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九月七日。早朝から煙のような小雨が降る、肌寒い一日であった。
江戸城北の丸・田安邸内。奥の庭付き書院。
結城因幡守信輝が当主の慶久を訪なった。参勤行列が江戸へ到着して一週間。まずは義弟が江戸出府の挨拶にきたか、と慶久が呑気に構えて迎えれば、信輝は緊迫した面持ちで慶久に相対した。
「…はて。儂の聞き間違いか? 因幡守殿、もう一度言うてみられよ?」
「恐れながら…わが三男・三郎を本田家へ養子にというお話、なかったことにしていただきとう存じます」
「ほう…それはまた。三河以来の名家、駿河横川藩五万石の跡継ぎとして望まれておるのだぞ。町人の娘を母に持つ三郎にはすぎた話と思うたが…」
「まことに義兄上のおっしゃる通りにござります」
「ならば何ゆえ断る?」
「御立派すぎて三郎には荷が重うござります」
「…ふむ。そう出るか」
座敷に重苦しい沈黙が流れた。庭土を叩く細かな雨音に混じり、遠くで獅子脅しが鳴った。
信輝は頭を垂れたまま微動だにしなかった。身分、胆力で己を上回る義兄・慶久に対し、常に一歩引いて接してきた信輝である。されど此度だけは折れるわけにはいかぬと、信輝の全身から戦意にも似た覚悟が漂っていた。
「三郎は…九歳まで町家で育った、いわば野育ちにござります。とても由緒ある本田家の当主など勤まりませぬ」
「ご謙遜だな。守役をはじめ、藩内の識者たちの薫陶を受けて育ったのであろう? 凛々しく聡明な少年と噂には聞いておったがの」
慶久の皮肉にも負けず、信輝は左右に小さく首を振った。
「藩主の息子ゆえ、とかく周りが持ち上げるだけにござります」
とことん下手に出ながら意志を貫こうとする信輝に、慶久は苛立ちを覚えた。
「因幡守殿の言い分はわかったが…。間に入り仲介の労をとった儂の立場がのう…」
「それはもう、伏してお詫びするより他ありませぬ」
慶久は大きな目に睨みをきかせ、
「そなたら儂の顔を潰す気か…?」
腹の底から低く呟いた。
ただでさえ強張った信輝の頬が、紙のように白くなった。
「…御立腹はごもっとなところなれど…どうかこの信輝に免じて御容赦くださりませ」
言い終わるや、信輝は慶久の前に身を投げ出すがごとく平伏した。
(蛇に睨まれた蛙のようじゃが…、この蛙、此度はなかなかにしぶとい…)
慶久は軽く鼻を鳴らし、
「儂はともかく本田家にはいかが説明する? この縁組、もとはと言えばそなたの江戸留守居役の岩田が、横河藩の留守居役、吉川にもちかけた話と聞いておるぞ?」
信輝はふたたび面をあげ、慶久の前に居住まいを正した。
「そもそも藩主である私に一言の相談もなく、先方に話を持ちかけた岩田の勇み足。三郎については養子か分家か、私にも色々と思案がありもうした」
「なるほど。岩田が勝手な判断で動いたと?」
「仰せの通りにござります」
しらじらしいことを言う、と慶久は片眉をあげた。
(当初は国許の重臣たちも乗り気であったくせに…。もっとも表向きは、本田忠直の若衆狂いを理由に断るわけにはいかぬからな一一。これをまともに言い立てては双方に傷がつく。本田家側もその辺りを察し、案外素直に引き下がるやもしれぬ)
「…岩田ひとりに詰め腹を切らせる気か?」
(正確に言えば、岩田と横河藩の吉川のふたりだな…)
「…必要とあらば、それもいた仕方ありませぬ」
血の気のひいた顔で、信輝は声を震わせて言い切った。
「そうまでして…妾腹の三郎を手許におきたいか」
「あれは田舎者にて、国許でのうては暮らせませぬ」
「苦しい言い訳に聞こえるが…」
「言い訳などとは…」
「…心底いとしんだ女の子供は、やはり格別というわけか」
慶久は信輝に向い静かに圧力をかけた。
もはや答えぬ信輝に、
「牧も哀れなおなごじゃの…」
慶久は唇の端で冷たく笑い、小さく鼻を鳴らした。
*
