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吉原から上機嫌で戻った内藤帯刀を待っていたのは、思いがけぬ事態であった。
帯刀は階段を踏みならして二階へあがり、弟の嶺次郎を問いつめた。
「嶺次郎…これはいかなる仕儀か」
未だ惰眠を貪っていた嶺次郎が、のそりと布団から這い出た。
「ああ、兄上、お帰りなさりませ」
「…弥一郎は、彩之介はいずれに?」
爽やかな朝の光りに似合わぬ、地を這うような声音で帯刀は弟に問うた。
「…はて、部屋におりませぬか?」
「おらぬ!」
「ほう、随分と早起きにござりますな」
嶺次郎はとぼけた仕種で不精髭を撫でた。
いかにも起き抜けという緩慢な動作で窓辺に歩み寄り、障子戸を開けて外を仰ぎ見る。
「兄上、見事な秋晴れではござりませぬか? ふたりで王子あたりへ紅葉狩りにでも出かけたのでは?」
「朝餉も取らずにか」
「彩之介もまもなく本田家へやられることですし、弥一郎の奴、名残りを惜しんでいるのでしょう」
嶺次郎はさもおかしそうに喉を鳴らした。
帯刀は答えず、かっと目を見開いて弟を睨んだ。
(下手な芝居をしおって…)
苦りきる帯刀の耳に、廊下をやってくる静かな足音が聞こえた。
「殿様」
障子戸がするすると開き、縞の着流し姿の玄海(為吉)が顔をのぞかせた。
「して、いかがであった?」
「奉公人たちも、今朝、おふたりの姿を見たものは誰もおらぬようで」
「ならば…昨夜のうちに?」
「一一おそらくは」
玄海が短く返した。
*
昨夜、玄海を藩邸に送り込んでいなければ、まんまとふたりに逃げられるはずがなかった。
今朝方、吉原から駕篭で戻った帯刀は、早速湯殿の世話を申し付けようと、女中に命じて彩之介を呼びにやった。ところが部屋はもぬけの殻。あまりにも整然と片付いた様子を不審に思い、女中が帯刀に報告した。
帯刀は彩之介の部屋を検分したのち、弥一郎の部屋へ向った。おおかた彩之介は弥一郎に呼ばれ、昨夜は伽をしたのではないかと踏んだのだ。
ところが弥一郎の部屋の前で声をかけても返答がない。障子戸を開けてみれば、室内は着物や書物が散乱し、まるで盗みに入られたような散らかりようだった。ふたりの姿は影も形もない。
(これは…彩之介が逃げ、弥一郎があとを追ったか。相変わらず青臭いやつじゃ)
思わぬ展開に帯刀が歯噛みしていたところ、玄海が『為吉』の扮装で現れた。
*
「逃げおおせると思うてか、莫迦ものめ」
帯刀の呟きを聞き付けた嶺次郎が、はっと面をあげた。
弟の反応を目の端で捕らえながら、
「玄海、はよう追いかけて連れ戻せ」
帯刀は感情を殺しきった声音で命じた。
「御意」
玄海は小さくうなずき、そのまま戸をたてて行こうとした。
が、ふと気が変わったかのように、
「…殿。実は…その前に急ぎお耳に入れたき儀がござります」
「何じゃ」
声に苛立ちが滲むのを隠せなかったが、
「藩邸で容易ならざる事態が出来しております…」
意味ありげに目配せする玄海を、帯刀は息を詰めて見返した。
「よし…儂の部屋で話しを聞こう」
帯刀は仁王立ちになったままうなずいた。
彩之介を追いかけて捕えねばならぬが、帯刀はこのとき、『逃げるというてもどうせ彩之介に行くところなどない。道中手形もない前髪の少年に、街道旅などできるわけがなかろう。追いかけた弥一郎とて、部屋の混乱ぶりからして、十分な旅支度などしておらぬはず。ここを飛び出したところで、未だご府内をうろうろしているのが関の山』とたかをくくっていた。玄海に任せておけばすぐに見つかる…と。
弟の探るような視線を背中に感じていたが、帯刀はわざと無視して大股で部屋を出ていった。
(嶺次郎…そなたの猿芝居、あとで必ず暴いてやるゆえ…首を洗って待っておれ)
帯刀は玄海を従えて廊下を行きながら、腹の中で吐き捨てるよう呟いた。
*
嶺次郎が偽造手形まで用意し、計画的に彩之介を逃がそうとしていたなど。さすがの帯刀も見抜けなかった。見抜けなかったというより、弟に斯様な知恵があろうとは思いもよらなかったのだ。
弥一郎が帯刀から当主の座を奪う覚悟をしたことも、帯刀の予想の範囲を超えていた。
すべては嶺次郎や弥一郎をみくびりすぎた帯刀の誤算だった。
彩之介、嶺次郎、弥一郎、三人の本音を読み切れなかったことで、帯刀と玄海の探索はすべて後手に回った。翌日の昼、玄海はふたりが品川を通過したことをようやく突き止め東海道を下ったが、その頃、弥一郎と彩之介は既に神奈川湊から下田へ向う船の上にあった。
霊巌島の寮から玄海を送りだすとき、
「丸一日で追いつけぬ時は、配下の者に任せておまえは即座に引き返せ」
帯刀は腹をくくった。
「御意」
「岩田(元・留守居役)を失った今、おまえに藩邸の様子を探ってもらわねば、中の様子が皆目わからぬ」
「心得ましてござります」
庭先に控え、いつも通り淡々と指令を受ける玄海だったが、一瞬、細めた目がきらりと輝いたように見えた。
その訳を考える余裕もなく、帯刀はふたたび沈思に落ちた。
(殿が危篤…。
それが儂にとって吉と出るか凶と出るか?)
藩邸内の手足であった岩田を、自らの身を守るために切り捨てた。皮肉にもそのおかげで、帯刀は今必要な情報が手に入らない。一方で頼みの綱である田安殿も、相変わらず『本田家の一件』で顔を潰されたと御立腹だ。失地回復の切り札だった彩之介にも逃げられ、さすがの帯刀も泣きっ面に蜂である。
(牧の方以外、儂は今、藩における足場を失いつつある。今、代替わりというのはいささかまずい…)
帯刀の脳裡に世嗣・惣一郎と美貌の側近の影が浮んだ。
(惣一郎様の治世となれば、だれ憚ることなく右近を登用するだろう。留守居役昇格はもちろん、江戸家老より力を持つのは確実じゃ…)
(彼奴が儂の復帰を許すわけがない…くそっ、何とも間の悪い)
藩邸の風雲急を告げる展開に、此度ばかりは内藤帯刀も浮き足立っていた。
つづく
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