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『内藤の家を出て、横河藩本田家へ小姓として出仕するように』
この半年。
弥一郎の側で過ごした切なくも愛しい日々は、当主・帯刀の一言で無惨にも終止符が打たれようとしていた。
胸が潰れそうな思いをひた隠し、彩之介は近習として最後の勤めに励んでいた。いつ本田家入りするのか、帯刀からはまだ何も聞かされていない。しかし帯刀がこうと決めた以上、百両で請けだされた元陰間の自分に拒む権利はなかった。
『その日』が一日も遅く来る事を祈りながら、彩之介はどんな些細なことにも心を込めて、弥一郎の身の回りの世話をした。
弥一郎の部屋に花を飾ろうと、庭先で小菊を摘んでいると、
「彩之介、こっちへ来てひと休みせぬか?」
嶺次郎が縁側から親しげに声をかけてきた。
「はい、ただいま」
彩之介は水を汲んでおいた手桶に菊の枝をさすと、縁側の嶺次郎のもとへ駆け寄った。
「ほれ」
嶺次郎はふところから包みを出すと、
「金平糖じゃ」
「いただいてもよろしいのですか?」
彩之介が喜々として見上げれば、嶺次郎も邪気のない笑みで応えた。
*
帯刀から話があった日以来、何かと用事を作ってまとわりつく彩之介を、弥一郎はうるさがりはしなかった。今日も自室で過ごす弥一郎の側で、彩之介も手習いの稽古をしていた。
書見台に向う弥一郎が小さなくしゃみをした。
銀鼠の小紋の背が寒そうに震えた。
彩之介はすかさず筆を置いて立ち上がり、衣桁から羽織を取ってくる。
弥一郎の側に跪き、そっと背に羽織りを着せかけた。
「すまぬ…」
うつむいたまま呟く弥一郎に、彩之介は精一杯明るい声で応えた。
「…急に冷えてまいりましたね。手焙りをお持ちいたしましょう」
彩之介はそう言うなり、立ち上がろうとした。
「…彩之介」
弥一郎の繊細な手が、離れていこうとする彩之介の手を下から捕まえた。
手を握られるのも随分久方ぶりのことだった。
指先から伝わる暖さに彩之介の胸が甘く震えた。
「すまぬ…彩之介」
「弥一郎さま…」
彩之介は主人の手を宝物のようにそっと握り返し、首を小さく横に振った。
*
こうして目を見交わせば、弥一郎様が何を言いたいのかは容易にわかる。父上に対して無力なご自分を責めておいでなのだろう。弥一郎様はまだ部屋住みの身ゆえ、父上に頭が上がらぬのは当然。私とて武家の出。それくらいのことはわかる。
大坂で弥一郎様と殿様に『大和屋』から請けだされ、半年間内藤家にご奉公させていただいただけでも、身に過ぎた仕合せだと思っている。
お別れするのが辛いだけじゃ。弥一郎様をお恨みする気など毛頭ありはせぬ…。
「彩之介…っ」
私が行ってしまうこと…寂しいと思ってくださるのだろうか?
『おまえはもう見世にいた頃とは違うのだから』
そう言って、もはや私を抱こうとはしなかったけれど…。お側に仕え、毎日学問を教えていただいた。お伽をすることはなくなっても、私を弟のように慈しんで下さるお心に変わりはなかったと思う。
殿様の閨へ呼ばれるようになってからは、弥一郎様と夜を過ごしていないのがむしろ救いだった。ひとつ屋根の下で暮らしながら、おふたりの相手をするなど…いくら私が元陰間でも、斯様な浅ましいことはできぬと思った。
先日も殿様の閨に呼ばれた。勤めだと分っていても、いつも殿様の手管に翻弄され、最後には気を失うほど乱れてしまう。
弥一郎様はそんな私の性を見抜いて、もう触れては下さらぬのだろうか?
