二十二の巻
「重陽」2




by 戸田采女

 将軍家への江戸出府の挨拶をすませたのち、信輝公は上屋敷へ惣一郎を呼んだ。厳重に人払いさせた庭園の一角で、錦鯉に餌をやりながら、ふたりは親子水入らずのひとときを持った。

 重陽の節句も間近にせまり、庭のいたるところから、色とりどりの菊が馥郁たる香りを放っていた。

 三郎のこと、家督のこと、右近を新しい留守居役にほしいという件。話題は広範囲に及んだ。

 長い時間をかけ、信輝は惣一郎に思うところを忌憚なく話した。父・信輝は世嗣としての惣一郎を信頼し、腹を割って話をしてくれた。嬉しさに胸を熱くする惣一郎だった。

 話をしながら庭をそぞろ歩いたのち、ふたりは東屋に腰を落ち着けた。
「父上、三郎の分家の件、しかと承りました」
「承服してくれるか、惣一郎?」
ほとんど目を潤ませて自分を見つめる父に、惣一郎はうなずいてみせた。
「冬が来る前に、一度三郎を江戸へ呼ぶつもりじゃ。会うてやってくれるか?」
「喜んで」
惣一郎はふたたび力強く首肯した。

 そもそも大名家など、側室の子がごろごろいても不思議ではない。嫡子である自分が目くじらたてる筋合いではないのだ。信輝公がおひろ亡き後、側室を持とうとしなかったため、結城家など子供が少なすぎるくらいだ。今となっては三郎は父の血をひく唯一の男子。

 無論、惣一郎とて世継ぎを残す義務を放棄したわけではなかったが、万一、和子ができなかった場合、自分が早世した場合に備え、同じ父の血をひく三郎をむしろ大切にせねばと思う。

 胸底から安堵の溜息を洩らした父に、惣一郎は控えめに進言した。
「分家となると母上が良い顔をしませんが…。本田家と三郎の縁組は、やはりお断りするが賢明かと存じます」
「惣一郎…」
「私が三郎の父でも同じことを考えたでしょう。…五万石といえども、あのような素行の悪い舅の元へ、大事な三郎をやってはなりませぬぞ」
惣一郎がゆるく口元を綻ばせると、信輝公は両手で惣一郎の手をとって握りしめた。
惣一郎は母や田安の伯父には非難の鉾先を向けず、
「先方の内情、よく調べもせずに動いた岩田に非があります」
「うむ。近日中に罷免を申し渡すつもりじゃ」
「それがよろしいでしょう…」

 母上を斯様な話に巻き込んだ蛆虫め。本来ならば切腹申し付けてやりたいところだ、と惣一郎は胸の中で呟いた。

「後任には櫻田右近を正式に任ずるが、それも承知してくれるのか?」

「はい…」

 もはや避けようがないと、惣一郎も覚悟を決めていた。

 鎌倉で右近に言われたひとことに、惣一郎は心を動かされたのだ。


***


留守居役組合のくだらぬ酒食の集まりや、観劇にも付き合わねばならぬとか。誰が好きこのんで左様な場所へ顔を出したいものですか…。以前の私なら御免蒙ると一蹴したところ…』
『ならば、なにゆえこの人事、引き受ける?』
『…それは、若殿の御為にござります』
『何?』
『江戸家老よりも、ある意味、藩主の懐刀ともいえるこの役目。諸藩の情報を集め、付き合いをこなし、幕閣においても有益な人脈を作らねばなりませぬ。信輝公がつづがなくお城の勤めを果たしてこられたのは、堀田様というすぐれた留守居役がいたからこそ』
『確かに…爺は有能じゃった』
『僭越ながら、この私も堀田様の例に習いたいと存じます』
『…将来身供を支えるために、留守居の役目、引き受けると申すか?』
『御意』
『身供のために…嫌な宴席にも進んで出ようというわけか?』
『左様にござります』
『右近…』
『私はこの江戸で、生涯、若殿にお仕えしようと心に決めております』
『そなた…まことに?』
『ならば一番困難で、一番お役にたてる場所に身を置きたいと存じます』
一点の曇りもない黒耀の瞳が、まっすぐに惣一郎見つめた。

(側近く仕え主君の寵を欲するよりも、懐刀の役目を買って出ようというのか?)

(不器用なほどに高潔なそなたが、この私のために…宴席にも顔を出し、くだらぬ世辞のひとつも言いながら、幕府や諸藩の動向を探ろうと一一)

(これがそなたの誠の示し方か? 私の寵愛への応え方か?)

