十七の巻
「秋草」2




by 戸田采女

 誠之進が屋敷にて謹慎申し付けられて以来、はや一月以上が過ぎていた。
日中の陽射しはまだまだきつかったが、朝夕に袂に涼しさも覚える。城下の庭先やあぜ道にも、低く流れるように飛ぶ蜻蛉の姿を見かけるようになった。

 あの日以来、誠之進は家族以外の誰とも会うことを許されず、離れに軟禁され、じっと沙汰を待つ日々であった。溝口家の次男・慶次郎は時々内密に西の丸を訪れ、兄・誠之進の様子を三郎に知らせてくれる。

 誠之進は三郎のこれからを切に案じ、各方面に手紙をしたためる一方、自らは取り乱した様子もなく淡々と日々を過ごしているという。三郎には誠之進の覚悟を決めた様子が目に浮ぶ。下男に化けてでも何とかして屋敷に入り込み、一目だけでも会えぬだろうかと、三郎は必死に考えを巡らせていた。

 誠之進の父、筆頭家老の溝口主膳は息子の不始末を詫び、早々に致仕を願い出た。だが信輝公が断じてまかりならぬと慰留した。これで誠之進が許される可能性は高まったが、『出奔』の事実を知った奥野将監ら一部の重臣は『殿のご勘気をこうむり罷免されたのなら、さっさと自ら腹を切るべし』と、誠之進を激しく非難した。

 かくなる上はと堀隼人丞は、重臣会議で元・江戸留守居役、堀田又左衛門の書状を公開した。本田忠直の若衆狂いを明らかにし、いくら田安殿の口ききでも本田家に三郎ぎみを送りだすのはいかがなものかと訴えた。奥野は誠之進と三郎の関係に鉾先を向け話をそらそうとしたが、山崎や榊原ら良識派の中老は少しずつ堀の熱弁に耳を傾け始めたのだ。


*


「確かに…此度の誠之進殿の行動は若さゆえの短慮、性急な行いと非難されてもしかたありませぬ。なれど殿や御家老にあれほど懇願しても聞きいれられず、本田家との縁組が成立するやもしれぬとなれば、守役としては断腸の思いであったに違いありませぬ」
「それは守役の心情というより、誠之進殿が三郎ぎみと…割りない仲になっているからであろう? 御自身が三郎ぎみを手放したくなかっただけではないのか?」
奥野の揶揄を堀は鼻を鳴らして一蹴した。
「おふたりが割りない仲かどうかなど、そのような下世話な話はどうでもよろしい」
「何じゃと、若僧のくせに生意気な口をっ!」

「奥野殿…まあ落ち着きなされ」
白髪眉を下げて、山崎翁がやんわりとたしなめた。

 三郎を昔から軽んじてきた奥野、酒井を説得しようという気は、堀にはさらさらなかった。堀の言葉は主に山崎と榊原に向けられていた。
「ともかく…すべては三郎ぎみを、三郎ぎみのお幸せを思ってのこと。誠之進殿は家も知行も捨て、己の身ひとつで三郎ぎみをお守りしようとしたのですぞ。断じて私利私欲のためではありますまい。家老、中老の皆々様におかれましては、どうか寛大なお心で、この一件おさめていただきとう存じます」

 主膳は巌のように端座し、当然ながらひとことも発言しなかった。

 事なかれ主義の小栗も、この時点で誠之進の行動を是とも非とも言いかねていた。

 御用部屋に沈黙が流れたとき、山崎翁がおもむろに口を開いた。
「儂は堀殿の言に賛成じゃ。自身の廃嫡を願いでてまで三郎ぎみにつき従おうとは、あっぱれな忠義でござる」
「山崎殿ともあろうお方が何をたわけたことを。全ては衆道の執着ゆえの話ではないか…」
奥野は目の端で主膳をちらりと盗みみて、皮肉たっぷりに言った。
だが奥野の言葉など聞こえなかったかのように、山崎は続けた。
「主膳殿にも八方道を塞がれ、もはやこれまでと誠之進殿が暴走した気持ち、わからぬでもないわ…」
山崎は呵々と笑った。
「山崎殿…お人が悪いですぞ」
主膳が真顔でわずかに苦笑してみせた。
「ともかく、誠之進殿の処分は殿のお心次第ということでよかろう? もはや我らが是非を云々するような話ではないと思うが…」
様々な表情で思いを巡らす皆を前に、山崎はあごひげを梳きながら続けた。
「しかし神君家康公にお仕えした三河以来の名家とはいえ、本田家の重臣どもも…よくよくわが藩をなめてかかっておるのう? 妾腹とはいえ、れっきとしたわが殿のお子を、斯様な企みをもって養子に迎えようとは…。まったくもってけしからぬ!」