なれどこのまま別れが来るのなら、今いちどだけ弥一郎様と夜を過ごしたい…。
*
「弥一郎さま…」
彩之介はありったけの勇気を振り絞って、弥一郎の胸元に身を投げた。そのままひしとしがみつく。
「彩之介っ…」
一瞬驚いたように声をあげた弥一郎だったが、ためらうような間の後、両腕でしっかりと彩之介を抱きしめた。彩之介の唇から思わず安堵のため息が洩れた。
弥一郎は彩之介に飽いたわけではなかったのだ。
弥一郎が彩之介の前髪に唇を寄せた。軽く額をかすめていく唇の感触に、彩之介の胸が切なく締め付けられた。何も語らず静かに腕の中にいるだけで、胸底から弥一郎への慕わしさがわき上がってくる。気がつけば彩之介の右手は、弥一郎の着物の胸を皺がいくほど握りしめていた。
「彩之介…」
「はい、弥一郎さまっ」
もはや涙声になってしまうのを、彩之介は止められなかった。
どこへもいきとうない、ずっとこうしていたい…。
控えめにこめかみや頬に唇で触れる、弥一郎のつつましやかな愛撫に、彩之介はしばしうっとりと身を任せていた。
穏やかな中に苦渋を滲ませた声音で、弥一郎が口を開いた。
「父上が、あのようなことを言い出さねば…私はおまえを連れて近いうちに国許へ発とうと思っていた…」
「わ、私を越後へ?」
思わず上目使いに見上げた彩之介に、弥一郎はしかとうなずき、
「一一今でもまだあきらめたわけではない」
「なれどっ…そのようなことをすれば!」
自分が本田家に行かねば田安様の不興を買い、殿様はお腹を召さねばならぬ。
「父上は…すでに命運が尽きておる。藩金流用が発覚したとき、本来なら切腹申し付けられていたはず…」
「弥一郎様! お父上のことをそんな風に言うてはなりませぬ!」
淡々と呟きながらも、弥一郎の眉が苦しげに寄せられたのを、彩之介は見逃さなかった。
「弥一郎様の…そのお言葉だけで、私は十分果報者にござります…」
眸を潤ませながらも、彩之介は懸命に口元に笑みを浮かべた。
自分は大嘘つきだ。
言葉だけで幸せであろうはずがない。
弥一郎様とともに越後へ行き、生涯お側近くに仕えることができるなら一一。
なれど私のせいで殿様を切腹に追い込めば、弥一郎様はきっと後悔なさる。親不孝をしたご自分を許せなくなる日が来るに違いない…。
彩之介は離れがたい気持ちを懸命に堪え、暖かな弥一郎の胸から身を起こした。
弥一郎の前に居住まいを正すと、
「私は…本田家にまいります」
「あ、彩之介?!」
「殿様には『大和屋』から請け出していただいたご恩があります」
「なれど…此度の話はあまりに無体なっ…」
怒りに唇を震わせる弥一郎に、彩之介は眦を決して迫った。
「ならばっ…私を哀れと思うて下さるなら」
「彩之介っ」
ふたりの視線が熱く絡み合う。
彩之介は目を閉じてすうっと息を吸い、
「今一度だけ…お、お情けをいただきとうござりますっ」
一息に言い切ると、頬を染めてその場に平伏した。
己から抱いてくれと迫るなど、潔癖な弥一郎に疎まれてしまうかもしれない。
されど彩之介に残された時間は少ない。
初めて恋した弥一郎と、今一度だけ枕を交わしたい。
その思い出だけを心の支えに、自分は本田家へ…。
弥一郎はわずかに眉を寄せ、伏目がちに押し黙っていた。
障子戸をたてきった部屋の中、流れる時間とともに空気が重く沈んでいく。
彩之介は這い昇ってくる寒気と不安に震えながらも、決してあきらめるまいと歯をくいしばった。弥一郎の唇が動く瞬間を、祈るような気持ちでじっと待ち続けた。
長い沈黙の後、張り詰めたような空気がふと緩み、
「…今宵、部屋へまいれ」
弥一郎がわずかに目元を染め、静かに呟いた。
(弥一郎さまっ…)
彩之介は涙を堪え畳に手をついて一礼すると、摺り足で部屋を後にした。
*
縁側に出て廊下の端まで歩くと、もはや彩之介は糸が切れたようにその場に泣き崩れた。童のように嗚咽を洩らす姿を、柱の陰から嶺次郎がじっと見つめていた。
つづく
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