十九の巻
「待宵」1




by 戸田采女

 ぎい…。

 片手で軽く押すと、木戸は軋んだ音をたてて開いた。

 秋風が立ち始めた八月半ば。午後、三郎は離れの誠之進の部屋へやってきた。
誠之進が西の丸を追われて以来、ここは誰も使っていない。
入口の板の間から座敷に進めば、見なれた八畳の片隅に、整然と積まれた書物の山が残っていた。
側には数枚の着物。
身をやつしての逃避行には持っていけなかった、上等の紬だ。
文机の上には誠之進愛用の硯と筆も残っている。
誠之進は三郎とふたり、二度と戻らぬ決意で部屋を片付けていった。

 こうして主不在の部屋に佇んでみれば、過ぎし日の思い出が尽きることなく蘇る。

 初めて城へ来た幼き日、淋しくて眠れぬ夜に離れを訪えば、誠之進は困ったような顔をしつつも添い寝してくれた。

 藩校へ通い始めてからも毎日のようにこの部屋を訪れ、日々の出来事を話り学問を教わった。ここへ来ればいつも、誠之進は鳶色の瞳で優しく微笑んで三郎を迎え入れた。

 どこよりも、誰の側よりも安らげる場所…。

 そして…。初めて契ったのもこの部屋だった。

 「誠之進…」

 三郎は部屋の中ほどに端座し、瞑目した。

 ここに暮らした誠之進の名残りを、五感を研ぎすませて懸命に探した。

 微かに漂う部屋の匂い、庭から聞こえる風や葉ずれの音。

 昨年の今頃はふたりで何をしていただろう?

 そうだ、釣りにいったり、野駈けで荒井の別邸までいったり…ふたりきりになれる場所を探してあちこち遠出したものだ…。

 出奔が頓挫した六月末から、かれこれもう一月半になる。

 誠之進と肌を合わせていないどころか、一目会うことすらできない。

 思い出を手繰ろうとすればするほど、寂しさで気が狂いそうになる。

 誠之進が生きている限り、まだ終わったわけではない。

 なれど一一。

 
 三郎は部屋の隅へと膝行し、残された小袖を一枚手にとった。
それを胸の中に抱き込み、畳の上にそっと横たわる。
胎児のように膝を丸め、黒っぽい紬に顔を埋めた。

 愛しい男の残り香を求め、三郎は深く息を吸った。
懐かしさに胸が締め付けられる。

(もうこれ以上は耐えられぬ。早う…誠之進の側へいきたい)

 堰を切ったように涙が溢れ、嗚咽とともに誠之進の着物に吸い込まれていった。




 八月十五日、高山城本丸、中奥の庭付き書院にて月見の宴が催された。

 御神酒徳利にさした薄や秋草、三方にのせた枝豆や団子などを、台の上に美しく飾り付け、濡れ縁に置いて月に供した。透き通るような夜気に、満月が皓々と光を放っていた。

 家老・中老七家の重臣一同とともに藩主三男・三郎信尭も宴に列席した。四日後の十九日、信輝公は参勤で江戸へ出府する。行列に随行する中老・奥野将監をのぞき、出立を前にした殿様と重臣たちとの別れの宴でもあった。

 和やかに歓談し謡や舞を楽しみながら、列席者の多くは謹慎中の溝口誠之進の処分がどうなるのか、この場でお言葉があるのかどうか、内心では気になって仕方ない様子だった。

 皆の視線が時おりちらちらと、誠之進の父・溝口主膳や三郎に向けて走るのを堀は見逃さなかった。

 堀隼人丞は最年少の中老でもあり、本来末席に控えるはずだが、現在、堀は三郎の後見を仰せつかっている。よって本日の宴でも上段の間に座した三郎の近く、上手に席を得ていた。

 正面に坐る筆頭家老の主膳とは、顔を上げれば目があってしまう。

(御家老が宴にご出席ということは…よもや今さら誠之進に対し苛烈な裁きはあるまい…)

