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「と、殿様…私に…他家へいけとおっしゃるのですか?」
彩之介の可憐な声が痛々しく震えた。
黒目がちの瞳に、みるみるうちに涙が溢れた。
閉め切った障子戸の向こうから、庭先を木の葉がかさかさと舞う音が聞こえる。
座敷には帯刀に呼ばれて嶺次郎と弥一郎も同席していた。
帯刀の放った一言に弥一郎は蒼白になった。嶺次郎は彩之介とまともに目を合わそうとせず、沈鬱な表情でうつむいたままだった。
「父上…、何ゆえ、突然そのようなことを…?」
本田家と高山藩のいきさつを知らぬ弥一郎にとっては寝耳に水。
帯刀の魂胆がわからず、呆然とするばかりだった。
「駿河横河藩本田家、五万石じゃ。当主の忠直殿が昨年お世継ぎを亡くされてな。おさみしいのじゃ。もはやご高齢ゆえ、今さら側室を持つ気にもなれぬそうな。気ばたらきのできる、優しい小姓をお側に置きたいとおっしゃっての」
もっともらしい説明を繰り出す帯刀に、
「されど父上、なにゆえ彩之介なのです。駿河の本田家といえば三河以来の名家。家中にもお仕えする若者はたくさんおりましょう?」
弥一郎はようやく気を取り直して反論を試みた。
「以前、田安の御前と料亭で会食したとき、彩之介を供に連れていったのじゃ。そこでたまたま忠直殿とはち合わせしてな」
「なんと…」
「ひと目で気に入ったそうな」
「されど父上! なにゆえわが家が彩之介を差し出さねばなりませぬ? 駿河本田家に対し、内藤家に何の義理がござりましょう?」
「弥一郎…」
「それに…彩之介は私の小姓でござります。将軍家ではあるまいし、本田様が彩之介を気に入ったから差し出せと言われても、承服いたしかねます」
眉ひとつ動かすまいとしながらも、弥一郎の声音は切羽詰まっていた。
自分でもそれがわかって悔しい。
案の定、父・帯刀が唇の端で薄く笑った。
「田安様と本田忠直様は親しゅうてな。忠直様が彩之介を譲ってもらえぬかと御前に泣きついたそうじゃ。御前から頼まれれば、この儂に断れる道理もなく…」
「それは…あまりに理不尽ではっ…」
弥一郎は怒りにこめかみを震わせた。
父が田安様を頼りにしているのはわかる。されど、家族同然に暮らしている彩之介を差し出してまで御機嫌をとろうなど、さもしいにも程がある。
父・帯刀は内藤本家の血をひいていない。斯様な恥知らずな思いつきも分家の血ゆえかと、弥一郎の心に苦い侮蔑が浮んだ。今は亡き母が秘かに嫌悪していたのも、父のそういう部分だった。
怒りだけではない、雑多な感情のこもった目で弥一郎は父を見つめていた。
帯刀は動じた様子もなく、
「弥一郎…。確かに彩之介はそなたの小姓だが、その前に内藤家の家来であろう」
重々しい声で告げた。
「それはっ」
「よって当主の儂が彩之介の身の振り方を決めること、何の不都合がある?」
「父上っ!」
「そなたの言うように、わが家は本田家には義理などないが、儂は田安の御前に色々と借りがあるのだ」
「ならば今日こそは、私にもきちんとお話くださりませ。この数カ月、田安様と父上はいったい何をっ…」
弥一郎は思わず膝を乗り出して、父に詰め寄った。
隣でうつむいていた嶺次郎が、はっと突かれたように帯刀を見上げた。
それを認めた弥一郎が、
「叔父上はご存知なのですか?」
「い、いや…」
兄・帯刀の視線を感じたのか、嶺次郎はふたたび押し黙った。
「弥一郎。そなたはこれ以上詮索するな」
「父上っ!」
「儂が藩政に返り咲くためには、御前にまだまだお力添えを願わねばならぬ」
「父上っ! まだ性懲りもなくっ…」
「そのためには一一」
帯刀はいったん言葉を切ると、
「…御前につむじを曲げられては困るのだ」
ふっと肉厚の唇を歪めて笑った。
「父上…っ」
『父上、もはやこれまで。潔ようあきらめて隠居なされませ!』
己の気の弱さから、弥一郎には最後の一言が言えぬ。もはや父を『押し込め』、無理やり隠居させるくらいの気概がなければ、内藤家は早晩取り潰しの憂き目に合うだろう。
焦れる弥一郎を横目で見ながら、
「…ともかく。彩之介が行ってくれねば、田安様のお顔が潰れることになる。儂は腹を切って詫びねばならぬ…」
帯刀はこれみよがしに鈍い溜息をついた。
「と、殿様?!」
彩之介が涙ながらに帯刀を見上げた。
「彩之介…聞きわけてくれるな」
帯刀は一瞬目を細め、慈しむような眼差しで彩之介を見た。
だが目を合わせた途端、帯刀の双眸は鋭い光を放ち、彩之介は蛇に睨まれた蛙のように身をすくませた。射殺される寸前の子鹿のような瞳が痛々しい。
「彩之介…後で、儂の部屋へまいれ」
「あ、兄上!」
嶺次郎が上ずった声で叫び、ちらりと横目で弥一郎を見た。
(叔父上?)
弥一郎は訝りながら叔父と父を交互に見たが、帯刀は弟の慌てぶりなど意に介さず、唇の端にゆったりと笑みを浮かべた。
「大名の小姓としての心がまえ、とくと話して聞かせよう…」
彩之介はすがるような瞳で父・帯刀を見上げていたが、
「殿様のご配慮…痛みいりまする…」
やがてか細く声を震わせながら、畳に平伏した。
「彩之介っ!」
弥一郎は歯噛みしながらも、この場で父を論破することができない。父・帯刀に命じられれば、百両で身請けされた彩之介は否も応もない。
(私が彩之介を守ってやらねば!)
そう駆り立てられる一方で、権勢欲に憑かれた父を前に、青二才の自分に何程のことができるのか?
(負けてはならぬ。此度だけは、断じて父上の思い通りにさせてはならぬ!)
父・帯刀の無言の重圧を全身で跳ね返しながら、弥一郎は己の未熟さと懸命に闘っていた。
つづく
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