十九の巻
「待宵」2




by 戸田采女

 息を切らして西の丸に戻った三郎。

 月明かりを頼りに、夜の庭をまっしぐらに離れへと走った。草履を脱ぎ捨てて渡り廊下に上がり、離れの木戸を渾身の力で叩いた。

 閂はかかっておらず、観音開きの木戸が開くと同時に、三郎は板の間になだれこんだ。勝手知ったる離れだ。暗闇の中でも迷わず襖の側まで歩み寄り、一度大きく息を吸う。

(誠之進っ…!)

 心の臓が早鐘のように鳴る。

 三郎は立ったまま引き手に手をかけ、勢いよく開けた。

 たんっという音とともに視界が開け、ほの暗い室内が見えた。

「何ですか…立ったまま襖を開けるなど」
鼓膜をくすぐるような、深く甘やかな声が聞こえた。
誠之進が掛け軸を背に、三郎の正面に端座していた。
離ればなれの日々、毎夜のごとく夢に見た優しい鳶色の瞳が、今、まっすぐに三郎を捉えて離さない。
「あ…」
三郎は誠之進の眼差しに絡めとられたように、ただ呆然と見つめ返していた。

 幻ではない。誠之進が目の前にいる。

 ふたたび誠之進に会えたら何と言おう…。あれ程思い巡らせていたものが、乾いた喉からは一言も出てこない。代わりに安堵と胸を焦がすような慕わしさが、三郎の身体の奥から泉のごとく湧き上がってくる。

「三郎ぎみ…」
今宵は誠之進も饒舌ではなかった。
三郎を愛し気に見つめる双眸にも、苦悩の跡が見えた。

 三郎はようやく息をつき、掠れた声で言った。
「誠之進…父上がっ」
「はい」
「お許しくださった…」
誠之進が瞳を潤ませながら大きくうなずいた。
三郎の両目に涙が溢れ、視界が曇った。
積もり積もった淋しさが、再び相まみえた喜びに優しく解かされていく。
「我らのことを…父上がっ」
声を詰まらせた三郎を、
「…こちらへ」
誠之進が両腕を広げて呼んだ。

 三郎は畳の上を一歩一歩奥へと歩んだ。
誠之進の前に崩れるように膝をつくと、
「若っ…」
間髪を入れずに誠之進が膝立ちになって抱きとめた。

 懐かしい誠之進の匂い。馴染んだ体の温もり。
三郎は誠之進の胸元に顔を押し付けて、思いきり肌の香りを吸い込んだ。
両腕を広い背中に回せば、息ができぬほどの強さで誠之進が抱き返してきた。
精悍な腕の力強さに、これが夢ではないと知らされる。




 思えば、離れていたのは二ヶ月足らずだった。
それが三郎には永遠の時間に思えた。
延々と繰り返される、誠之進のいない朝、誠之進のいない夜。

 平静を装い堀の決めた日課をこなしながらも、三郎は半ば生きた屍だった。
誠之進に飢えて、渇いて、心も身体も悲鳴を上げていた。

 万一、誠之進が切腹を申し付けられれば、すぐにも後を追うつもりだった。あの時、船を降りて城へ戻ろうと自分が言いさえしなれば、斯様な仕儀には至らなかったのだ。(『波濤』3)

 慶次郎から主膳が倒れたと聞き、三郎は何としてでも誠之進を主膳に会わせねばと思った。蝦夷行きは無理でも、領内を逃げ出す機会はまた巡ってくるかもしれないと。だが城へ戻った時、三郎は考えの甘さを思い知らされた。父の元には内藤帯刀の怪文書が届き、ふたりの出奔未遂と相まって、誠之進は絶体絶命の窮地に追い込まれ…。

 こうしてふたたび会えるとは…。
謹慎を解かれた誠之進が、再びこの離れに帰ってくるとは…。
夢のようでにわかには信じ難かった。

(父上…)

 三郎は今日ほど父に感謝したことはない。
一度は手討ちにしようとした誠之進を、よくぞお許しくださったと一一。


 張り詰めていたものがふつりと切れた。
三郎は誠之進の胸に顔を埋め、耐えかねたように嗚咽を洩らした。
「誠之進…」
震える声で愛しい名を呼べば、誠之進が三郎を柔らかく抱きしめ、前髪にそっと口づけて応えた。そのまま滑り降りてくる唇を、三郎は自ら顔の角度を変えて、己が唇で受け止めた。

