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八月二十二日。 朝から鰯雲が広がる、秋晴れの一日だった。
午後の執務中、仙之丞が右近の部屋に顔を出した。
中屋敷の庭でも咲き始めた小菊を、竹の花器に生けて持ってきたのだ。
清楚な白菊に己の幼名(白菊丸)を思い出し、右近は微苦笑を浮かべた。
違い棚に花器を飾り、
「いかがです?」
仙之丞が肩ごしに右近を振り返った。
「ああ、綺麗だな。かたじけない」
右近は目元を和ませてうなずいた。
仙之丞は照れたような笑みを浮かべ、文机の側まで戻ってきた。
ふと、仙之丞の懐から覗くものに目が止まり、
「それは?」
右近は書きものの手を止めて尋ねた。
「あ、これはしたり。大事な用を忘れるところでした」
仙之丞はぽんと胸をたたき正座すると、懐から書状を取り出した。
「右近様、先程、国許から早飛脚が。送り主は溝口誠之進様とありますが」
「なに…?」
突然のことに右近は動転した。
こぼれんばかりに目を見開き、仙之丞を無言で見つめ返す。
(まことに…誠之進から手紙が?!)
一瞬、虹のような幸福感に包まれたが、今日の日付けを考えると、たちまち不安が胸をよぎった。
信輝公の国許出立は十九日だ。その日までに処分は決まったと考えてよい。赦された後に書いた手紙だとすれば、少々着くのが早すぎる気もした。
(まさか…切腹を前にして書いた手紙ではあるまいな)
息が浅くなり、胸がじわじわと締め付けられた。
右近は筆を手にしたまま動けなくなってしまった。
「右近さま…?」
訝しげな仙之丞の声にようやく我に帰った。
右近は筆を硯に置き、文机の前から離れた。
膝行して仙之丞と向き合う。
右近は動揺を見せまいと口元に笑みを作り、仙之丞の差し出すものを受け取った。
手渡された書状の上書きに、懐かしい友の筆跡を見た。
(な、なれどこれは紛れもない誠之進の文字だ…。誠之進本人が出した手紙なら…!)
高鳴る動悸が喉元まで這い上がってくる。
「仙之丞、御苦労だった」
にこやかに仙之丞を労いながらも、内心ではもう引き取ってくれぬかと思う。
右近は一秒でも早くひとりになりたかった。
仙之丞が物言いたげな瞳で一礼した。
摺り足で去っていく足音を聞き届けたのち、右近は震える手で書状を開いた。
早る気持ちを押え、一字一句見逃すまいと書状に目を落とした。右近は呼吸も忘れたように読み進む。
不沙汰を詫び、右近が息災かを尋ねる言葉に始まり、本田家との縁組み、三郎を連れての出奔、謹慎にいたる此度(こたび)の一件が、誠之進自身の筆で淡々と綴られていた。
『…昨年、不本意な別れ方をして以来、貴公のことを案じながらも手紙を送る勇気がなかった。どうか許してほしい。此度、遠く江戸から貴公が殿に口添えしてくれたこと、某は生涯忘れぬ。おかげで某は切腹を免れ、八月十四日、晴れて西の丸へ戻った』
(誠之進一一!)
まずは誠之進が赦されたことを知り、右近は深い安堵の溜息をついた。
『貴公に再三忠告されながらも、某は藩の利益より三郎ぎみへの忠義を優先させてしまった。出奔という手段に訴えた己の選択に悔いはないが、『ふたりで藩政を動かそう』という遠き日の我らの誓いを思うと、私とて身を切られる思いであった。出奔を決意し船に乗り込むまでも、何度貴公のことが頭をよぎったかしれぬ』
(そんな切羽詰まったときに、私のことを思い出してくれたのか…)
『此度の一件、さぞや貴公を失望させたことだろう。にもかかわらず、いかに三郎ぎみの御為とはいえ、溝口の家も家老の座も捨てて出奔をはかった男を、よくぞ見捨てずにいてくれた」
『愚かな某をまだ友と呼んでくれるのなら、いつの日か必ずや貴公の友誼に報いたいとおもう。国許におられる貴公の母上や孫作のことは任せてほしい。これからも溝口家のほうでお世話させていだたく。貴公も万一江戸で困ったことがあれば必ず知らせてくれ。今度こそ某が貴公の役にたちたいのだ…約束してくれ、右近』
右近はひとり自室にこもり、何度も手紙を読み返していた。とにもかくにも殿様の御勘気が解けたことに安堵する。殿様に宛てた自分の手紙が功を奏したこと、それに対して誠之進から感謝の手紙をもらい、右近は声もたてずに落涙した。
(誠之進が赦され西の丸に戻った。元通り三郎に仕えるという話を手放しでは喜べぬが…。誠之進が赦されたのならば、此度はそれでよしとせねばなるまい)
書状を膝の上に置いたまま、右近は嗚咽が溢れそうになるのを懸命に堪えた。
(正直今でも、『三郎さえいなければ』と思う。なれど物は考えようだ。殿がふたりの仲を許したのなら、もはやこのことは誠之進の弱味にはならない…)
(となれば、心おきなく内藤や奥野を追求できる。内藤が御用部屋に返り咲こうと蠢動する気なら、今度こそ、陰謀の芽を完全に摘んでしまわねばならぬ)
右近は小袖の袂で涙を拭うと、書状をきちんと折り畳み、大切に懐にしまいこんだ。
