十五の巻
「蝉時雨」4




by 戸田采女

 三郎と駿河横河藩・本田家との養子縁組の一件。
堀田又左衛門は堀隼人丞から本田家についての照会を受けたことに始まり、この縁組を持ちかけたのが留守居役の岩田善次郎、本田家と結城家の間で仲介の労をとったのが田安慶久など、知りえた事実を右近にもれなく伝えた。

「当然、ここにはご正室・お牧の方様の意向が大きく働いておる」
堀田はそう断言した。
「藤十郎殿(隼人丞の通称)がこの縁組を胡散臭く思うのも当然じゃ。お牧の方様や田安様が三郎ぎみの養子先を好意で世話しようなど、天地がひっくり返ってもあるものか」
語気を強める堀田を右近は無言で見つめていた。

 話を聞きながら、右近の中でも三郎に対する様々な思いが逆巻いている。

「いくら本田家が隠しても、当主の若衆狂いなぞ、江戸の留守居なら誰でも知っていることじゃ」
「では岩田殿はそれを承知で…」
「おそらくな。三郎ぎみを疎んじるお牧の方におもねり、己の地位の安泰をはかろうとしたのだろう」
「なんと…」
「だからあのような輩に儂のあとを任せとうなかったのじゃ。せっかく貴殿を推挙したのに…主膳殿に横から攫われてしもうた」
口惜しそうに堀田は溜息をついたが、すぐに破顔して、
「いや、これは戯れ言ぞ。あの時点では、貴殿は国許にこそおるべき人材だったのだ」
「堀田様…そのような過分なお言葉…」
某にはふさわしゅうござりませぬ…と右近は胸の中で続けた。

 心の奥底で己の醜い声を聞いた。

 (三郎…おまえには似合いの養子先だ。誠之進を骨抜きにした身体で、本田家五万石を見事手に入れたなら…あっぱれとほめてやろうではないか…)

 蛇のようにとぐろを巻く邪心をひた隠し、右近は息を詰めて堀田の次の言葉を待った。

「だがな…右近殿。この縁組、裏があるとわかってはいても、容易には断れぬのじゃ」
いきなり話を元に戻した堀田だが、
「藤十郎殿への返書には、破談にしたほうがよかろうと書いたが、儂はやはり隠居の身、殿に言上つかまつるのは僭越というものじゃ」
「堀田様に限って、僭越などということはござりませぬが…」
「田安様のお顔が潰れぬよう、本田家側の素行をあげつらうことなく、よほど上手にお断りせねば、わが藩は苦しい立場に置かれることになる…」
「仰る通りにござりますな…」
右近は睫を伏せて静かに首肯した。
「三郎ぎみのことを考えれば、断じて受けてはならぬ縁組みだが…」
「藩の利益を考えれば…」
右近は最後まで言わずに、視線を庭先へと投げた。

 西日を浴びた夏の庭。目に痛いほどの光りを見つめながら、右近は己の心の闇から目を逸らそうとする。

「誠之進殿はさぞ辛いことだろう…」

 堀田の一言は右近の胸を鋭く抉った。

「重臣会議での意見も割れているようじゃ。最後は殿のお心次第ということになろう」
「…いた仕方ありませぬな」
乾いた口調で右近が同意した。

(誠之進…)

 今頃どうしているのだろう?

 三郎を本田家にやるまいと、殿様や重臣たちを懸命に説得しているのだろうか?

 こうして目をつぶれば、瞼の裏に誠之進の必死の姿が浮ぶ。

 友の真摯な眼差しを思い出すだけで、右近の胸は懐かしさに震えた。だが誠之進を突き動かしているのは、三郎を守りたい、その一事のみ。甘い疼きは一転して苦い口惜しさに変わる。

 いつの間にか眉を寄せて押し黙っていたらしい。目をあげれば案ずるような堀田の瞳に出会った。

「先程の内藤帯刀の件じゃが…もしや三郎ぎみの養子縁組の儀と、何か関わりがあるやもしれぬな」
「私も…そんな気がしてまいりました」
もともと藩邸奥と岩田善次郎、内藤帯刀は一本の線でつながっていた。帯刀が本田家の件に絡んでいたとしても不思議はない。
「大文字屋で出会ったのはいつのことじゃ?」
「五月十六日にござります」
「では、その日の客をすべて調べ上げてみてはどうか?」
「なるほど…」
「おそらく田安殿、ひょっとすると本田忠直殿も同席していたやもしれぬ」
右近の漆黒の瞳が閃いた。
「もしや。あの少年を三郎ぎみと偽り、本田様に引き合わせたとでも…?」
「そんな筋書きもないとはいえぬ」
「内藤殿はいったい何が狙いなのでしょう? そんなことをして何の得が…」

 堀田も腕組みをしてうなったが、右近のほうが一瞬早く気付いて、はっと息を呑んだ。

(狙いは誠之進か…。三郎の養子の件で誠之進を徹底的に追い詰める気だな…)

 やがて堀田がおもむろに口を開いた。
「誠之進殿の気性を考えると、三郎ぎみをお守りすべく、命がけでこの縁組に反対するじゃろう。堀藤十郎がついているとはいえ、殿や重臣に対し、行き過ぎた言動に出ることもありうる。帯刀はそれを待っているのではないか?」
「一方、自分は江戸で本田家に働きかけ、先方を乗り気にさせる…」
右近が苦々しく引き取ると、
「おそらくは」
堀田も眉を寄せて首肯した。
「やはり誠之進の失脚が狙いと」
「うむ。主膳殿はまもなく隠居じゃ。誠之進殿をこの件で追い落とし、その後を襲おうという魂胆じゃろう」
 