因幡守信輝の田安邸訪問の翌日、慶久は内藤帯刀を根岸の料亭「大文字屋」に呼び出した。帯刀も江戸へ出てきた中老の奥野将監から、誠之進が謹慎を解かれた話はすでに聞いている。早晩何か動きはあると覚悟していたが、慶久の口をついて出る話は帯刀の予想をはるかに上回る厳しいものだった。
敷地内の最も奥まった場所、秋明菊に囲まれた数寄屋作りの離れで、ふたりは簡単な酒肴を用意させ、ゆっくりと杯を傾けていた。店の者の命じて周囲は厳重に人払いしてあった。
「因幡守(信輝)は本気だ。気弱な男と思うて侮っていたが…、以外に根性をみせおったわ」
「殿が…御前にそこまで申されましたか」
帯刀は慶久の杯を満たしながら、内心唇をかんでいた。
「…相当腹をくくっておるようだ。あの様子ではもはやうんとは言うまい」
「御前…っ」
「忠直殿の性癖が国許の重臣にばれたのが痛かったな…」
(堀田のじじいと堀隼人丞の若僧が、余計なことをしくさって…)
帯刀は苦虫を噛み潰したような顔で杯をあおった。
「守役と三郎の仲を暴き立てたことも、結局は裏目に出たか…」
奥歯を噛みしめる帯刀に、慶久が追い討ちをかけた。
「守役の溝口誠之進とやら。斯様な醜聞でも潰れぬとは、よほど悪運が強いか、人望があると見えるな…」
「若君を手ごめにしておいて、人望とは笑止でござる。御前もお人の悪い…」
「まあそう悔しがるな、帯刀」
慶久は目を細めて薄く笑い、杯を差し出した。
ここへ来て、帯刀の思惑はことごとく外れていた。
誠之進が三郎を連れて出奔をはかったとき、若僧めがついに罠にかかったかとほくそ笑んだ。その場でのお手討ちは免れたものの、もはや誠之進の命運は尽きたと思った。契ったといえば聞こえはいいが、お仕えする若君を閨で組み強いたことに違いはない。三郎を溺愛する殿の耳に入れば、ただではすまされぬと考えていた。
後日、誠之進には切腹の沙汰が下るだろうと、国許からの朗報を待っていたが、待てど暮らせど事態は進展しない。しびれを切らせていたところ、あろうことか殿様が江戸出府直前に誠之進を赦し、今まで通り三郎の側近を勤めさせると聞き、帯刀は仰天した。
殿様がふたりの仲を認めてしまえば、これ以上、三郎と誠之進の関係を言い立てても何の益もない。
帯刀の満たした杯を慶久はゆっくりと干した。
「忠直殿もお年ゆえ、舅の伽といってもどうせ一、二年のこと。駿河横河藩五万石が手に入るなら、三郎にとっても悪い話ではないと思うた。牧にしても、斯様なことで鬱憤が晴れるならと…合力してやったが。儂もそうそう暇ではないのだ。養子縁組の仲介なぞ邪魔くそうなった。もはや三郎のことなどどうでもよいわ」
「御前…」
「なれど、あれだけ焚き付けた忠直殿に、手ぶらで帰れとは言えぬぞ」
「そ、それは…」
「結城家のほうから持ちかけておいて、藩主がうんと言わぬので破談じゃなどと…、間に入った儂の立場はどうなる?」
「ごもっともに…ござります」
「そのほうら‥責任をとれ」
「はっ…」
腹を切れと言われたも同然だ。
帯刀は背中に脂汗が滲むのを感じた。
「岩田には腹を切らせろ」
「はっ」
「帯刀…そなたは…」
帯刀の喉がごくりとなった。
慶久の目がずるそうな光りを帯びた。
「ほれ…あの者、三郎によう似た少年」
「彩之介にござりますか?」
「うむ。あの者をかわりに忠直殿に差し出せ」
「御前?!」
「…できぬと申すか?」
「い、いえ…御前の仰せとあらば否も応もござりませぬ」
「当然じゃな。正式の世継ぎがほしい重臣どもは不服であろうが、忠直殿の御機嫌はそれで直るじゃろう。儂の顔もすこしは立つというものじゃ」
「御意…」
「ま、いずれにせよ忠直殿亡きあと、あの家が潰れようが、儂にとっては痛くもかゆくもない」
将軍家の身内である御三卿にとっては、名家とはいえ地方の小大名など虫けら扱いというわけか。
ひたすら平伏する帯刀を前に、
「そなたと岩田の巻き起こした嵐も乗り越え、溝口親子と因幡守(信輝)の絆は今や磐石か…。そなたの御用部屋復帰…増々難しゅうなったな」