(本田家と三郎の縁組み、留守居役の人事も絡め、どう決着をつけるかはこれからが正念場だな。此度の一件で養子縁組に懲りた殿が、三郎を早々に分家させると言い出すやもしれぬ…。岩田の奴が斯様な胡散臭い縁組みを持ち込むからいかぬのだ。誰もがこれはとうなずく良縁を持ってくれば、むしろ確実に三郎を厄介払いできたものを…)
(口惜しいが、三郎が分家して領内に残る結末は…もはや覚悟しておこう)
右近は我知らず奥歯を噛みしめていた。
(だが三郎も分家の当主となれば、もはや誠之進と暮らすわけにはいくまい。誠之進が国許にいながら家老職に就かず分家の用人になるなど…万が一、そのような馬鹿げたことを言い出した日には一一)
「今度こそ私が国許へ戻って一発殴ってやる」
右近は思わず声に出して呟いていた。
右近は端座したまま、気を鎮めるべく大きく深呼吸をした。
(このまま順当にいけば誠之進は次の筆頭家老となり、私は遠からず江戸で要職に就くだろう。われら二人で藩を動かす時代は…すぐそこまで来ているのだ。
少年の日の誓い。誠之進も忘れてはおらなんだ。二人が手を携えて高山藩一国をおさめるのだ。惣一郎様の治世の間に、ふたりで我が藩を北国一豊かな藩にしてみせよう…)
遠い目をした右近が、ふと口元に微苦笑を浮かべた。
(なに…初志を貫徹するまでのことだ。
たとえ誠之進が三郎と契っても…私と誠之進の友誼はまた別のもの。
去年はふたり一緒の姿を見るだけでも正気を保てそうになかったが…。
今なら、落ち着いて話せるやもしれぬ。
今なら、ふたたび友として語り合えるやもしれぬ。
そうだ。私が、私さえ恋の未練を断ち切る事ができれば一一。
だが決して誠之進と三郎、『ふたりの仲』を祝福などしてやらぬぞ。たとえ殿様が許しても、私は三郎を誠之進の伴侶とは認めない。此度は堀田様をはじめ、様々な人の力添えで誠之進は難を逃れたが、将来ふたたび三郎が誠之進の足をひっぱるようなことがあれば、その時は一一)
右近の中で三郎への負の感情が鎌首をもたげた。未だに身の裡に巣食う醜い生き物を、右近は意志の力で胸底に封じ込めた。
(ともかく、こうして誠之進から手紙を貰ったのだ。私からも返事を書いてみよう…。
内藤帯刀の件も知らせてやらねばならぬし。
そういえばもう長い事、誠之進と竹刀を交えていないな。ちゃんと稽古はしておるのか? 彦四郎はえらく腕を上げておるぞ。我らもうかうかしていると、すっかり置いていかれてしまうやもしれぬ。
誠之進、いつの日かまた、小兵太や彦四郎と四人で酒を酌み交わしたいな。昔のように道場でおまえと心ゆくまで稽古がしたい…)
そんな日が来るのも夢ではないと。
胸を熱く震わせながら、右近はゆっくりと瞳を閉ざした。
*
誠之進からの書状が届いた二日後、堀田又左衛門が惣一郎と右近に折り入って話があると、使いの若党をよこした。ふたりの在宅を確かめたのち、翌日中屋敷を訪なうこととなった。世継ぎの件に絡めて、惣一郎に上屋敷へ戻れというお説教やもしれぬ。
若党は堀田から右近へあてた結び文も手渡した。『誠之進殿、謹慎を解かれ候。祝着至極なり。以後心配無用』と、短く記されていた。堀田のところへも国許から書状が届いたに違いない。すでに誠之進本人から知らせを聞いていた右近は、心穏やかに堀田の来訪を待つことにした。
堀田来訪の二十五日。
右近は昼前から茶室で来客の準備をしていた。格式ばった茶の湯の席ではないが、心をこめて堀田をもてなしたい気持ちから、右近は茶器や菓子皿を慎重に選んでいた。
ひとり水屋で茶道具を揃えながら、右近は過日の惣一郎との出来事を思い起していた。
あの狂った一夜以来、惣一郎との間に目に見えない溝ができてしまった。惣一郎が仙之丞を閨に呼び込むという無体に及んだ理由…。思い当たるふしがないわけではない。誠之進への『友情』という織物の中に見え隠れする『未練』の糸。それが目障りだと惣一郎は逆上したのだろうか?
一夜明けて残ったのは、正気をなくすほど乱れた自己嫌悪と、純情を弄ばれた仙之丞への憐れみだった。
惣一郎に対しては、さしたる怒りは湧いてこなかった。惣一郎に限らず、あれは世の若殿にありがちな、甘やかされた人間特有の子供っぽい激情…。言うことをきかぬ犬を打ち据えるようなものではないかと思うだけだ。
惣一郎は慕ってくる者には優しい反面、そういう度し難い部分も隠し持っている。
自分は犬かと思うと、何やら乾いた笑いが洩れた。
飼い主に慣らされた身体は、巧みな愛撫に嫌というほど反応してしまう。
抱かれている間は自分も快楽を追っていることは認めよう。
なれど惣一郎と肌を合わせることの意味が、右近にはわからなくなってしまった。
過日のようなことをして一体何になるのかと。私の本質が何ひとつ変わるわけではないのに。
惣一郎には生涯の忠誠を誓ったはずだ。この江戸で、いずれ藩主となる惣一郎を支え、惣一郎の側で生きると。
それ以上、私に何をお求めになるのか…?
つづく
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