二十三の巻
「薄雲」1




by 戸田采女

 芝神明のだらだら祭りも終盤にさしかかり、江戸の町にも晩秋の気配が色濃く漂ってきた。赤く色付いた柿のこずえは葉を落とし始め、袷一枚では朝晩が薄ら寒く感じる季節となった。

 明日で神明の生姜市も終わる、九月二十日の午後。今にも時雨れてきそうな空の下、芝居町近くの茶屋で、ひと組の男女が密会していた。

 座敷は二階の蘭の間。窓の障子はぴったりと閉ざされている。膳部はほとんど手付かずのまま残っており、客の姿はない。

 だが幸い菱の屏風の向こうに、男女が絡み合う気配があった。
耳をすませば、熟れ切った女の息づかいが聞こえてくる。
男が強靱な律動を刻む音とが切なげな喘ぎが重なりあう。
畳の上を滑る白足袋の足先が、時折屏風の陰からのぞいた。

 隣のふとん部屋に潜んだ市松は、隠し孔に目を押し付け、息を殺して室内を凝視していた。

 次第に男の息も高まり、獣の動きに室内の空気が猥らに揺れた。
息も絶え絶えな女に、男が低い声音で何やら狂おしげに囁きかけた。
喘ぎ声と足先の乱れが激しくなっていく。

 男の動きが極限に達し、押し殺した呻き声を放つ。

 「帯刀っ…」

 かすれた女の悲鳴とともに全ての動きが止まった。




 「え、えれえものを見ちまったなあ…」

 市松は手拭いで汗を拭き拭き、ふとん部屋から這い出した。大きく息をつきながら、忍び足で廊下に出ると、下女のおしのが階段の脇で手招きしている。早く下へ降りろということか。

 市松は足音を忍ばせながら廊下を行き、促されるまま、抜き足差し足で階段を降りる。
おしのが後ろから顔を寄せて、市松の耳もとに鋭く囁いた。
「女将さん、ちょっとそこまで出かけたからさ、今のうちに早くいっとくれ」
「すまねえな、助かったぜ」
市松も小声で礼を言い、素早く勝手口へ向う。
商売道具を背負うと何食わぬ顔で木戸から出ていった。




 雪駄直しの市松。二十歳のお気楽なひとりものだ。日本橋の裏長屋に暮らす。

 実は市松、日本橋の御用聞き・銀次の手先でもある。この夏、滝川道場の仲介で高山藩士、櫻田右近に引き合わされ、探索に力を貸してほしいと乞われた。気前のいい駄賃も魅力的だったが、市松はそれよりも右近の美貌に圧倒され、ひとつ返事で仕事を引き受けた。市松は衆道の気などこれっぽちもなかったが、右近の磨き抜かれた硬質な美しさに、一目で虜になってしまった。

 決して触れたいとか、組み強いてどうこうしたいわけではない。

 崇拝する右近のために働く。

 虫けらのような自分が少しでも『弁天様』の役にたてるならと、市松は喜々として探索に励んだ。

 霊巌島にある両替商・天満屋の寮を見張り、そこに滞在する右近の政敵、罷免になった元次席家老・内藤帯刀の動向を洩らさず調べあげた。この数カ月で、市松は内藤の出入りする先は全て確認し、定期的にある『お女中』と芝居見物、その後、芝居茶屋で逢瀬を重ねていることも突きとめた。今日、市松は『お女中』の正体を確かめるべく、いよいよ茶屋に潜入を果たしたのであった。

 愛想がよく人好きのする市松にとって、下女をてなづけるくらい雑作もない。今や江戸藩邸で留守居役・添役となった右近からも、たっぷりと軍資金は渡されている。女中の手に五匁銀貨を二、三枚握らせ、ほんの少しだけでいいから部屋を覗かせてくれと頼んだ。

 案内された布団部屋は、帯刀がここへ来る度に利用する『蘭の間』の隣。

 男女が屏風の向こうに消えるまで、市松は隠し孔からしっかりと相手の顔を拝んでいた。




 芝居茶屋を出た足で、市松は高山藩邸のある一橋御門方面へと向った。右近が留守居役添役を拝命し小川町の上屋敷に移って以来、ふたりがつなぎをつける場所は浅草の滝川道場から神田小柳町の稲荷へとかわった。

 だが新しい役目について以来、右近は多忙を極め、市松が『弁天様』の顔を拝める機会もめっきり減っていた。藩邸に右近を訪ねていった所ですぐに会えるわけもない。馴染みの門番に結び文を渡したのち、一刻以上も稲荷で待つことも珍しくない。あげくの果てに代理と称する若党が現れるときもある。

