二十五の巻
「狩」1


by 戸田采女

 彩之介が天満屋の寮から逃げ、弥一郎があとを追ったのは十月二日の未明。

 天満屋の手代・為吉こと忍びの玄海は、新月の闇に糠星がきらめく夜、主人・内藤帯刀の命を受け高山藩邸に潜入した。

 玄海が帯刀に仕えはじめてから、かれこれ五、六年になる。伊賀者の流れをくむ玄海がなぜ仲間から離れ、帯刀に拾われることとなったのか…。帯刀の影に徹し、汚い仕事に手を染めてきた玄海だが、内藤家の者でさえ玄海の年齢や経歴は知らない。

 年は三十代の半ばくらいだろうか。比較的長身だという以外、特に人目をひく身体つきではなかった。だが衣の下は鋼の筋肉が全身を覆い、ふとした拍子に見せる身体のキレは武士のものとはひと味違う。

 声色、変装などお手のもの。天満屋の寮では少しばかり算盤に強い、愛想のよいお店者を完璧に演じ切っている。

 諜報活動はもとより、刺客としても腕は一級。狙った相手の息の音を確実に止める術を心得ている。帯刀に利用され捨てられた、国許の勘定方の役人・田村蓑助も、夜道で玄海の手にかかり呆気無く落命した。背中からひと突き、心の臓を狙った刃物傷に、調べにあたった目付も言葉を失ったものだ。

 今宵、玄海が藩邸に忍びこんだのは、信輝公正室・牧の方に帯刀の贈り物と文を渡すためだった。

(わが主人殿は…相変わらずまめなことよ)

 『お方様のご機嫌取りは疲れてかなわぬ…』
 
 主人・帯刀は始終玄海に愚痴をいいながらも、信輝公の江戸出府後、外出しずらくなった牧の方への心遣いを忘れなかった。とはいえ、今宵はようやく江戸へ戻った島崎屋とともに吉原で命の洗濯らしい。

 失踪した元・留守居役の岩田から、奥にほど近い秘密の通用口のことは聞いている。牧の方が時折侍女に化けて芝居見物に出かけるのもここからだ。ずさんな警備にも助けられ、玄海は牧の方の寝所近くまで楽々と入り込んだ。首尾よくお年寄の藤江に接触したのち、本来なら真直ぐに帰参すべきところだが、その夜、玄海はちょっとした寄り道を企てた。

 数年前から目をつけている美しい獲物、櫻田右近が、今、この藩邸内で暮らしている。

 当初の玄海の役目は右近の身辺を探り弱味を握ることだった。右近は主人・帯刀の政敵、筆頭家老の溝口主膳親子と浅からぬ関係にある。息子の誠之進は藩校時代からの右近の親友、主膳は右近を自らの懐刀と頼みにしている。帯刀は溝口家と右近の間に楔を打ち、あわよくば右近を自分の陣営に引き入れたかったのだ。

 高山城下で初めて右近を見たとき、噂にたがわぬ美貌に息を飲んだ。ただ美しいだけではない。伶俐で誇り高く、まともに立ち合えば容易には倒せぬほどの剣の遣い手だった。

 そういう男だからこそ、追い詰めがいがある。

 帯刀の愚弟・嶺次郎が懸想し、長年しつこくつきまとった気持ちがわからぬでもない。右近には美しい若者にありがちな柔弱な媚が一切なかった。いかに熱心に言い寄られても、男に思われるなぞ迷惑千万と手厳しく退けた。大概の男はそれでひるむのだが、哀れ嶺次郎は冷たくされればされるほど想いを募らせていた。

 だが年月が流れ、右近も齡二十七となった今、もともと美少年を好む嶺次郎は右近への不毛な熱から覚めつつあるらしい。

 一方、帯刀の命を受け右近の動向を探っているうちに、玄海はそれが任務であることを忘れた。玄海は嶺次郎のように衆道に耽溺しているわけではない。女も抱けば、岡場所にも通う。それがなぜ、右近にひとかたならぬ興味を持ったのか一一。
 
(さてな…)

 己を厳しく律し、心の裡を容易には見せまいとする右近。昨年、国許で勘定吟味役を勤めていた右近は、再三の帯刀の脅しにも屈せず、内藤一派の藩金流用の事実を白日のもとに曝した。結果、主人・帯刀は次席家老を罷免された。島崎屋のおかげで金には困らぬとはいえ、こうして江戸で無聊をかこっている。あの時、即座に報復しなかった主人の真意は今でもはかりかねるが、右近との対決はまだ終わっていない。必ず第二幕があると玄海は睨んでいた。

 主人・内藤帯刀は大人しく隠居する気などさらさらない。何としてでも家老の地位に返り咲きたいのだ。

 現在、右近は留守居役添役だが、遠からず留守居役に昇格するのは確実だ。一度は退いた堀田又座右衛門が老体にむち打って役目に復帰したのも、右近を後任として仕込むためだ。要職についた右近は今度こそ帯刀の野望を打ち砕こうとするに違いない。当然、自分は帯刀の手足として右近の動きを探り、封じねばならぬ。

