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「三郎ぎみ! 江戸表より三郎ぎみにお早が届きましたぞ!」
十月七日。越後高山城・西の丸。
北国の秋も深まり、手焙りの恋しい季節になった。
学友の筧松之助とともに藩主三男・三郎信尭は舞の稽古中だった。稽古の邪魔をするのは師匠に申し訳なかったが、待ちに待った江戸表よりの文。後見の溝口誠之進は書状を懐に納め、興奮した様子で参上した。
誠之進が姿を表すと、三郎は扇を持ったまま動きをとめ、師匠に一礼して稽古を中断した。広縁に端座した誠之進のもとへ歩みよってくる。
「父上からか!」
「いえ、留守居役の堀田様にござります」
「何じゃ、父上ではないのか?」
いかにもがっかりした三郎の声音に、誠之進が破顔して言った。
「ともかく早うお読みくだされ。江戸行きの儀に違いありませぬ」
誠之進の声も浮き立っている。
三郎は素直にうなずき、誠之進の差し出す書状を広げ、文字を目で追い始めた。
「で、堀田様は何と?」
目顔で問う誠之進に、三郎は黙って書状を渡した。
誠之進はいぶかりながらも、書状を押し頂き自ら目を通す。
堀田の手紙には、かねてから殿がお話ししていたように、十月中に、それもできるだけ早急に誠之進殿と江戸へお越しくださりませ、とあった。手短な、きわめて事務的な文面である。
三郎と誠之進が参勤行列を見送り、信越国境手前の関川宿で別れた時、殿様は「江戸に着いたらすぐにも出府の日取りを知らせる」と仰っていた。世嗣・惣一郎との対面が出府の主な目的だ。早晩江戸から手紙がくると予想していたが、御自身で文を書かれていないことが誠之進の胸にひっかかった。三郎も獏とした不安を感じているのやもしれぬ。
だがこの場であれこれ詮索しても始まらぬ。誠之進はつとめて明るく言った。
「三郎ぎみ、ようござりましたな! これはもう明日、あさってにも出立できるよう、急ぎ仕度をせねばなりませぬ!」
「うむ…」
三郎は江戸へ行けるのが嬉しいものの、何か手放しで喜べぬものを感じている。黒目がちな瞳は複雑な色をたたえていた。
「三郎ぎみ、ようやく兄上様にもお目にかかれるですね。祝着至極にござります!」
利発な松之助は場の空気を読みながらも、三郎を元気づけるがごとく声を上げた。
「ありがとう…松之助」
三郎は唇の端をわずかに綻ばせ、松之助に向ってうなずいた。
「では早速、お福と源蔵に命じて旅の仕度を。供回りの人選もせねばなりませぬし…これからちょっと一走り、溝口の屋敷に戻って父に知らせて参ります!」
「うむ。そうするがよい、誠之進」
三郎は僅かに憂いを含んだ眼差しで、誠之進に向って静かに首肯した。
*
西の丸から城門を出て、堀沿いの銀杏並木を誠之進は足早に溝口家の屋敷に向った。
何やら胸騒ぎがしてならぬのだ。
途中から誠之進はほとんど駆け出さんばかりに歩を速めた。
「誠之進様!」
すると前方から、溝口家の若い下男が息を切らして走ってくるではないか?
「良太!」
「誠之進様、今、お迎えにあがるところでした」
「いかがしたのじゃ?」
「御家老様から、すぐにも誠之進様を屋敷へおつれするようにと」
「もしや…江戸表より父上に早飛脚が?」
震える誠之進の問いに、良太は無情にもうなずいた。
*
良太とともに屋敷に駆け戻った誠之進は、母への挨拶もそこそこに、筆頭家老の父・主膳の待つ書院に向った。
「父上!」
「おお誠之進…早かったな」
「途中で良太と出会いました。私も父上をお訪ねするつもりでしたゆえ」
主膳はわずかに眉を寄せ、
「西の丸にも書状が届いたか?」
「はい…江戸の堀田様から」
うなずく誠之進に、主膳が一通の書状を差し出した。
「こちらも又左殿の筆によるものだ。其許も目をとおせ…」
誠之進は瞳を揺らしながら書状を押し頂き、折りたたまれたものを広げて読み始めた。
江戸留守居役・堀田又左衛門からの手紙は、殿様が倒れたことに始まり、病状を克明に記したものだった。読み進みながら誠之進は息苦しさに喘いだ。
(三郎ぎみっ!)