淡々と言い捨て、慶久は一足先に大文字屋を後にした。
ひとり離れに残った帯刀は、血走った眼で虚空を見つめた。
「おのれ…誠之進っ」
渾身の力で握りしめた白扇が、音をたてて折れた。
***
本田家と三郎の養子縁組は正式に破談となり、留守居役の岩田善次郎は『殿様のご勘気をこうむり』お役御免となった。藩邸を追われた岩田は霊巌島の寮に内藤帯刀を頼ったが、帯刀は中老・奥野将監と、ふたりがかりで岩田に切腹を迫った。
二階の座敷に通された岩田は、不安な面持ちでふたりを見つめていたが、やがて両名の沈黙の意味を悟った。
「なんと…私ひとりに詰め腹を切らせようという算段か」
色を失い、唇を噛みしめる岩田を前に、
「田安の御前の命じゃ。殿も御承知だそうな…もはや逃げ道はない」
帯刀は眉ひとつ動かさず、傲然と言い放った。
「と、殿が…」
岩田はがっくりと畳に手をついた。
「あきらめろ、岩田。奥野殿…」
帯刀は肩越しに奥野を振り返り、目顔で促した。
奥野は用意の脇差を手にとり、岩田の前に進みで出た。
「これを…使え」
唇を震わせながら見上げる岩田にむかい
「おぬしのためにな…よう研いでおいた」
帯刀は片頬を歪めて笑った。
言い終わるや、帯刀はすっくと立ち上がり、
「安堵せい…介錯は儂がしてやる…」
刀掛けに歩み寄ると大刀を掴み、黒塗りの鞘を払った。
行灯の火影に相模の名刀が青白い光を放った。
刀身を凝と見つめ、恐怖におののいていた岩田が、
「お…お待ちくださりませっ…」
わずかに後ずさりしながら、絞り出すような声を出した。
側に端座した奥野が、
「おぬしも武士のはしくれであろう? 往生際が悪いぞ」
ひと事のように言い捨てた。
岩田はなおも食い下がり、
「お、お慈悲でござります。…家族のものへ…辞世を残させていただきたい」
「なに…」
帯刀が抜き身を手に部屋の中程に立ったまま、片眉を上げた。
「お願いにござりますっ…」
内藤帯刀にも一片の後ろめたさがあったのか。
岩田自身も己の出世のためにこの企てに乗ったとはいえ、帯刀が散々岩田を利用した挙句、切り捨てる事実には相違ない。
帯刀は奥野将監と顔を見合わせ、一旦抜き身を鞘に納め、渋々同意した。
矢立てと短冊を用意してやり、岩田の望みどおり、辞世の句をしたためる間、席を外してやったのだが。
帯刀と奥野が部屋の外へ出てほどなく、突然、大きな水音が響いた。
「なにっ…」
障子戸を開け、座敷に踏み込むと、闇夜に向って窓が開け放たれていた。
身にしみるような秋の夜風が座敷に吹き込んできた。
一瞬呆然となった帯刀と奥野だったが、
奥野が窓辺に駆け寄り、眼下の川を覗き込んだ。
「まさか、川へ飛び込んだか!?」
帯刀は舌打ちすると廊下に飛び出し、
「玄海! 早う追え、川へ逃げられた!」
と下へ向って怒鳴り声を上げた。
帯刀自身も床を踏みならして階段を駆け降り、表へ飛び出したが一一。
帯刀たちの滞在する天満屋の寮は亀島川沿いにあった。黒々とした夜の川に身を投げた岩田は、ほんの数分の間に忽然と姿を消していた。
よほど水練が達者で易々と対岸に泳ぎついたか、はたまた溺れて今頃下流に向って流されているのか? 対岸には八丁堀の町御組屋敷が並んでいる。下手に駆け込まれて騒ぎが大きくなってもまずい。
今宵は新月であたりは深い闇に閉ざされていた。帯刀は歯噛みしながら、岸の柳が夜風に流れる音を聞いていた。
「父上…何事にござります?」
騒ぎを聞き付け、手燭片手に奥から弥一郎と彩之介が出てきた。
不安げに瞳を揺らすふたりを前に、帯刀はこれ以上岩田を追う気力が萎えた。
「内藤殿…」
背後で奥野の鈍い溜息が聞こえた。
「闇に消えたものなら…もはや捨ておくがよかろう」
「…承知」
帯刀は奥野は目を合わせ、苦々しく呟いた。
