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「じゃ、弁天様、あっしはこれで」
中肉中背。反っ歯で愛嬌のある若い男が、右近にむかってぺこりと頭を下げた。
「御苦労だった。またよろしくな…」
右近は暖かい声音で労い、懐紙に包んだ「心づけ」を手渡す。
男は神妙に包みを押し頂き、
「じゃ、次は三日後に」
と、小声で呟いた。
右近がうなずくと、男は一礼して素早く木戸の向こうへ消えていった。
「いい加減、あの呼び方は止めさせねばならぬな…」
右近は微苦笑を浮かべて低くつぶやいた。
*
日本橋の御用聞き、銀次から借り受けた手先の市松は、暑い中根気よく張り込みを続け、霊巌島の天満屋の寮には帯刀の他、弟・嶺次郎、嫡男・弥一郎と彩之介と呼ばれている小姓の少年の、計四人が滞在していることを探り出した。
直接寮を訪ねてくる武家はいなかったが、帯刀は頻繁に駕籠で外出する。あとをつけてみると、留守居役の岩田と神田の小料理屋で会っていること、週に一、二度、田安家の屋敷に呼び出され、出向いていることがわかった。
あの日、根岸の大文字屋に本田忠直と田安殿がきていたことも、市松は早々に調べ上げてきた。
反っ歯でひょうきん者、遊び人のような市松だが、切れ者の銀次の手下だけあって、いざ探索となると存外頼りになる男だった。
滝川勘十郎や堀田の助言に従い、心づけをたっぷりはずんだのが効いたのやもしれぬ。週に二、三度、本業の雪駄直しの格好で浅草界隈に現れ、滝川道場で右近と接触する。
蛇足だが、若い市松はすっかり右近の美貌に心酔し、弁天様、弁天様と慕い、危険を顧みず天満屋の寮に忍びこむなど、かなり際どいこともやっていた。
だが市松の探索もそろそろ手詰まりの感があった。『為吉』こと玄海がさりげなく帯刀の身辺に貼り付いているので、床下に忍び込んで話を盗み聞くのはなかなかに危険が伴う。そろそろ別の手を考えねばと思っていた矢先、事は起こった。
七月五日。
朝からじりじりと焼けるような陽射しが照りつけていた。
中食を済ませ午後の執務にかかろうとしたところ、仙之丞が右近を呼びにきた。巣鴨からの使いが玄関先に来ているという。迎えに出てみれば、堀田又左衛門の若党が息を切らして右近に一礼した。
「お騒がせして申し訳ありませぬが…堀田様が櫻田様をすぐにもおつれするようにと」
「はて…火急の用件か?」
「はい。くわしいことはおいで下さってからと」
若党は再度深々と頭を下げた。
堀田とは定期的に顔を合わせ連絡をとっている。つい二日前にも隠宅を訪なったばかりだ。
右近は不吉な予感にかられた。
「仙之丞…悪いが駕籠を二挺呼んでくれ」
「かしこまりました」
仙之丞は物言いた気に瞳を揺らしながらも、すぐに手配に向かった。
*
とるものもとりあえず、巣鴨の隠宅を訪なうと、堀田又左衛門が厳しい顔つきで奥座敷に端座していた。
右近が姿を現わすと、
「おお右近殿、よう参られた」
待ちかねたような声をあげた。
右近は一礼すると、
「火急の用件とうかがいましたが」
御免と断り、差料を外すと堀田の正面に着座した。
堀田は傍らにおいた書状を手にとり、右近の前に差し出した。
「…まずはこれに目を通されよ」
差し出し人は中老の堀隼人丞(藤十郎)。日付けは六月二十七日となっていた。
簡潔に起こった事柄だけを綴った手紙を、右近は息もつかずに読み切った。にわかには信じがたい内容に、震える手で紙をたぐりもう一度初めから読み直した。
『…田安様への遠慮から、重臣一同、本田家縁組の儀破談とするは甚だ難しきことと考え候。かくなる上はと誠之進殿、三郎ぎみ近習として本田家に入るべく、父・主膳殿に自身の廃嫡の儀申し出で候えども、主膳殿これを退け候。もはや万策尽きたりと誠之進殿出奔を企て候…』
「堀田様っ…」
右近の声は掠れ、額に脂汗が滲んだ。鉛を呑んだように胃の腑が重い。
『…幸い、船が遅れ出奔は未遂に終わりしものの、時同じくして、何者かが殿の居室に文を残し居り候。三郎ぎみ誠之進殿尋常ならざる仲と知らされ、殿、誠之進が所行守役にあるまじきと御憤り甚だしく、ご逆上にてお手討ち寸前のところ、三郎ぎみ必死の嘆願にてこれを免れ候…』