『お許し…いだたけますか?』

(そういうそなたに惹かれたこと、身供は忘れかけておったの…)

 惣一郎は小さな溜息をつき、
『…承知した』
微苦笑とともにうなずいた。

 柔らかく重なってきた右近の唇は、これまでにない甘さで惣一郎の胸を熱く震わせた。


***


 愛しい右近の唇の感触を思い出しているうちに、父は次の話題へと移っていた。

「ところで、絵のほうはいかがじゃ?」
父の問いかけに、惣一郎ははっと目を見開いた。
さすがに枕絵集のことは内密だが、惣一郎の風景画が版元を通じて世に出ていること、信輝公も知っていた。
「夏の間はさすがに熱さではかどりませなんだが…、涼しくなったらまた励みたく存じます」
父が自分の絵に興味を示してくれるのが、惣一郎には何より嬉しい。
「うむ。やはり余の血はそなたに一番濃く受け継がれているようじゃな」
「父上…」
「そなたの画才、余は嬉しく誇りに思うぞ」
「父上にはとてもかないませぬ」
「何を言うか、とっくに余を凌いでおるわ…」
父がふと遠い目をした。

「惣一郎、そなたは余よりも器が大きい。優れた藩主になれるはずじゃ」
「滅相もござりませぬ」
惣一郎は目を見開き、首を左右に振った。
「先日も世嗣の自覚が足らぬと、爺にこっぴどく説教されたところです」
中屋敷の茶室で交わした会話を思いだし、惣一郎は思わず苦笑した。
「又左が小言を言うてくれるうちは大丈夫じゃ、見捨てられてはおらぬ」
「父上!」
ふたりは顔を見合わせて破顔した。

「されど所詮、藩主など家臣にかつぐ御輿にすぎぬ。その空しさは余も身にしみておる…」
「父上…」
「なれど嫡子として生まれた以上、逃げ出すことは叶わぬのじゃ。…どうせなら、家臣が喜んでかつぐ御輿になりたいものよな」
「父上?」
「余はもう年ゆえ手後れじゃが…そなたはこれからじゃ。よう考えてみよ」
「堀田の爺にも似たようなことをいわれました」
「又座にか」
「はい…なれど、一体私はいかがすれば…」
「さて…右近や誠之進をはじめ、そなたの御輿を担ぐものたちは皆有能じゃ。有能ゆえ、注文も厳しかろう」
「父上…私は?」
惣一郎が懇願するように父の目を見つめると、
「家臣の声を聞くのも大事だが、己が目でも領内を見て回るがよい…。士卒数千人の暮らしを支えているのが本当は誰なのか、己が目でしかと見ておくことだ」
自分自身でも噛みしめるように、信輝公は静かに呟いた。
「父上のお言葉、よう肝に命じておきまする」
「惣一郎…」
「はい…」
「三郎の分家が決まり、右近が留守居役の仕事に慣れた頃、余は隠居したいと思うておる」
「父上…」
予想していた展開ではあるが、いよいよ父の口から直接聞かされ、惣一郎は軽い動揺を覚えた。
「そなたも心づもりをしておいてくれ」
「で、父上は…中屋敷に移られるのでしょうか?」
「余は…高山で隠居したいとおもう」

 やはりそうか…。

 惣一郎は小さな溜息を洩らした。
藩主としての役目をおえた後、父は愛するものの側で暮らしたいのだ。
亡きおひろと、三郎と…。
惣一郎の胸に鈍い痛みが走った。
父が江戸に、自分や母のもとに留まってくれぬ寂しさは否めない。
それでも惣一郎は父の望みをかなえてやりたいとおもう。
愛しいものの側にありたい気持ちは誰よりもよくわかる。
惣一郎は世嗣としての自覚を持ち、後を引き受けようと思った。

 この江戸で、愛する右近が自分を支え、生涯付き従ってくれるのなら…。

『若もこの者の尊敬に値する藩主におなりなされ』

 過日、堀田又左衛門から言われた、厳しくも慈愛に満ちた一言を、惣一郎はしみじみと思い起こした。

 惣一郎は心を決めたように晴れやかな瞳でうなずいた。
「ではいずれ私が国入りしたあかつきには、父上と三郎に…領内を案内してもらいましょう」
「惣一郎…っ」
「父上の御期待に添うよう、この惣一郎、精進いたします…」
「惣一郎、よう言うてくれた」
父・信輝は目を潤ませ、心の底から安堵の溜息を洩らした。

 自分に向けられた、慈しむようでいて頼もしげな父の眼差しが、惣一郎の目にいつまでも焼き付いて残った。


つづく


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背景は「十五夜」さんからお借りしています。


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