 しっとりと重なりあう唇。
桜色に溶け合う吐息。
三郎がおずおずと差し入れた舌を、誠之進がしっかり捕まえて強く吸い上げた。
息苦しくて…されど目眩がするほど幸せで。
三郎の身体が蕩けそうになる。
「三郎ぎみ…っ」
口吸いの合間に、誠之進は深く艶のある声で三郎を呼ぶ。
耳もとで名を囁かれただけで、三郎の躯の奥が熱く潤んだ。

 求める気持ちが堰を切ったように溢れ、三郎は誠之進の背にすがりついた。誠之進も痛いほどに三郎を抱きすくめ、そのまま畳の上に押し倒した。

 誠之進が覆いかぶさってくる。美丈夫の顔に惚れ惚れと見蕩れてしまう。離れている二ヶ月の間に、頬のあたりの肉が少し落ち、それが誠之進の相貌に翳りと艶を与えた。鳶色の熱く潤んだ眸で一心に見つめられ、三郎の胸がきゅんと締め付けられた。

(あ…っ)

 激しい昂りが身体の奥から突き上げてきた。

 早く素肌で触れあいたくて、三郎はもどかしげに自ら袴の紐を解く。誠之進も荒々しく袴を脱ぎ捨て、三郎の袴に手をかけて引く抜くように脱がせた。

 小袖の帯はそのままに、三郎は自ら裾を割って誠之進を誘った。

「誠之進…はよう…」

 命じられるまでもないと、誠之進は三郎の股間に顔を埋めた。三郎の内腿をさらりとした手のひらで撫でさすり、下帯の中から屹立を引き出して口に含んだ。

 誠之進の熱い舌に自身を絡め取られ、三郎は切なげに身悶えた。
指先が畳の上を時折爪をたてながら彷徨った。

 言葉を忘れ、時を忘れ、主従は憑かれたように互いの熱に酔いしれる一一。




「あぁ…う…誠之進…っ」

 誠之進の熱く滾るような楔が、秘肉をかきわけ三郎の中に入ってきた。焦がれて、焦がれて、灰になってしまう程、待ち望んでいた瞬間。ふたたび身体中で誠之進を感じられる喜びが、受け入れる苦しさをはるかに凌駕する。三郎は自ら両足を誠之進の腰に絡めて、夢中で誠之進の動きを追った。

 肉襞を楔で緩やかに抉りながら、誠之進は三郎の耳朶や首筋の柔らかい肌を甘噛みした。項で誠之進の熱い吐息を感じ、三郎も切ない喘ぎを洩らす。

 誠之進の重みと肌の暖かさが、狂うほどに慕わしい。

 もしかしたら、もう二度と会うことも、抱かれることもないのかと、夜具を涙で濡らした幾多の夜。

「誠之進っ…」
たとえ幻でも離すまいと、三郎は両腕を誠之進の首に絡め、膝を締めて腰にすがりついた。
深々と杭を打ち込まれて間断なく揺すぶられ、
「はぁっ…あぅぅ…」
後から後から透明な涙が三郎の頬を伝い落ちる。
「…三郎ぎみっ」
昂った誠之進が三郎の膝裏を持って足を抱え、上から捩り込むように刀身を突き入れた。
三郎は衝撃に耐えながら、求めるように誠之進を呼ぶ。
「あ…ぁ…誠之進っ…」
強く情熱的な力が三郎の下肢を揺さぶった。
重みを加えた激しい抽走に責めたてられ、三郎は夢中で誠之進の肩にすがった。
「若っ!」
「ん…あっ…あぁああぁ一一ッ」
逆巻く快楽の波にさらわれ、三郎は爪をたてて誠之進の肌をかきむしった。
誠之進の熱い飛沫を内奥で感じた瞬間、三郎の目の奥で閃光が弾け、思考が消失した。


***


 行灯の油も尽きた深夜、寝間着姿の誠之進と三郎は、縁側に出てふたりだけの月見をした。すだく虫の音が耳に心地よい。月明かりの下、庭先の萩や薄の影がぼんやりと浮びあがっていた。

