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八月二十九日。未の下刻(午後三時)。
結城因幡守信輝の参勤行列は一橋門近くの江戸藩邸に到着した。広大な敷地を有する江戸藩邸といえども、数百人という国許からの随員が一度に到着し、庭は人馬でごった返していた。
江戸家老、留守居役ら幹部をはじめ、主だった江戸詰めの家臣が総出で殿様を出迎えた。
信輝公は乗り物から降りて玄関へ向ったが、長旅の疲れか顔色が冴えない。家臣たちの表情が途端にくもった。
江戸家老の武村がすかさずお側近くへ寄り、
「殿、長の道中お疲れさまでした」
「うむ」
「まずは湯をお使いくださりませ。旅の疲れも少しは癒えましょう。早速用意させまする」
「うむ、たのむ」
信輝公は手短に答えると、小姓に手伝わせて履物を脱ぎ、玄関の間へとあがった。
「殿!」
ちょうどその時、奥の廊下から華やいだ女の声がした。
正室・牧の方が綾姫や侍女を従え、打ち掛けの裾を翻してやってくる。
もう五十前になろうというに、牧の方は相変わらず華のある美貌を誇っていた。肌のはりや艶は若い綾姫にかなわぬが、香りのきつい大輪の花のごとく、周囲を圧する存在感を持つ女性だった。ただし、それを万人が好むとは限らない。
自己主張の強い美しさは、初めから信輝公の好みではなかった。若き日の信輝公の繊細で貴公子然とした姿に一目惚れしたのは牧の方のほうだった。それを兄の田安慶久に頼み込んで、この縁談をまとめてもらった。つまりは御三卿の権威にものを言わせて結城家に輿入れしてきたわけだ。
昔から信輝公は、家格はもちろん妻の人柄にも重圧を感じていた。
だが本田家の一件以来、今は重圧を通り越して、信輝公は牧の方を心底厭わしく思うようになっていた。
居合わせた家臣たちがはっと息を飲むほど、正室・牧の方を見る信輝公の目は冷たかった。奥から出迎えた女性たちに労いの言葉をかけ、綾姫には微笑を浮かべて藩邸の住み心地を尋ねたりしていたが、牧の方には礼儀正しく帰着の口上を述べるだけだ。ほとんど相手の目も見ようとしない。
夫婦一年ぶりの対面というに、あまりのよそよそしさである。それも家臣が居並ぶ前で一一。牧の方はいっぺんに御機嫌ななめになった。眦をつりあげて奥へ戻ると、早速お年寄の藤江相手にさんざん繰り言を並べた。
留守居役の岩田善次郎はそんな一部始終を見守っていた。国許の奥野将監から誠之進が赦されたと書状で知らせをうけ、事態の急変に浮き足立っていた矢先である。行列の到着を不安な思いで待っていたところ、殿様の様子が明らかにおかしい。御正室様に冷たいだけでなく、江戸留守居役の自分をもちらりと一瞥しただけで、ひとことのお言葉もなく、中奥の居室へ引っ込んでしまわれた。
本田家の件で御立腹なのはおおよそ察しがついていたが、温厚な殿様がこれほどはっきりと態度に表すとは…。
不吉な予感にかられ、岩田の胃の腑がしくしくと痛み始めた。
*
信輝公のよそよそしい態度に腹をたて、牧の方は翌日からあてつけのように外出を繰り返した。行き先はこれまで同様、主に芝居や神社参詣だが、奥の一部で妙な噂が流れ始めていた。
*
一方、参勤行列到着の翌日、殿様の内意を受けていた堀田又左衛門が藩邸に戻った。以前の役宅は現職の留守居、岩田が使っているので、堀田は長屋のなかで間口の広い部屋を得て仮住まいとした。
荷車一台に家財道具、残る二台には丹精した菊鉢を積み込んで、堀田は巣鴨の隠宅から藩邸へ引っ越してきた。