***
誠之進の謹慎がとけ、高山城・西の丸に幸せな日々が戻ってきた。三郎と誠之進を中心に、お福に源蔵、家来や使用人が和気あいあいと家族のように暮らしている。そろそろ冬支度にかからねばと、お福はさとを従えて、茸の塩漬けやたくあん作りに忙しい。変わったことといえば、馬廻り頭の吉田小兵太が姿を消し、そのかわり、中老の堀隼人丞が妻・妙とともに、足繁く遊びにくるようになった。
誠之進は妹・志保のこともあり、早急に小兵太を高山へ呼び戻そうと考えていた。とはいえ、今頃どこを旅しているのか皆目見当がつかない。さしあたっては江戸の滝川彦四郎に手紙を送り、小兵太が連絡してきたり江戸に現れたなら、すぐに知らせてくれるよう頼んでおくことにした。
筆頭家老の溝口主膳は誠之進の出奔以来、一貫して沈黙を守り、一切息子の肩を持たなかったが、殿様が赦した以上、徐々にではあるが溝口親子の間も雪解けムードである。
信輝公からふたりの仲を許され、この時、誠之進と三郎は幸せの絶頂にあったかもしれない。
誠之進の罷免をきっかけに藩校はやめた三郎だが、西の丸に学者を招いての講議は続き、学友たちも入れ代わり立ち代わり訪れた。剣は近習の倫太郎とともに、城の大手門近くに居を構える直心影流『酒井十太夫道場』へ通って指南をうけている。
誠之進の眼差しに見守られながら、学友たちとともに勉学や武芸にいそしむ日々が、三郎にふたたび戻ってきたのだ。
誠之進と三郎は暇を見つけては馬で領内を巡った。いずれ分家されたとき、どの領地を与えられるのかはわからないが、民の暮らしを見ておくのはきっと三郎のためになろう、と誠之進は考えた。気さくに領民に話しかけるふたりの姿はあちこちで見かけられ、どこから見ても似合いの一対に、大根を抱えた百姓娘たちも溜息をもらした。 (この話、番外で読めます)
高山領内の今年の作柄は良好で、島崎屋や中村屋の船は頸城米を船に満載して大坂へ売りにいった。『半知お借上』も今年で終わり、年末の禄米は元通り支給される運びとなっている。
実りの秋を迎え、高山領内は明るい活気に満ちていた。
その一方で、菊の香かおる江戸藩邸には暗雲がたちこめていた。
岩田の罷免と前後して、堀田又座衛門が留守居役に返り咲き、櫻田右近が格の上では『添役』、職掌から言うと『御城使』を拝命した。ただ実質的な後継者は右近であり、堀田は万事引き継ぎが済むまでの一時的な後見にすぎないことを、藩邸の誰もが心得ていた。
添役を拝命してまもなく、堀田に連れられた右近は裃姿の正装で『奥』へ挨拶に出向いた。右近に対する惣一郎の寵愛ぶりは、もはや奥で知らぬものはいない。牧の方は何もかも承知しつつ、ひとまずにこやかな笑みを浮かべ、『以後忠勤に励むように』と右近に言葉をかけた。
一方、綾姫は終始薄く微笑んではいたが、会話らしい会話もせず、雛人形のごとく姑の隣に座していた。右近も綾姫の前に首を垂れ、丁寧に挨拶の口上をのべたものの、あえてまともに目を合わすことを避けた。
だが右近と堀田が奥から引き上げたのち、ふたりを見送るがごとく、お鈴口近くの廊下で侍女とともに佇む綾姫の姿があった。
「聞きしに勝る美しさじゃの…」
誰にともなく、綾姫は抑揚のない声で呟いた。
「姫様…」
「なるほど天女のごとき美貌とはよく言ったもの。惣一郎様はあのような美形がお好みであったのか…」
「姫様…」
「妾なぞ、あの者にくらべればとんでもない醜女…殿のお渡りがないのも当然じゃな…」
「何を気弱なことを! 姫様、右近殿は所詮は男。子をなすことはできませぬ!」
「和子か…」
綾姫は低く呟き、右近たちが消えていった中奥への木戸を、長い間まばたきもせずに見つめていた。
江戸藩邸は奥や表、様々な人間の思惑が交錯し、嫉妬と陰謀が渦巻く伏魔殿のごとき様相を呈しはじめていた。
世嗣・惣一郎の揺るぎない寵愛を受け、堀田又座衛門という藩の重鎮に支えられながら、右近がその渦中をいかに泳ぎきるのか。
藩邸内の注目を一身に浴びながら、留守居役添役・櫻田右近の波乱に満ちた舞台の幕があいた。
重陽 了
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