 軽く堀が目礼を返すと、主膳は古武士のような相貌に柔らかな笑みを作った。今宵の主膳は寡黙だった。上座に泰然と座し、穏やかな表情で杯を口に運んでいた。

 相変わらず本音を読ませぬお人だ…と、堀は苦笑した。

 宴たけなわとなったところで、最年長の中老・山崎忠実(ただざね)が十八番の『高砂』の神舞を舞った。

「山崎翁は年柄年中あればかりじゃな」

 中老の奥野将監が小声で嫌味を言ったが、もはや誰も関心を払わなかった。先日の御用部屋での会議以来(秋草)、奥野の発言力がおおきく低下したのを堀は感じていた。
悔し気に歪む奥野の顔を横目で見ながら、
(貴公がこういう席に出られるのも、そう長くはないだろう…)
堀は腹の中でひそかに呟いていた。
 
 山崎翁は用意が整ったところで、殿様に向かって一礼した。謡は主膳、鳴り物は小姓たちが引き受けた。

『高砂や、この浦船に帆をあげて』

『月もろともに出汐の』

『波の淡路の島影や、遠く鳴尾の沖過ぎてはや住之江に付きにけり』


 誠之進とよく似た主膳の朗々とした声が書院に響き、山崎翁の舞が始まった。


『千秋楽は民を撫で、万歳楽には命を延ぶ』

『相生の松風颯々(さつさつ)の声ぞ楽しむ、颯々の声ぞ楽しむ…』

酒も入っていたためか、途中、多少足がもつれたものの、山崎翁は春景色を賞し、御代を祝う舞を見事に舞った。

 満座の拍手に迎えられて山崎翁が照れ笑いを浮かべている。

「忠実、見事であったぞ」

 信輝公は御満悦で老人の舞を讃えた。
山崎翁は御前に膝行し、
「やれ、毎度毎度おはずかしい限りですが、殿の道中のご無事といく久しいご健勝を祈り…拙い舞を披露いたしました」
「うむ。そなたの心、嬉しく思うぞ」
信輝公の労いの言葉に、山崎翁はほとんど目を潤ませながら白髪頭を下げた。

 苛だたしげにそれを見つめる奥野以外、皆は歓談を続け、宴は和やかな雰囲気のうちにお開きとなった。
 
 溝口主膳は山崎翁を屋敷まで送ろうと早々に退出。堀と三郎は重臣たちが三々五々引き上げるのを見送った。

 信輝公は最後に用人や小姓たちも先に退出させ、書院には三人だけが残った。
「殿…まこと、楽しき宴にござりましたな」
「うむ。こうして主従打ち揃うて和やかに過ごすのが一番じゃな…」
信輝公はしみじみとうなずき、
「江戸ではなかなかこうはいかぬ」
ほんの少し悲しげに結んだ。

 三郎は宴の間中いわゆる借りてきた猫で、父君とともに上段の間に座し、終始笑みを浮かべて家臣たちに相対していた。だが三郎の心はここにあらず。

 四日後に江戸に向けて出立する父に問い正したいことがあるはずだ。黒目がちの瞳が今か今かと間合いをうかがっているのがわかる。

 堀は側に控えながら、黙って三郎が口火を切るのを待っていた。
「父上…」
「何じゃ、三郎」
「父上に…お尋ねしたき儀がござります」
「うむ」
三郎は息を吸うと、
「…誠之進を、いかがなさるおつもりにござりますか?」
目に力を込めて父・信輝公を見つめた。
言葉少ない中にも必死の様子がひしひしと伝わってくる。
今宵、この話が出るのは当然承知していたのだろう。
信輝公はすかさず、
「前にも申したように、此度の不始末により守役の任は解く」
用意していた答えを口にした。
「ではっ…しばらくは無役ということにござりますか?」
三郎が身を乗り出すようにして尋ねた。
守役は御役御免でも、まさか死罪などあり得ぬでしょう?
と食い入るような眼差しで父君を見つめている。