 山崎翁がその場の流れを微妙に変えたのか一一。

 中老の榊原は皆の言葉にじっと耳を傾けていたが、ようやく重い口を開いた。
「確かに…。田安様のお口聞きとあらば、こちらが断りにくいことを百も承知で…何とも腹だたしゅうござる」
「榊原様…」
堀は思わず大きくうなずいた。
「いったい留守居役の岩田もどういうつもりで斯様な話を持ってきたのか。一度はっきりさせねばなりませぬな」
これまで態度を保留していた榊原がついに同意を示した。
堀は思わず破顔しそうになるのを堪え、
「そもそも…堀田様の後任選びが間違っておったようですな。留守居部屋の人事は一度仕切り直したほうが良いやもしれませぬ」
努めて重々しい声音で言った。

 ほぼ勝利を確信し一同の顔を見渡す堀に、小栗も渋々うなずいた。
 
 こうして本田家との養子縁組の儀、反対派は堀、山崎、榊原の三名となった。賛成派は奥野と酒井のみ。主膳は身内の絡んだ話しゆえ意見は述べず、小栗も中立とみた。養子縁組を白紙に戻す方向へと、天秤は大きく傾きはじめていた。


*


 八月二日、夕刻。

 殿様が製作中の絵が完成し、それを賜るとの仰せに、一日の執務を終えた山崎忠実は下城前に中奥へ伺候した。既に還暦をいくつも超える山崎は、今年の春に隠居願いを出したものの、信輝公は承諾せず預かりとなったままだった。

 だが、此の度、山崎のほうから隠居願いを撤回したいと申し出た。

 藩主三男・三郎の身の振り方が円満に決まらぬ限り、おちおち隠居なぞしておれぬというのが理由だ。

 山崎が信輝公の居室に赴いたとき、殿様は完成した絵に署名をし、印を押していたところだった。墨や絵の具が乾くまで茶でも喫して待てと仰る。

 山崎は側用人の青木忠左衛門が控える中、庭付き書院で殿様と向き合い、のんびりと茶を喫していた。見渡す書院前の庭には、桔梗の青紫の花に混じって咲き始めた白萩も見え隠れしている。高山の短い夏が終わろうとしていた。

 しばらくふたりは城下の世間話などをしていたが、山崎は慎重にころ合いを見計らい、殿様の神経を逆なですることなく、話を例の一件へとつないだ。

「早いもので、もはや八月。…東都へご出立の日も近付いて参りましたな」
「うむ…」
出立は十五夜の月見の後、八月十九日と決まっていた。
「お名残りおしゅうござります」
「ふふ。余も江戸へ帰るのは億劫でならぬが…これも勤めのうち、いた仕方あるまい」
口元に笑みを浮かべながらも、信輝公は重い溜息をもらした。

「三郎ぎみもお寂しいことと存じます」
山崎が静かに頭を垂れると、
「さて…予は三郎にすっかり恨まれてしもうたからのう」
信輝公は眉を寄せ、悲しげな声音で呟いた。

「殿…」
山崎翁は白髪眉の下、目元を和ませて言った。
「老人の呟きではござりますが…某、殿に申し上げたき儀がござります」
「…遠慮はいらぬ、申してみよ」
信輝公は穏やかに促した。

「では恐れながら…」
「うむ」
山崎は一度こほんと咳払いをし、
「武家のしきたりじゃなんじゃというても、所詮三郎ぎみは妾腹の三男。いかがでござりましょう…。御本人が望まぬなら、なにも大名家へ養子へ出さずとも、この高山で暮らせるようはかろうてさしあげるのもよろしいかと…」
年下の藩主にやんわりと具申した。

「忠実…?」

「武士の心とて、木石でできているわけではありますまい。身分も家も捨てて三郎ぎみを守ろうとした誠之進殿の思い…。若気のいたりとはいえ、これ以上、生木を裂くよう真似をせずとも…」
「そちも予を悪者のごとく言うのか?」
「これはこれは…滅相もない!」
山崎はあごひげをさすりながら、破顔した。

「しかし殿も未だ誠之進殿の処分を決めかねておられるのは…お二人を哀れと思し召してのことと拝察いたしますが…」
図星をさされ信輝公は鈍い溜息をついた。
「かくいう私も初めてお二人の仲を知った時、正直けしからぬと思いました…。守役の身で何たる不始末かと」
「うむ…」
当然じゃとばかりに信輝公がうなずいた。
「なれど…側仕えの者の話では、おふたりが深い仲になったのはごく最近のこと。幼い三郎ぎみを誠之進殿がどうこうしたわけではござりませぬゆえ…」
「…忠実」
「何より、お二人の間には何人といえども裂くことのできぬ、深い主従の絆がござります…」
「それは予とてわかっておる」