右近は目を通しおえた後、書状をかたわらに置き瞑目した。
(誠之進っ…)
波のような後悔が押し寄せていた。自分が、自分さえ側にいれば、誠之進を翻意させることは叶わずとも、城から一歩も出さぬくらいのことはできたのではないか…。
殿様への密告文とて、自分がその場におれば、如何様にでも申し開きできたものを一。
「藤十郎殿が文を書いた時点では、誠之進殿は屋敷にて謹慎し沙汰を待つ、とのことだが…」
堀田の溜息混じりの声が聞こえ、右近はふたたびゆっくりと目を開けた。
「殿の居室に結び文とは…いったい何者の仕業か…」
ううむと唸った堀田を前に、
「おそらくは…内藤帯刀の差し金でしょう。数年前から中老の奥野氏と手を結び、色々と後ろ暗いことを…」
「ならば、国許で動いたのは奥野氏と?」
右近は首肯した。
「こんなことなら、儂ももっと早うに誠之進殿に手紙を送るなり、口を挟んでおくべきじゃった…」
「堀田様のせいではござりませぬ…」
堀田の言葉を静かに否定しながらも、右近の黒耀の瞳は凝と虚空を見つめていた。
(三郎を連れて出奔…。
家も地位も何もかも捨てて、浪々の身になってでも三郎を放すまいと。
そうまでして守りたかったのか。
結城家十一万石・筆頭家老の座と引き換えに。
ならば誠之進、我らの過ぎし日の約束は?
将来、貴公が国家老となったあかつきには、新しい時代の藩のあり方を二人で探ろうと、二人で藩政の舵取りをするのだと、あれほど固く誓いあったものを一一。
それも…もはや忘れてしもうたのか。
三郎との恋の成就の前には、私との誓いなど塵芥も同然か…。)
軒先の風鈴が鳴った。
かたわらに置いた堀の書状が、かさかさと音をたてて畳の上を滑っていった。
「右近殿…」
呼び掛けに右近が茫洋とした眸で見返せば、
「三郎ぎみと誠之進殿が割りない仲とは…、まことか?」
堀田が溜息まじりに問うた。
身体中の血が凍り、右近の内奥で青白い炎がゆらりと燃え立った。
「そのような話…私は存じませぬ」
端座したまま、右近は眉一つ動かさずに呟いた。
右近の心の裡を推し量ろうとする、堀田の親身な視線が煩わしい。
「…知りたいとも思いませぬ」
右近は唇の端に冷笑を浮かべた。
冷笑を浮かべたつもりが、
「…貴殿も、辛いところじゃの」
堀田が深い哀れみを声に滲ませた。
*
堀田から『堀藤十郎からの次の知らせを待て』と因果を含められ、右近は巣鴨の隠宅をあとにした。衝撃を受けた右近が早まって内藤帯刀へ報復に出るのを、堀田は懸念したのやもしれぬ。
右近は帰りの駕籠に揺られながら、胸の奥で呟いた。
誠之進の命あるうちは、左様な愚かな真似はいたさぬ。だがもしも、誠之進が切腹仰せつかるようなことになれば…。
その時は、必ずや我が手で帯刀の息の根を止めてやる…。
帯刀だけではない。
本田忠直に三郎を差し出そうなどという、茶番を仕組んだ岩田善次郎も生かしてはおかぬ。
いっそ田安の慶久も道連れにしてやろうか?
そして、もうひとり。誠之進をかくのごとき窮地に陥れた張本人…。
(おまえを…決して許しはせぬ)
固く封印したはずの三郎への嫉妬が、再び紅蓮の炎となって燃え上がろうとしていた。
*
加賀様の上屋敷付近まで戻ってきた時、右近は思わず駕籠かきに声をかけた。
「すまぬ、寄るところを思いだしたゆえ、このあたりで降ろしてくれ」
「へい」
高山藩中屋敷は目と鼻の先だったが、右近は斯様な気持のまま戻ることはできなかった。今、顔を合わせたら、惣一郎は動揺した右近の胸中を必ず見抜く。問いつめられれば自分は何を口走るかわからない。
とにかく堀田の言うように、国許からの次の知らせを待つのだ。
今日は…これ以上余計なことを考えてはならぬ。
右近の足は救いを求めるがごとく、自然と浅草の滝川道場へ向かっていた。
陽は西に傾き、一日の仕事を終えて家路につくぼて振りや人足で、往来は溢れかえっていた。
彦四郎に誠之進出奔のてん末を語るつもりではない。今は無心に竹刀を振り、倒れるまで稽古をつけてくれる強い相手が欲しかった。
右近は雑踏を縫うようにして、すがるような気持ちでひたすら滝川道場を目指した。
炎夏 了
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