 信輝公は軽い溜息をついて苦笑した。
「左様に睨まずとも…いまさら切腹など命じはせぬ。安堵せい…三郎」
「それは…」
一瞬、驚いたように目を見開き、
「ま、まことにござりますか?」
三郎の頬に喜色が広がった。
「うむ。謹慎も本日正式に解いた」
「ち、父上っ…」
黒目がちの瞳にじんわりと涙が浮んだ。
誠之進が赦される日を一日千秋の思いで待っていた三郎。
その心中を思うだけで、堀隼人丞の胸にも熱いものがこみあげてきた。

 山崎翁から『誠之進殿は近いうちに謹慎を解かれるだろう』と聞いていたが、殿様の口から直接赦しの言葉を聞き、堀もようやく胸のつかえが取れた。

「藤十郎。そなたの後見役も今宵までじゃ」
堀ははっと面をあげ、
「では…?」
信輝公が容(かたち)を改めて、ゆっくりとうなずいた。

(すべてを元の鞘に納めるおつもりなのだな…。)

「藤十郎…御苦労であった」
堀は信輝公の意図を察し、両手をつき深々と一礼した。
もはや自分が手出しをする必要はなくなった。
信輝公は赦されたのだ。
誠之進と…ふたりの仲を。

(誠之進…貴公の真心が殿に伝わったな)

 堀は我が事のように胸を震わせながら、神妙に首を垂れていた。

「父上…」

 三郎の呟きに堀が面を上げてみれば、黒目がちの瞳がもの言いたげに信輝公を見つめている。
「三郎…早う西の丸に戻るがよい」
「ち、父上?」
「…今頃、離れでそなたの帰りを待っておるはずじゃ」
「父上…それは?」
三郎は不安げに瞳を揺らしながらも、頬には血の色がさし、声が期待に震えていた。
信輝公は目を細めて無言でうなずいた。
「何をしておる。早う行け」
「は、はい!」

 三郎は慌ただししく一礼すると、もはや藤十郎には目もくれずに、乱暴に足音をたてて部屋を飛び出していった。

 信輝公は手にした白扇で軽く額を叩き、
「あの立ち居振るまいでは…やはり大名家には養子に出せぬな、藤十郎」
「…殿」
「守役の躾がなっておらん…」
「仰せの通りにござりますな。私からも一度ふたりにしかと言うてきかせましょう」
堀は笑いをかみ殺しながら、真面目に返答した。
「うむ」
信輝公の頬に、久方ぶりに屈託ない笑みが広がった。
「殿、では誠之進は今まで通り西の丸に…?」
「…三郎の用人ということでな」
多少ばつが悪そうな信輝公の呟きに、
「なるほど」
山崎翁あたりのお知恵かと堀は膝を打った。

 初秋の夜は更け、時折、梟の声がほうほうと闇にこだました。

 心の荷を降ろした信輝公は深い溜息をついた。
「藤十郎」
「はい」
「予が…間違っておった」
「殿…?」
「又左(堀田又左衛門)からの書状をそのほうが読んできかせた時、本音を言えば、余も心の底では同じ不安を抱いていたのだ」
「殿…」
「なれど…確たる証拠がない以上、臣であるそのほうや誠之進を前に、牧や田安殿の悪意を認めるわけにはいかなんだ…」
「…殿の心中、お察しいたします」
「三郎の気持ちも考えず、予は本田家五万石の家督に目がくらんだのじゃな…。予は守役の誠之進以外、何の後ろ楯もない三郎に、確かな、形あるもの残してやりたかったのだ。大名の生活などつまらぬと普段あれほど言いながら…何とも矛盾したことを考えておった」
「それは…親心というものにござりましょう。誠之進とて殿のお気持ちはわかっておりまする」
信輝公は此度のことですっかり自信をなくしているようだった。
堀の励ましに、信輝公は力なく微笑んでみせた。

 「江戸の又左や櫻田右近からも、誠之進の助命嘆願の手紙があい次いで来ての…」
「ほう…左様にござりましたか」
堀田はともかく、右近が遠く江戸から殿様に直訴したとは驚きだ。
藩校時代からのふたりの友誼はかくも深いものかと、堀は感慨深く思った。