何たることだ。
ようやく世嗣・惣一郎との対面を果たすべく、江戸へ呼ばれるはずだったものを一一。
誠之進はもはや先を読み進むことができず、愕然として書状を側に置いた。
「殿がお倒れになったのが九月末日。今は小康状態とのことだが…。医師の見立てでは心の臓の病とか。次に大きな発作があれば、お命が危ういやもしれぬ。誠之進、もはや何があっても驚いてはならぬぞ」
「ち、父上!」
誠之進はがっくりと畳に両手をつき、懸命に身体の震えを堪えようとした。
敬愛する殿様を失うことへの恐怖もある。
だが、何よりも、信輝公亡き後の三郎のことを思うと…。
誠之進は足下の大地が崩れるような不安に揺れた。
母を失い、祖父を失い…そして元服を待たずして父君までも?!
何ゆえ天は、次々と三郎から愛する肉親を奪おうとする?!
三郎がいったい何をした…。
誠之進は行き場のない口惜しさ、やるせなさに唇を震わせた。
「父上っ…」
すがるように父を見上げれば、
「馬鹿者、其許がうろたえてどうする!」
「父上、なれどっ…殿にもしもの事があれば、三郎ぎみは…っ」
「誠之進、書状は最後まで読んだのか…?」
諭すような父の声に、誠之進はかすむ目で書状をふたたび取り上げた。
堀田は手紙の最後にこう結んでいた。
『なお、本田家と三郎ぎみの養子縁組は正式に破談と相成り候。三郎ぎみ分家の儀もしかとご遺言状にしたためられ候。誠之進殿におかれては心配無用。万が一の時には我らも何としてでも殿の御遺言を守る所存ゆえ、この上は三郎ぎみを連れ、一日も早く江戸へ出府されたし』
「殿っ…」
誠之進は書状を手にしたまま、絞り出すように呻いた。
殿はもしや…お身体の不調を感じながらも、このために江戸へゆかれたのではないか?
病と幕府に届け出れば、江戸出府の日取りを変えることもできただろうに。
殿はお疲れの御様子だったが、ひとこともそのようなことはおっしゃらず…。
「父上…父上は殿の病を御存知だったのですか?」
主膳は重い溜息をつくと、
「お胸のご不快を訴えられたことは、青木殿から聞き及んでいたが…まさかここまでお悪いとは」
「何ゆえ、出府を止めては下さりませなんだ…?」
「一度は儂も青木殿とともに殿に具申した。なれど…殿は御自身が出向かねば、本田家との一件、納まりがつかぬとお考えだった」
「父上っ…」
「誠之進、其許、殿から三郎ぎみの行く末を託されたのであろう?」
「は、はいっ」
すがるように主膳を見上げれば、主膳は誠之進の前に膝行し両肩に手を置いた。
「父上…」
「誠之進…其許は過日の出奔騒ぎで、本来ならばとっくに切腹を仰せつかっていたところ。儂も息子はもはや亡きものと一度はあきらめた」
「ち、父上っ…」
「なれど、殿の御慈悲によって其許は命長らえたのじゃ」
「はいっ」
「其許の命、殿との約束を果たすため、三郎ぎみに捧げるがよい…」
「父上っ!!」
主膳は誠之進の肩を軽く揺すると、立ち上がって障子戸をあけた。
深まる秋の冷気が、座敷に清水のごとく流れ込んだ。
「儂はな…誠之進」
「はい…」
「昔から三郎ぎみ御分家には反対じゃったが…」
誠之進は肩を震わせながら父の言葉に耳を傾けた。
「今となっては…何よりも大切なのは殿のお心じゃ」
「それは…?」
「家督は嫡子である惣一郎様へ。三郎ぎみはこの高山でご分家」
一言一言噛みしめるような主膳の声に、誠之進も黙ってうなずいた。
「殿がそう決められた以上、我らのなすべきことは次の藩主となる惣一郎様を盛りたて、三郎ぎみにはこの高山で静かにお暮らしいただく用意をすることじゃ…」
「父上…」
「誠之進、殿が命がけで守ろうとした三郎ぎみのお幸せじゃ。三郎ぎみを騒乱の種として利用されぬよう、これまで以上にわが溝口家が目を光らせていかねばならぬぞ」