 しかし今日は遂に『お女中』の正体らしきものを突きとめたのだ。ぜひとも直に報告したい市松は、右近が本人が現れることを祈りつつ辛抱強く待っていた。

 時の鐘が七つを打った。

 西の空が茜色に染まり始め、さきほどまで境内で遊んでいた子らも、迎えにきた親に連れられ家路についていく。

 さらにそれから四半刻余り、物悲しい秋の夕暮れに人恋しさも募る頃、ようやく一丁の駕篭が現れた。

 主人を待つ犬のごとく、市松の眸が期待に輝く。

 駕篭から降り立った人影は裃姿の右近だった。おそらくは日本橋の料亭で留守居組合の寄合があるのだろう。早足に境内に入ってきた右近はすぐに市松の姿をみとめた。市松が軽く頭を下げると、右近は裏手に回るよう目顔で合図した。

 右近と向き合った市松は挨拶もそこそこに、
「右近さま、例の『お女中』の正体、わかりやしたぜ」
開口一番、得意げに告げた。
「なにっ…」
右近は思わず辺りを見回し、
「して、いかなる女であったか?」
押さえた声音で問うた。
「化粧のうまい、目鼻立ちのはっきりした美人でござりやすが、あれはどう見ても大年増」
「ふむ」
「料理にはほとんど手をつけず、ふたりは早々に屏風の向こうでしっぽりと…」
ついにやついてしまう市松に、右近は軽く咳払いをして先を促した。
「奴さん、女のことを『お方様』と呼んでおりやした…」
「それはっ…」
余程驚いたのか、右近の頬が強張った。
「相手のほうも奴さんのことを『帯刀』と呼び捨てに」
「…まさか、そのようなことが」
呻くように呟いたきり、右近は眉を寄せて押し黙った。

 元家老の帯刀が『お方様』と呼ぶ相手など、この世に何人もいるわけがない。町人の市松でも相手の正体はおおよそ見当がついた。本来なら御殿の奥深くに暮らし、軽々しく街へなぞ出てこれるはずのない身分の…。

 とんでもない醜聞である。

 市松は右近が絶句するのも無理はないと思った。

「市松…」
長い沈黙の後、右近の桜色の唇が動き、市松の名を呼んだ。
「よう突きとめたな」
「は、はい」
「御苦労であった…」
苦渋の表情を浮かべながらも、右近の市松を労う声は優しかった。
右近は袂から懐紙の包みを取り出し、市松の懐へそっと押し込んだ。
「これでうまいものでも食べろ」
薄く笑みを浮かべ、右近はちいさくうなずいた。

 それだけのことに市松は胸が震え、柄にもなく瞳を潤ませて右近を見上げた。
右近は微苦笑を浮かべたが、ふと真顔に戻って言った。
「市松…おまえの動き、あちらに悟られてはいまいな?」
「へ、へえ…それはでえじょうぶだと思いますが…」
市松としてはそれしか言い様がない。
「以前にも申したが、あちらには忍びがついている。あの為吉とか名乗っておる男だ」
「へえ、承知しておりやす…」
「決して無理はするな。当分、探索は控えて大人しくしておれ」
「わ、わっちのことなら心配いりやせん!」
市松は頭を振って言いつのった。
探索を休めば、こうして右近に報告にあがることもできない。
しかし右近はいつになく厳しい口調で諭した。
「市松。忍びの玄海もだが、内藤帯刀を侮ってはならぬ。あの男、己の邪魔をする者は平気で殺める男ぞ」
「わっちだっていざとなれば、匕首くらい使えまさあ」
市松は勇ましく胸をたたいたが、
「馬鹿もの。相手は二本差しじゃ。それもかなりの遣い手。向こうがその気になれば、おまえなぞひとたまりもないぞ」
「そ、そんな風に言わなくても…」
「わかったな」
右近は玉砂利を踏んで一歩踏み出すと、両手を市松の肩に置き、目の奥を覗き込んだ。
「もう知りたいことは十分わかった」
「う、右近さまっ?!」
まさか、これでお払い箱というのでは一一。
すがるように見つめる市松に、
「しばらくは霊巌島の寮を遠目に見張っておれ。何か変わったことがあったら知らせてくれ」
「…が、がってん」
まだ仕事はあるとわかり、市松は深く安堵の息をついた。
内藤帯刀の身辺を探ることだけが右近と自分を繋ぐ縁なのだ。市松はその細い細い糸に必死にしがみついていた。
右近は薄く微笑むと、
「無理に忍び込もうとしてはならぬぞ。よいな」

 吸い込まれるような深い瞳の色に魅了され、市松はこくこくとうなずくばかりだった。


つづく


「重陽」3「薄雲」2
青嵐・目次 | 書庫目次


背景は「十五夜」さんからお借りしています。


Copyright © 2005 戸田采女
All rights reserved.