二十四の巻
「内藤家の男たち」5


by 戸田采女

 夜半、通りで犬が鳴いた。

 眠りを妨げられ、弥一郎がふと目覚めてみれば、夜具の中から愛しい温もりが消えていた。

「彩之介…?」

 朝までここで眠ればよいものを、律儀に部屋に帰ったのか?

 そのまま捨ておくこともできたが、弥一郎は妙な胸騒ぎを感じた。寝間着の袷を整え、手早く帯を締め直すと、足音を忍ばせて廊下に出た。

 台所に近い奉行人の暮らす一角に、彩之介は部屋を与えられている。家の者を起こさぬよう細心の注意を払いながら、弥一郎は掛け行灯に照らされた仄暗い廊下をいく。弥一郎は目指す部屋の前で止まると、そろりと襖を開けた。

「彩之介?」
小声で室内に呼びかけると、闇の中、胡座をかいた人影があった。
「誰ぞ…そこで何をしておる?!」
誰何の声をあげれば、人影がゆったりと振り返った。
「騒ぐな…弥一郎」
「叔父上…!? なにゆえ彩之介の部屋に…?」

 暗がりで表情はよくわからぬが、嶺次郎は膝の上で何かを握りしめていた。

 弥一郎は素早く叔父の前に回り込み、膝を突き合わせて座った。

 嶺次郎の手には、彩之介の笛が握られていた。

「これを…おまえに渡してくれと」
「叔父上…いったい、どういうことにござります…彩之介はいずこにっ?」
不吉な予感が弥一郎の足下から這い上がった。
嶺次郎は笛に目を落としたまま、ぼつりと呟いた。  
「俺が逃がした」
「な…んですと?」
「本田家にいけば、どんな目に会うか…彩之介にまことのことを言うた」
「まことの…こと?」
嶺次郎はうなずくと、苦々しく呟いた。
「兄上からおまえには言うなと口止めされていたが…本田忠直は無類の前髪好きでな」
叔父の意味ありげな一言に、弥一郎の胸が粟立った。
「家中の少年を召し出して慰むだけでは飽き足らず、湯島の『子ども屋』からも、たびたび屋敷に『お下りさん』を呼び寄せてお楽しみじゃ…」
「ご、五万石の大名ともあろう方がですか?!」
「うむ…。儂もな、湯島の茶屋には馴染みがおるゆえ、色々本田忠直の噂は聞き及んでおった」

 彩之介は京ではないが畿内の生まれ。江戸や越後の者にはない、たおやかさがあった。

「…御自身はもはや老齢ゆえ、なかなか一物も役に立たぬ。そこで張り型や秘具を用いて若衆を嬲るのが好みらしゅうて…、見世の者も皆、あの爺はしつこうて嫌じゃと辟易しておったわ」

(なんということ…っ)

「そんな御仁と知りながら父上は彩之介を…」
「あたりまえじゃ。彩之介は前身が前身ゆえ、格好の玩具というわけじゃ…」
「お、叔父上!」
「おそらく爺が彩之介に飽きれば、もしくはぽっくり行ってしまえば、彩之介はお払い箱だな…文字どおり尻奉公はそれで終わりじゃ」
弥一郎は眸を潤ませながら、奥歯をぎりりと噛みしめた。
「なんとむごいことを…。父上は…人ではない、鬼じゃ!」

 父にとっては金で請け出した彩之介を他人にくれてやるなど朝飯前。おそらくは…初めから、いずれ彩之介を利用するつもりで江戸に伴ったのだろう。心の片隅でよもや、と思っていたことが現実になったにすぎない。

 自分は斯様なことで傷付いたりはせぬ。なれど、父・帯刀のことも『殿様、殿様』と慕っていた彩之介が不憫でならなかった。

(驚くまい。父上はそういうお人じゃ…そのようなこと、はなから知っておったわ…)

 弥一郎は奥歯を噛みしめながら己に言い聞かせた。

 大坂で春をひさいでいたとはいえ、彩之介は元はれっきとした武家の子。家が取り潰されただけでも十分に辛酸を舐めてきたのだ。縁あって我が家に来たからには、弟のごとく慈しみ、武家の男子として身が立つようにしてやりたかった。

 父上の野望も、己の運命も、彩之介はもしや何もかも察していたのか?

 『お、お情けをいただきとうござりますっ!』

 数刻前、思い詰めた顔で寝所に現れたのも、いじらしいほどの応えかたで弥一郎に抱かれたのも…これが最後と覚悟を決めてのことだったのか?

 弥一郎は叫び出したいのを堪え、握り拳で畳を叩いた。
「私には…ひとことも言わずにっ」
「母親にひと目会いにいくと言うておった…」
 弥一郎ははっと突かれたように面を上げた。
「畿内へ…?」
「偽造の手形と路銀も十両ほど渡してやった…」
「そのようなものまで用意しておられたのですか?」
瞠目する弥一郎に、嶺次郎は力なくかぶりを振った。
「さすがの儂もあの話が出たときは…此度だけは兄上を許せぬと思うた」
「叔父上…」
「いざとなったら逃がすつもりで、つてを頼って道中手形を用意させた…」

 兄である帯刀には絶対服従だった嶺次郎だ。それがよくぞ思いきったもの…。弥一郎は驚きと不思議な感慨を覚えていた。お世辞にも立派な人物とはいえぬ嶺次郎だったが、健気に内藤家に仕える彩之介に、人としての良心を呼び覚まされたのかもしれない。