 愛しさでお互いを喰らい尽すような交合のあと、三郎はもはや腰に力が入らず、誠之進の胸に背を預けるようにしてもたれていた。誠之進は三郎の重みを心地よく受け止めながら、後ろからくるみ込むように抱きしめる。うっとりとまばたきをする三郎。時折こめかみに口づけながら、誠之進は優しく前髪のあたりを梳いてやった。

 「誠之進…おそろしゅうはなかったのか?」
けだるい充足感に浸りながら、三郎が溜息のように呟いた。
「恐ろしいとは…?」
「そなたに切腹の沙汰が下ったらいかがしようと、私は毎日気が気でなかったぞ…」
誠之進は三郎の耳もとでくすりと笑い、
「白刃の下に飛び込んだお方が、何を言うかと思えば…」
誠之進を手討ちにしようとした殿様を三郎が止めた時のことだ。
「あ、あれは無我夢中で…っ」
「心の臓が止まるかと思いました」

「誠之進…」

「若のお心が嬉しゅうて…あの場で死んでも悔い無しと、私は幸せにござりました」
誠之進は胸の奥から息をつき、三郎のこめかみに頬を寄せた。
「誠之進っ…」
「私の首と引き換えに殿が考え直して下さるなら、若を本田家にやらずにすむのなら…本望にござりました」
「馬鹿もの…」
じわりと滲んだ三郎の涙を、誠之進は指先で優しく拭ってやった。

「なぜ…振り返らなかった?」
「え?」
「私が…あれほどに呼んだのに」

(ああ…目付に連れて行かれた時のことか)

 誠之進は夕闇迫る小書院の庭先を、感慨深く思い出した。身体の前で三郎の手をとり、そっと己が掌に握り込んだ。




 不思議なものだ…。主家を捨て脱藩しようとした自分が、殿様の御前に出れば、やはり見苦しい真似はできなかった。
 あの場は黙って立ち去り、謹慎して沙汰を待つ以外なかった。振り返って三郎の涙を見れば、武士の矜持など吹き飛んでしまう。目付を切り伏せてでも三郎のもとへかけ戻り、殿の面前で抱きしめてしまっただろう。誠之進は背中で三郎の声を聞きながら、断腸の思いで本丸を去った。

 溝口の屋敷に戻った時、父が卒中などとは真っ赤な嘘、自分はおろか慶次郎まで父にたばかられたことを知った。怒りに骨まで震えたが、一夜明ければ、もはや一度捨てた命と思い定め、すべてを腹の中に納めて淡々と時を待った。

 幸い三郎の新しい後見には堀藤十郎が任命された。残された時間、誠之進にできることは、江戸の元留守居役・堀田又左衛門を始め、堀隼人丞や山崎忠実はもちろん中立の重臣たちにも手紙を残し、三郎の行く末を託していくことだった。

 世嗣の惣一郎にも、誠之進は心をこめ慎重に言葉を選んだ手紙をしたためた。

 そして、父・主膳にも。

 謹慎があと何日続くのかわからない。明日にも切腹の命が下るかもしれなかった。誠之進は有力な人物がひとりでも多く三郎の味方になってくれることを祈り、懸命に手紙を書き続けた。

 ところが一月が過ぎても殿様からの沙汰はなかった。

 幸い、外の情報は弟の慶次郎が伝えてくれた。

 三郎は藩校をやめたが、館で学友とともに勉学や武芸に励んでいるらしい。だが慶次郎が西の丸を訪なうたび、三郎は瞳を潤ませて、誠之進が元気でいるのかしきりに尋ねるという。寂しさを堪える姿が目に浮び、側へいって抱きしめてやりたい衝動に駆られた。何度、夜中に屋敷を抜け出してやろうと思ったことか。なれどこれ以上無茶をして、溝口の家に迷惑をかけることはできなかった。

 此度のことで母・咲も色々と思うところはあるだろう。だが咲はひとことも誠之進を責めず、謹慎中の誠之進の心が少しでも和むよう、部屋に花をいけ、日々の暮らしに気を配ってくれる。咲の顔を見るたびに誠之進の心は申し訳なさでいっぱいになった。

 哀れなのは妹の志保だった。

 誠之進と三郎の出奔騒ぎで志保は吉田小兵太を失った。相愛というには淡い結びつきだったが、志保のほうは何年も小兵太を一途に思っていたのだ。あれ以来、妹の志保は誠之進を避け、誠之進の部屋に顔を見せることはなかった。