 帯刀は誠之進と三郎の関係を知っている。今、帯刀がそれを暴露したら…。

 誠之進が本田家との縁組みに強硬に反対すれば、若君の色香に迷った守役の世迷い言といわれ、座して見過ごせば、三郎は確実に本田忠直の餌食なる。誠之進がどちらの道を選ぶか、右近には手にとるようにわかっていた。

 誠之進の純粋な愛情と忠義を、色欲の次元に貶めるのは容易いことだった。あれほど右近が危惧したことが現実におこりつつある。

「おのれ内藤…罷免になった身で何と図々しい」
思わず歯がみした右近を前に、堀田が先を続けた。
「まずは彼奴の動きを逐一見張ることじゃな」
右近が間髪を入れずに言った。
「はい。その儀は既に手配いたしました」
「誰にやらせる?」
「日本橋に銀次という目明かしがおります。その手下の市松という男を借り受けました」
「江戸ものか。それはよい」
堀田は満足げにこくこくとうなずいた。
「大文字屋の調べのほうだが、女将に聞いても無駄だぞ。商売柄、客のことは一切洩らすまい」
「はい」
「下働きの下女か男衆にいくらかつかませて、話を聞出すがよかろう」
「では、市松を…差し向けてみましょうか」
「それがよい」
「雪駄直しを生業としておりますゆえ…その姿で台所に出入りしても、さほど不審に思われますまい」
「うむ。儂のほうもな、それとなく知己をあたって田安殿や天満屋のことを聞出しておこう」




 話も一段落し、潮時と思った右近は暇乞いをした。
すると堀田は、
「ちょっと待て」
と一声かけて、奥の間に入っていった。
戻ってきた堀田は、掌に納まる大きさの袱紗包みを右近に手渡した。
ずっしりとした重みに、中が小判であると知れた。
「堀田様…このようなことをなされては」
当然包みを押し戻した右近だったが、 
「江戸では金がのうては何もできぬぞ」
逆に諭された。
「かまわぬから少し持っていけ…」
「堀田様…」
「お家の大事でもある。貴殿ひとりが身銭を切ることもあるまい」
堀田は温厚な笑みを浮かべ、右近の懐に袱紗包みを押し込んだ。
大先輩からの厚意である。
固辞するのも頑なな気がして、右近は黙って頭を下げた。
「近いうちに儂のほうからも一度中屋敷へ出向こう」
「おお、それはようございまする。惣一郎様もお喜びになりましょう」
「ふふ…若には少し言ってきかさねばならぬこともあるし」

 もしや世継の件か…と、ぎくりとする右近であったが、
「貴殿もいつでも遠慮のう訪ねて来るがよい」
「はい。お言葉に甘えて、そうさせていただきまする」

「次は加賀屋の落雁がよいかのう」

 ふたたび気楽な隠居の顔に戻った堀田が、白髪眉を下げて微笑んだ。




 夕暮れ時、駕篭で中屋敷へ戻った右近は、一日の汗とほこりを落とすべく湯を使い、夕餉を済ませた。惣一郎の居室に一応顔を出したが、外出の疲れもあり早々に自室に戻り床についた。

 今宵も蒸し暑く寝苦しい。蚊帳の中、右近は夜具の上で大きく寝返りを打った。

 江戸で内藤の動向を探るのは、今後の藩のためにも決して無駄ではない。なれど、誠之進の窮地を救うには、それだけでは不十分だ。

 できることなら三郎を厄介払いして、誠之進だけを助けたい…。

 (ばかな。斯様な虫のいい話があるはずもない)

 本音を言えば、三郎など本田忠直にのしつけて差し出したかったが、今のこの状況で誠之進を助けたくば、三郎をも救わねばなぬこと、右近には十分わかっていた。

 もはやふたりを切り離して考えることなどできないのだ。

 目を閉じれば仲睦まじい二人の姿が、右近の瞼の裏に鮮烈に蘇る。

 幼い三郎を掌中の玉のごとく愛しんでいた誠之進。長じてからは、日々かしこく美しく成長する三郎を誇らし気に見つめていた誠之進。そして…契ってからのふたりは一。

 忘れよう、決して振り返るまいと、血の出るような思いで振り切ったはずだった。

 誠之進がもはや三郎の虜になっている以上、自分は二人の前から姿を消すしかなかった。今さら想いを打ち明けて三郎から誠之進を奪おうなど、斯様な浅ましいことができるわけもなかった。

 そして自分はひとり江戸へ戻り一一。

 惣一郎の手にすがった。

 生涯、惣一郎の側で生きると心に誓った。




「これは…未練などではないわ」

 右近は己に言い聞かせるがごとく呟いた。

 恋は終わったと。

 誠之進への恋は日の目を見ぬまま、水子のごとく葬られたのだ。

 駆り立てられるような気持ちは、恋の未練などではない。

 たとえ恋は潰えても、『生涯友でいよう』と誓ったあの日が風化することは断じてない。誰よりも深く心を通わせた友を、右近は見捨てるわけにはいかなかった。

 国許のことに直接手出しはできないが、江戸での内藤の動きを監視し、御家老(誠之進の父)に報告しよう。この江戸で、自分が少しでも内藤を牽制することができれば…。

 ともかく今できることはそれしかない。

 誠之進…早まってはならぬぞ。

 夢か現か。右近は闇の中、照れたような誠之進の笑顔を見たような気がした。


蝉時雨 了


「蝉時雨」3「炎夏」
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イラストは「十五夜」さんからお借りしています。


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