 信輝公も一時は頭に血が昇って誠之進を手討ちにしかけたが、それでも溝口親子への長年の信頼は簡単に揺らぐものではなかった。事件の後、主膳は息子の不始末を詫びて筆頭家老を退こうとしたが、信輝公が断じてまかりならぬと慰留した。
 
 結局、信輝公も誠之進を赦すきっかけを探しているのではと山崎は読んでいた。

「いかがでござりましょう…殿。江戸へ出府なさる前に、そろそろ誠之進殿の謹慎を解かれては?」
「うむ…なれど一度罷免した守役に再びつけるわけには」
殿様としては引っ込みがつかぬというわけだ。
山崎はこくこくとうなずき同意を示しながら、
「では…西の丸の主、三郎ぎみの側用人ということでは?」

 古い酒を新しい皮袋へ、のようなやり方だが、要は殿様の顔を潰さぬよう体裁さえ整えればよいのだ。

 山崎は穏やかに微笑みながら、如何と上段の間の信輝公を見上げた。

 信輝公は苦笑しながらも、ようやく肩の力を抜いて言った。
「うむ、それも名案じゃの。考えておこう」
「殿…」
「そちのような人間はまだまだ御用部屋には必要じゃな。当分隠居させるにはいかぬ…」
「もったいなきお言葉にござります」
安堵の声をもらしながら平伏する山崎に、用人の青木が安心したように微笑んだ。

 穏やかな空気が書院に流れていた。

 三郎がいかに誠之進を慕っているか…殿様も、用人の青木も、心の底では皆わかっていた。御家大事の一方で、この愛すべき三男の幸せをこそ願い、不幸を望む者などこの部屋には誰もいない。

 やがて絵を携えた小姓が書院にしずしずと入室し、御前近くに歩みよった。信輝公は今一度、仕上がった絵を手にとって検分すると、
「どうじゃ、忠実」
山崎の前に広げて見せた。
山崎は目を凝らしながら、
「おお、夏椿の枝に遊ぶつばめにござりますか。…いつもながら殿の絵は、なんともいえぬ、心暖まる風情がござりますな」
と、嘆息した。
「気に入ったのなら結構…」
信輝公は満足そうにうなずいた。
「二羽のつばめは、番いかそれとも兄弟か…」
山崎翁は顎ひげをいじりながら、いたずらっぽく目を光らせた。
「いずれにせよ、仲睦まじいのが何よりにござります…」

 脇に控える用人の青木がくすりと笑った。
信輝公はわずかに口元を引きしめ、
「あとはそちのほうで軸にでも仕立てるがよい」
「ありがたき幸せにござります。我が家の家宝として末永く大切にいたしまする」
御前で深々と礼をする山崎に、信輝公はうなずいてみせた。




 歓談の時間は終わった。
次の予定を知らせるべく、小姓が用人の青木に耳打ちした。
青木はなぜか渋面を作ってうなずくと、
「殿、奥野将監殿がお目通りを願っておいでです」
「奥野が…?」
信輝公は聞き返しながら重い吐息をついた。
「参勤の旅程につき、殿に御説明したいとのことですが」
「わかった…奥の間で待たせておけ」
山崎翁は眉ひとつ動かさずに、信輝公の反応をつぶさに見守っていた。

 信輝公は明らかに気が重そうだった。旅程の説明といいながら、奥野の本題は三郎ぎみご養子の件だろう。本来なら内藤帯刀が罷免になったとき、藩金流用に連座していたとおぼしき奥野にも追求の手がのびるはずだった。しかし、帯刀は関係者の名を一切明かさず、己ひとりが責めを負った。奥野はそのおかげで、未だに中老の席に名を列ねている。此度は殿様の随員として江戸に出府する。

 金と女には目がなく、それこそ己の欲のためには手段を選ばぬ奥野を、山崎翁は唾棄すべき輩と内心軽蔑している。

 信輝公は憂鬱な面持ちで、渋々立ち上がった。

 小姓や青木とともに書院を去る殿様の背を、山崎は静かに見送った。

 これでひとまず誠之進の首はつながったが、本田家との縁組を断るには、田安家の面子を潰さぬよう、余程信輝公が上手に立ち回らねばならない。

 やはり頼りになるのは又左殿(隠居した前・留守居役、堀田又左衛門)のみか。

 (又左殿…のんびり菊なぞ作っている場合ではござらぬぞ…)

 人気のなくなった書院で拝領した絵を片手に、山崎は皺だらけの目元をしばたかせた。


秋草 了


「秋草」1「乱舞」1
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イラストは「十五夜」さんからお借りしています。


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