「これまで大事に育てた菊鉢じゃ。もうじき見事に咲き誇るというに、置いてこれるわけがなかろう? 地植えのほうはあきらめて染井の植木屋に任せたがな…」
荷車から降ろされた菊鉢はどれも逸品ぞろいだった。黄色や白、紅白の江戸菊である。花が咲いたのちも細長く密集した花びらが様々に変化し、見る人の目を楽しませてくれるものだ。
堀田は早速陽当たりのいい場所を確認し、喜々として鉢を並べた。
何故再び藩邸に戻ったかについて、
「なに、殿から話相手になるよう申し付けられましてな。隠居の身で暇は持て余しておりますゆえ、菊の世話さえできれば構いませぬと、二つ返事で承諾した次第で…」
白髪眉を下げて相好を崩し、堀田は説明した。
奇しくもこの長屋は、昔、誠之進が江戸詰めの頃使っていた部屋だった。
堀田が長屋に入ったさらに数日後、櫻田右近が正式に信輝公の命を受けて藩邸入りした。割り振られた長屋は堀田の隣である。当然のごとく、藩邸内は噂でわき立った。
「これはいよいよ…」
国許で勘定吟味役として辣腕を振るい、世嗣・惣一郎の寵を欲しいままにする右近が、とうとう要職につくべく戻ってきたのか一一。
藩士たちは色めきたった。
右近がどの役目につくのかは未だ明らかにされていない。
思えば、右近が藩邸に詰めていたのは十八から二十歳まで。ここで暮らすのは七年ぶりだ。懐かしい顔もあれば、まったく知らぬ者もいる。とりあえず旧知の藩士に挨拶して回る右近だったが、再会した者は皆一様に思った。
『随分、物腰が柔らかくなられたな…』
冴え冴えとした美貌は相変わらずだったが、伶俐だが人付き合いが下手だった昔とはかなり印象が異なった。右近本人は気付いていなかったが、花のごとき貌(かんばせ)で薄く微笑まれ、「よろしくお導きくださりませ」と頭を下げられれば、古株の藩士たちもほとんど放心したように「こちらこそよろしゅう…」とうなずくばかりであった。
*
「なに! 堀田様に続き、今度は櫻田右近が藩邸に入っただと?!」
執務中、留守居部屋の部下から右近の到着を知らされ、岩田善次郎は色を失った。
もはや間違いない。三郎と本田家との縁組を進めたのが裏目に出たのだ。櫻田右近はきっと自分の後釜だ。隠居するときも、右近を次席にと推挙した堀田だ。そのふたりが雁首そろえて現れたとなれば…。
嫡男・惣一郎は今年三十歳。信輝公自身も時々隠居を仄めかし、代替わりの時期は近いと見た。三郎を厄介払いしたい牧の方の機嫌をとっておけば、近い将来、息子の惣一郎が藩主になった時、損はしないと計算した。気の弱い信輝公のこと、田安様の口聞きの縁談を断れるわけがないと、岩田はたかをくくっていた。ところが信輝公は本田家と三郎の縁組を承知せず、話を持ち込んだ自分を排除しようとしている。岩田の思惑は完全にはずれた。
留守居役の罷免が現実のものとして岩田の身に迫っていた。
「そもそも今頃、なにゆえ堀田様が戻ってくるのだ!」
声を震わせて部下に詰問したところ、
「何でも殿様の話相手になるよう、呼ばれたとのことですが」
「話相手だなどと…しらじらしい」
岩田は小声で吐き捨て、
(一刻も早く内藤様にお会いせねば…)
そそくさと筆を硯に置いた。
部下を下がらせた後、岩田は自分もこっそり役宅へ戻り、裃姿から普通の羽織り袴に着替えて裏口から外出した。
辻駕篭を拾い、岩田は内藤帯刀の滞在する霊巌島の寮へと急いだ。
つづく
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