三郎の身辺を監視せよともとれる、斯様な父の物言いに昔は反発したものだが、今の誠之進には父の言葉の意味がひとつひとつ胸に染みた。
内藤帯刀は失脚したものの、他藩に養子に行かず領内に残れば、三郎をかつぎだし御家騒動を起こそうとする者が将来再びでてくるやもしれぬ。それを未然に察知し、排除する。これすなわち、三郎を守ることに他ならぬと、今では誠之進も理解していた。
三郎の将来につき主膳と初めて考えが一致したことに、誠之進は深い安堵を覚えていた。
「殿は惣一郎様と三郎ぎみの一日も早い対面を望んでおられた…」
「はいっ…」
声を詰まらせた誠之進に、
「おふたりの間に確かな絆が生まれるよう…、其許も心を砕け、誠之進」
「心得まして…ござりまするっ」
父の励ましに誠之進は慎んで首を垂れた。
御家を守るため、時に冷徹な判断を下すかに見える主膳だが、父は本来忠義と情の人。少年時代は年の近い信輝公の学友として、成人してからは家老として長年尽くしてきた主膳だ。病に倒れた殿様を思う気持ちは誠之進にも計り知れない。
蔦や楓が錦に色づく庭を、主膳はしばし無言で見つめていた。
「誠之進、殿はまだ…五十二歳ぞ」
「父上」
「儂より…ひとつお若いのだ」
「我らより先に逝かれるなど、儂も山崎翁も断じて納得できぬ」
「ち、父上っ」
「『あちら』でお迎えする重臣が誰もおらぬではないか…」
悔しげに呟く父の背が、心なしか小さく見えた。
「父上。御快癒は難しくとも、早々に隠居され藩主の重責から解放されれば、殿のお身体も持ち直すやもしれませぬ」
「そうじゃな…儂もすぐにも江戸へゆきたい所じゃが…」
主膳は再び顔をあげ、重い吐息をついた。
堀田の書状によれば、殿様の病は江戸表でも一部の重臣にしか明かされていない。国許においても、おそらく父は山崎と堀以外の重臣には秘密にするつもりだろう。動くに動けない主膳の歯がゆさは、誠之進に痛いほどわかった。
「父上。三郎ぎみと私は明日にでも高山を発ちます。三郎ぎみのお顔を見れば、殿も力が湧いてくるやもしれませぬぞ」
「うむ…。頼んだぞ、誠之進」
*
事は一刻を争う。強行軍になるであろう街道旅。
誠之進は倫太郎をはじめ、若い屈強な近習を選び、体力のない足弱なものは外した。
三郎にとっても初めての江戸行き。これ程急なことでなければ、三郎の将来の側近たる筧松之助を伴い、江戸の空気にも触れさせたかったが、先の理由で今回は随員から外した。
同じ理由で外したかった源蔵だが…。
三郎ぎみの側を離れぬといってきかない。前回の出奔の時、置いていかれたのを余程根に持っているらしい。
「おまえのような足弱が、信越国境を一日で越えられるか! 大人しく屋敷で待っておれ!」
「誠之進様より若い私をつかまえて、足弱とは失敬な! 此度は何が何でもお供させていただきますっ!」
「ならば、音をあげついて来れぬときは、途中の山中に置きざりにする。それでもよければ…勝手について来い。決して足手まといになるな!」
厳しく言い渡した誠之進に、源蔵も上等じゃとばかりに腕まくりをして応えた。
『随分と急な御出立にござりますなあ?』
周囲からの問いに対し、江戸藩邸の秋の行事に殿が三郎の出席をのぞんでいると、誠之進は苦しい言い訳をした。幸い大半の供回りの者は深く考えず、初めての江戸行きに浮き立ちながらきびきびと街道を進んだ。
慌ただしい三郎の江戸出府で城下に妙な噂がたたぬよう、誠之進も主膳も殿様の病をふたりだけの胸に納めていた。誠之進は出立後、旅の途中で三郎に真実を伝えるつもりでいた。
三郎は多くを語らず、誠之進と轡を並べ、黙って馬の背に揺られている。彼方に広がる妙高の山々をじっと見据えながらも、行く手に暗雲の気配を感じるのか一一。黒耀の瞳は不安に揺れていた。
薄雲 了
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