 江戸で世嗣・惣一郎の寵愛を欲しいままにする右近。惣一郎が藩主となったあかつきには、右近に絶大な権力が与えられるだろう。そうなる前に仕掛けたいところだが。

 右近が臣下として頂点に登り詰めたとき。足をすくって失脚させるのもまた一興。

 玄海も、主人・帯刀も右近の秘密を知っていた。

 右近が真に求めてやまないものを一一。

 右近ほどの男が何ゆえ愚かな片恋に身を焦がすのか。正直、玄海には解せない。だが右近の思いを『理解する』必要など玄海にはなかった。
 
 高潔な魂が嫉妬の炎に焼かれ、恐ろしいほどの煌めきを放つとき。人知れず、実らぬ恋に苦悩する白皙の横顔は、背筋が震えるほど美しい。ならば心がくだけ散る寸前まで右近を追い詰め、蝶の羽をむしりとるがごとく一一。

(主人殿もきっと同じことをお考えだろう。なれど、あのお方の弱点はここ一番で非情になりきれぬこと…)

 玄海の内部で昏い欲望がふつふつと醸成されていく。だが決して事を急いだりはしない。次はどんな手で揺さぶってやろう? 美しい獲物は周到な罠を仕掛け、じっくり捕らえるのがよい。その過程こそが玄海の『狩り』の愉しみでもある。

 考えただけでも胸が踊った。

 なれど今宵、せっかく藩邸に忍びこんだのだ。寝顔くらいは拝んでいこうかと、玄海は大胆にも表御殿へと足を伸ばした。

 時刻は丑の下刻(午前三時)。鳴き弱ったこおろぎの声以外、藩邸内の深い木立は静寂に包まれていた。落ち葉で足音をたてぬよう、玄海は細心の注意を払って庭を進んだ。

 ふいに木立が切れ、白い玉砂利の向こうに、灯りに照らされた建物が広がった。

 表の警備はさすがに奥とは違う。庭には宿直の武士が何人も見回りに出ている。廊下にも掛け行灯が並び、昼間のようなとはいかぬまでも十分な明るさだ。闇に紛れて右近の長屋まで辿り着こうなど、虫の良い考えだったかもしれぬ。

(いかがする…今宵はあきらめるか)

 玄海は舌打ちしながらも、とりあえず玄関にほど近い廊下の縁の下に滑り込んだ。しばらく身を潜めて思案していると、斯様な刻限にもかかわらず玄関へ向う足音と人の話声が聞こえてきた。
 
「…堀田様、今宵は夜具の上でゆるりとお休みくださりませ。さぞやお疲れのことでござりましょう…」
労るような声音には聞き覚えがあった。
忘れもしない。澄んだ楽の音のような若い男の声だった。
玄海は床板一枚隔てた下で微動だにせず、唇の端に歪んだ笑みを浮かべた。
「何のこれしき…と言いたいところじゃが。二晩続けて徹夜は年寄りにはちと辛いのう」
若者のうなずく気配に続き、
「貴殿こそ少しは眠っておくことじゃ。よいな」
息子を諭すような口調で老人が静かに命じた。
「はい、一刻ほど仮眠をとった後、再び殿のご様子を見て参ります」
「そうじゃな。お脈の乱れも収まったゆえ…今宵はひとまず安心と見たが一一」
「何かありましたら、すぐに堀田様をお呼びしますゆえ」
「うむ、頼んだぞ…」

 足音が遠ざかった後も、玄海は縁の下に潜みふたりの会話を反芻していた。

(お脈の乱れ?

 もしや…信輝公が御病気か?

 先程のふたりの会話から察すると、かなり重篤と見たが)

 完全に人の気配が消えたのを確かめ、玄海は縁の下からするりと這い出た。

(これは…面白いことになってきた。

 万一、信輝公がみまかるようなことがあれば、舞台は一気に動き出す一一)

 いずれの藩でも、代替わりの時期は大なり小なり混乱が起こるもの。幕府がそれを見越して隠密を送り込むのも珍しくはない。

 玄海は静かに喉の奥で笑った。

 騒乱こそ主人・帯刀にとっては好機。

 何もなければ、我らが火種を見つけてかきたてればよい。
 
(この朗報、早速主人殿に知らせねば一一)

 久方ぶりに聞いた右近の声に後ろ髪をひかれつつも、玄海は再び足音を忍ばせて表御殿を後にした。木立を抜け、奥御殿の敷地へと戻る。満々と黒い水をたたえた池を左手に眺めつつ、勝手知ったる庭園を突き抜け、例の通用口から首尾よく外に出た。

 人気のない通りで微かに物音がした。瞬時に身構え、音のしたほうをみやる。用水桶の陰で黒猫が一匹、じっとこなたを伺うように見ていた。

(失せろ)

 玄海が目を細めてひとにらみすると、黒猫はみゃうと小さく鳴き、隣の屋敷のほうへと走り去っていった。

 玄海は軽く息をついて夜空を見上げる。降るような糠星の煌めきが瞳に痛いほどだった。明けの明星が暁の空に浮ぶまで、半刻(一時間)ほどあろうか。

(さて…いかがしたものか。大門(吉原の入口)で待ち伏せするのはいかにも不粋じゃ。ここは霊巌島に戻って主人殿の帰りを待つとするか)

 玄海は小さく鼻を鳴らすと、暁闇の江戸の街を疾風のごとく駆け抜けた。



つづく


「内藤家の男たち」6「狩」2
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壁紙は『kigen』さんからお借りしています。


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