 しかし弥一郎は再び眉を曇らせた。
「なれど叔父上、彩之介が…たったひとりで…旅などできるとお思いか…っ」
「弥一郎…」
「彩之介は国許にもおられぬ身のはず。逃げよと言うたとて、彩之介には…行くところなどござりませぬ!」
畳を蹴って立ち上がろうとする弥一郎に、
「座れ、弥一郎」
嶺次郎は厳しい声で命じた。
「逃げたならもう追うな。連れ戻しても地獄が待っているだけだ…」
「地獄?」
弥一郎は中腰のまま鸚鵡返しに尋ねた。
「ここへ戻ったら最後、彩之介はその日のうちに本田家にやられるぞ」
「そんな…っ」

 あられもない姿態で老人に嬲り尽される、痛々しい彩之介の姿が脳裡に浮んだ。

 思わず顔を覆った弥一郎に、嶺次郎は淡々と呟いた。
「どうせ兄上のことだ、万一彩之介に逃げられても次の手を考えているだろうが…儂もおまえも…正面きって兄上に逆らうことなどできぬだろう?」
「なれど!」
「彩之介が勝手にいなくなれば、神隠しか人さらいにでもあったと、苦しい言い訳もできよう」
「ばかな…」
「彩之介はな…泣きながら申しておった。お前以外の男に抱かれるのはもう嫌じゃと…」
「お、叔父上…」

(彩之介、それほどまでに私のことを一一)

「ならばなおのこと、このまま…座して見過ごすわけにはいきませぬ!」

(待っておれ、彩之介。すぐに追いかける。おまえをひとりで行かせはせぬ。このままふたりで国許へ発とう。今日、今この時から…父上とは親子の縁を切る!)

「弥一郎!」
追いすがる嶺次郎の手を弥一郎が振払えば、
「莫迦もの!」
逆に思いきり頬をはられた。
「追いかける気か?」
「いかにも」
弥一郎は眦を決した。
「兄上を…裏切る気か?」
心は決まっていても、さすがに口に出すことはできなかった。
弥一郎はそれには答えず、
「叔父上…後生でござる。見逃してくだされっ…」
畳に手をついて懇願した。
弥一郎は全身で嶺次郎の気配をうかがいながら、叔父の返答如何では、すぐにも部屋を飛び出せるよう身構えていた。

 嶺次郎は無言で弥一郎の側へ膝をすすめ、耳もとに小声で鋭く囁いた。
「部屋へ戻って着替えてこい」
「叔父上?」
「…寝間着で街道旅はできぬぞ」

「お、叔父上…」
気持ちばかりがはやり、そんなことさえ失念していた自分が情けなかった。
弥一郎は世間知らずな己を恥じつつ、叔父に向って素直に頭を下げた。
「いずれにせよ、彩之介の足ではまだそう遠くへは行っておらぬ。あわてるな、弥一郎」
「おっしゃる通りです…叔父上」
弥一郎は焦りをしずめるべく、大きく息をついた。

 しかし上方へ向うとしても、東海道か中山道、彩之介はいずれを選んだのか? 中山道なら板橋、東海道なら品川に向っているはず…。

 嶺次郎は弥一郎の迷いを見透かしたように、
「彩之介は…きっと明るい海がみたいはずじゃ。中山道などいきはせぬ」
「何ゆえ…そう思われます?」
「畿内の生まれじゃしな。儂の勘じゃ」
「叔父上…」
「駄賃をはずんで駕籠にのっていけ。品川へ先回りして彩之介を待つといい…」
「はい…」
「なれど弥一郎、首尾よく彩之介を見つけた後、いかがする?」

 弥一郎はちいさく息を飲んだ。己の腹の内をどこまで叔父に話していいものか、一瞬迷いが生じた。

 しばしの沈黙の後、弥一郎は心を決めて口を開いた。
「…彩之介とともに国許へ戻り、家督したいと存じます」
「左様か」
嶺次郎はさして驚いた様子もなく、しかとうなずいた。
「…恭順の姿勢を見せれば、重臣どももそなたを悪いようにはせぬだろう」
「叔父上…」
「そなたが内藤の家を立派に守れ、よいな」
覚悟を滲ませて諭す嶺次郎に、
「叔父上こそ…この先いかがなさるのです?」
弥一郎が問う。
「儂か…?」
案ずるように見つめる弥一郎を前に、嶺次郎は静かに息を吐いた。
「地獄であろうと極楽であろうと、儂はどこまでも兄上とともに行くまでじゃ…」
「叔父上…」
「此度だけは兄上に逆ろうてみたが…、所詮儂は幼き頃より兄上の腰巾着。今さら別の生き方もできぬしな」
嶺次郎は鼻先で軽く笑った。

 ここで叔父と別れたら、父・帯刀の動き如何で今後は敵対する立場になるやもしれぬ。だが本人が言うように、叔父は父のもとを離れては生きていけぬだろう。嶺次郎の胸の内を考えると安易に共に来いとも言えなかった。

「彩之介にくれてやったゆえ、遊び金もいくらも残っておらぬが…儂のあり金全部持っていけ」
嶺次郎は胴巻きごと弥一郎の手に押し付けた。

 道楽者のうつけと内心侮ってきた叔父だった。だがこの土壇場に来て、世事にうとい弥一郎は嶺次郎の助けがなくば、彩之介を追うことすらおぼつかない。

「叔父上…この御恩は忘れませぬ」

 弥一郎はため息とともに深く首を垂れた。


つづく


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