「とぼけずともよいわ、藤十郎。又左にこの一件を知らせたのはそのほうであろう?」
「さすがは殿、御明察にござります」
破顔する堀を前に信輝公は苦笑した。
「忠実(山崎翁)にせよ、そなたにせよ、誠之進の命を惜しむものはたくさんおる…」
「出奔を企てるような大馬鹿ものなれど…誠之進の言葉には嘘がありませぬ。己が信ずるもの、大切なものは命がけで守る…」
「…それを言われたら、完敗じゃ、藤十郎」
信輝公と堀は一瞬顔を見合わせ、同時にのどかな笑い声をたてた。

 だが信輝公はひとしきり笑うと、容(かたち)を改め、
「藤十郎、江戸へ戻ったら、早速この縁組、破談にして参るぞ」
「殿っ!」
「もはや本田忠直殿の性癖など問題にする必要もない。三郎は国許で分家させる。…それに」
「それに?」
「我が藩には世嗣の惣一郎以外、未だ直系の男子は三郎を除いてひとりもおらぬ」
「確かに…」
信輝公と藤十郎は目を見交わした。
「惣一郎に男子が生まれ健やかな成長を見るまで、何も慌てて三郎を養子に出すこともあるまい」
「と、殿…そのお考えはっ」
藤十郎は鋭く小声で言うと、信輝公を前に小さく首を左右に振った。
三郎を惣一郎の次の藩主にと仄めかすような話は、滅多に口にしてはならない。
「わかっておる…ここだけの話じゃ。誠之進にも言う必要はないぞ」
「御意…」

「藤十郎。これからも、三郎と誠之進のことを…陰から支えてやってくれ」
「…私なぞでよろしければ」
堀はしかと承った。
「国許には主膳に誠之進、忠実、そなたと人材が揃っておる…だが、忠実はもはや高齢。主膳もそろそろ隠居をと考えておる。これからは誠之進とそなたが中心になって御用部屋をまとめていかねばならぬぞ…」
「身に余るお言葉…堀藤十郎、微力を尽しまする」

 信輝公は満足げにうなずくと、
「予も…江戸で闘って参る」
「殿…?」
信輝公は眦を決し、厳しい口調で語った。
「国許の三男の身の振り方まで、田安殿に決めていただくいわれはない。藩主である予の返事も待たずに、あちらで勝手に本田家と話を進めているとすれば、それこそ大きなお世話と…」

 言い切らぬうちに、信輝公は俯いて片手で胸のあたりをぎゅうと握りしめた。

「殿っ、いかがなされました?」
「う…」
「殿?!」
堀はするすると膝行し上段の間に近寄ると、下から信輝公の顔を覗き込んだ。
「…大事ない、藤十郎」
信輝公はふうっと大きく息をついたが、顔色は先刻よりも明らかに悪い。
「殿、お疲れなのではありませぬか? もうお休みになられては。青木殿をお呼びしましょう…」
信輝公は首を横に振ると、
「藤十郎、待て。まだ話がある」
「はっ」
「本田家との養子話を持ってきた留守居役の岩田だが…」
堀は一瞬息を詰めた。
「近いうちに罷免する。詳しく吟味した後、事と次第によっては切腹じゃ」
「はっ…」
堀は言葉もなく平伏した。
「隠居した又座には気の毒だが、ふたたび召し出そうとおもう。留守居役の後任が決まるまで、藩邸に詰めてもらうつもりじゃ…」

 そこまで考えておいでとは一一。誠之進が謹慎中のふた月足らずの間、殿様も悩みに悩んで結論を出されたのだ。

 誠之進が赦されたのは祝着至極である。

 なれど本田家との縁組を断れば、江戸藩邸で一波乱あるのは必定。国許にもその余波は必ず訪れる。嵐が過ぎ去ったわけではないと、堀隼人丞は改めて気を引きしめるのだった。


つづく


「乱舞」4「待宵」2
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背景は「妙の宴」さんからお借りしています。


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