。堀田様もご壮健の様子にて、祝着至極にござります」
右近も素直に頭を下げる。
「おっ…それは松屋の」
目ざとく右近の手にした包みを見つけ、堀田は童のように目を輝かせた。
「うさぎ饅頭にござります」
右近が押し頂くように差し出すと、
「よう儂の好物を存じておったな。すぐ茶を煎れるゆえ…ここにかけて待っておれ」
堀田は縁側を指差すと、
「お〜い、おきね、客人じゃ。茶を煎れてくれんかのう…」
台所へ向かって声をかけながら、軽い足取りで奥へ引っ込んでいった。




 玄斎という碁仲間は、思ったとおりお薬園の医師だった。暇を見て堀田の隠宅を訪れ、碁を打っていくらしい。堀田は客が来たからと玄斉に詫びをいれて引き取ってもらった。

 少し風が出てきたのか、軒先の風鈴が涼やかな音をたてて鳴った。

「申し訳ござりませぬ…某が使いも出さずにいきなりお訪ねしたゆえ…」
「いや、気にすることはない。どうせ儂の勝ちであったし」
「はあ…」
そういう問題では、と右近は苦笑したが、
「玄斉殿はまた明日にでもやってくるじゃろう」
堀田はうさぎ饅頭を頬張りながら、人の好い笑顔で応えた。

「ところで貴殿、国許での働き、儂の耳にも入っておるぞ」
堀田の眼光がわずかに鋭くなった。
「…藩金流用のからくり、よう突き止めたな」
「恐れ入ります…」
「内藤帯刀罷免までのてん末、国許の主膳殿からつぶさに聞いておる」
堀田は役を離れたとはいえ、未だに藩の重鎮であることに変わりはなかった。主膳が連絡をとっていても不思議はない。

 ならば最近の国許の動向も…当然御存知だろう。
右近は期待と不安の入り交じった気持ちで話を続けた。
「某、今は中屋敷でふたたび惣一郎様にお仕えしております」
「うむ…若はいかがお過ごしか?」」
「はい。ご壮健にて、毎日のように絵筆を握っておられます」
もちろん、三日にあげず自分の閨へやってくるとは言わない。
右近は軽く頭を下げた。
洩れそうになった含み笑いを隠すためである。
「しばらくお会いしておらぬが…それは祝着至極」
堀田は茶をすすると、
「で、貴殿なにゆえまた江戸へ?」
右近に先を促した。
「此度は正式の役目を帯びてではなく、溝口主膳様から特別に休暇をいただき国許を離れました」
「それでまっすぐ江戸へ参られたのか?」
「はい…」
「あれだけの働きをしたのだから、ゆるりと湯治にでもいけばよかったのに」
「は、はあ…」
苦笑する右近を前に、堀田は陽気な笑い声をたてた。
「戯れ言じゃ。ともかく、こうしてまた貴殿に会えて嬉しいぞ。若も大層お喜びじゃったろう…」
しみじみとうなずく堀田に、右近は照れたような笑顔で答えた。

 そろそろ本題に入ろうと右近が居住まいを正した時だった。
「して…本日は、何用で巣鴨くんだりまで足を伸ばされた?」
先程までの隠居くさい様子から一変し、堀田の顔がひきしまった。
「ご拝察のとおり、某、堀田様のお知恵を拝借したく、本日まかりこしました」
「遠慮のう申されよ」
「はい…」

 国許の情報を得るためには、右近にはここしか頼るところがなかった。堀田が帯刀罷免までの経緯を知っているなら話は早い。
「実は‥」
右近はすがるような思いで話を切り出した。




 根岸の大文字屋で内藤帯刀とはち合わせた時のことを、右近は事細かに報告した。
「なるほど…ぜいたくな衣装を着た、三郎ぎみによく似た少年とは…いかにも胡散臭いな」
堀田は片手で顎をなでさすりながら呟いた。
「内藤殿はその少年に御自分のことを『帯刀』と呼ばせておいででした。おそらくはその少年を三郎ぎみと偽り…大文字屋に伴ったと思われます」

「堀田様…」
右近はいよいよ核心にせまった。
「国許で…三郎ぎみの周辺で何事か出来したのでしょうか?」
「…貴殿、誠之進殿から聞いておらぬのか?」
堀田の目が意外そうに見開かれた。
堀田は江戸詰め時代のふたりをよく知っている。
肝胆相照らす仲の誠之進と右近のこと、当然連絡を取り合っていると思っていたのだろう。

 堀田のこの反応からして、国許で事件が起こったのは確実と見た。

「いえ…最近便りがないので不思議に思っておりました」
音信が途絶えている理由を話すつもりはないが、まったくの嘘ではなかった。
「左様か…」
堀田は大きな溜息をつくと、思案顔で黙り込んだ。
「堀田様…もし何か御存知でしたら、教えていただけませぬか?」
右近は板の間に手をつくと、
「お願いにござりまする」
深々と頭を下げて頼んだ。
「手をあげなされ…。そのようことをせずとも、儂の知ることは全てお話ししよう…」
「堀田様、かたじけのうござります!」


つづく


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イラストは「十五夜」さんからお借りしています。


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