 父・主膳も処分が決まるまでは会う必要なしと、ほとんど顔を見せなかった。

 弟・慶次郎は城中の情報も少なからず伝えてくれた。堀隼人丞や山崎忠実が誠之進を救うべく殿様を懸命に説得しているらしい。重臣会議でも堀田又左衛門の書状が公開され、中老の榊原が本田家との縁組に反対し始めたという。

 三郎だけは何とか救えそうな兆しに、誠之進はほっと胸をなで下ろしていた。

 慶次郎いわく、未だ楽観は許されないが、父・主膳が致仕を願いでても殿様が慰留したことから、誠之進が赦される可能性は高まったという。いずれにせよ、十九日の参勤行列の江戸出立までには処分が決まるはず。

 自分とて本音を言えば、ふたたび生きて三郎に会いたい。あの西の丸の優しい暮らしに戻れるものなら一一。情けないことに、謹慎が長びくにつれ生への執着が生まれた。

 愛人としての目線だけでなく、九歳の時から三郎を見守ってきた守役としての心残りがあった。三郎元服の折には誠之進自身の手で前髪を落とし、月代を剃ってやるつもりだった。十八歳、二十歳…三郎はこの先どんな青年に成長していくのか? ずっと側で見守っていたかった。自分が側にいる間に、三郎と惣一郎との対面も実現させておきたかった…。

 そして本日午後。とうとう本丸から青木忠左衛門が信輝公の内意を伝えにやってきた。

 一時は死を覚悟したとは言え、誠之進は揺れる思いで使者の青木を迎えた。

 最悪は切腹、場合によっては領内追放もあり得ると考えていた。処分が決まれば…触れることは叶わずとも、願わくは三郎の顔をひとめ見て、言葉を残して旅立ちたいと思ってはいたが一一。

 『誠之進殿。今夕、西の丸に戻られよ』

 青木の第一声に誠之進は我が耳を疑った。
瞠目したまま青木を見つめる誠之進に、
『聞こえませなんだか? 三郎ぎみのもとへお戻りなされ』
『あ、青木様?』
『本日、城で月見の宴がござる。宴が終わる頃、西の丸にて三郎ぎみのお帰りをお待ちするようにと』
『…そ、それは殿の?』
『しかとお伝えしましたぞ』
青木は穏やかに微笑んでうなずくと、宴の仕度があるゆえこれにて御免と、早々に溝口家を後にした。

 正式には形ばかりの減俸に加え、肩書きが『守役』から三郎の『側用人』にかわったが、再び西の丸に住まい、三郎の側近く仕えることを許された。溝口の親族には一切お咎めなし。

 寛大すぎるほどの裁可に、誠之進は呆然と裃姿の青木の背を見送った。




「誠之進…」
己が名をよぶ愛しい声に、誠之進は我に帰った。
「はい…」
三郎を静かに抱きしめ、虫の音に耳をすませているだけで、誠之進は無上の幸福感に包まれた。

 生きて再び三郎をこの手に抱けるとは一一。

 己の運の強さを神仏に感謝する。許してくれた殿様はもちろん、力を貸してくれたであろう堀や山崎に、誠之進は心の中で手を合わせていた。

「誠之進…」
ふたたび三郎が掠れた声で誠之進の名を呼んだ。
「…はい」
ここに、お側におりますと、誠之進は懐深く三郎を抱き込んだ。
「そなたに命ずる…」
「…?」
「もう二度と…ひとりで逝こうとしてはならぬぞ」
「三郎ぎみっ…」
「いかに私を守るためでも、そなたの命…勝手に捨ててはならぬ」
「三郎…ぎみ」
「よいな」

「御意」

「生きるも死ぬも…我らはどこまでも一緒じゃ」

「三郎ぎみっ…」

「違えるな…」

 三郎の呟きが闇にかき消えた。

 誠之進の温もりに包まれ、三郎は安らかな眠りに落ちていった。口元に浮んだ至福の笑みに、誠之進の胸にも暖かいものがひたひたと満ちていく。

 月は冴えた光を放ち、漆黒の高みから寄り添う主従を照らしていた。


待宵 了


「待宵」1「出立」
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