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十月六日の昼前。
「でい、でい〜」
雪駄直しの市松は商売道具の入った竹駕篭を肩にかけ、のどかなかけ声とともに八丁堀から霊巌島界隈を流し歩いていた。朝から釣りにでも行きたい小春日和だった。得意先の武家や商家を巡ったのち、市松は亀島橋の向こうへと渡る。ひなたは十月とは思えぬほどの暖かさだったが、川岸の柳を揺らす風はやはり秋の冷たさで、市松は思わず袷の衿をかき合わせた。 (でい=直しの意)
市松の表向きの仕事は雪駄直しだが、日本橋の御用聞き・銀次の弟分として十八の時から探索を手伝っていた。この夏からは銀次の口ききで、高山藩留守居役添役・櫻田右近の密偵として働いている。始め、市松は「他ならぬ銀次あにいの頼みだから聞くけどよ。若い侍にあごで使われるなんざあ、面白くねえなあ…」とぼやいていた。
それが今ではすっかり右近に心酔し、今日は命じられもせぬのに天満屋の寮に探りを入れにきた。ここには右近の政敵・内藤帯刀が家族とともに逗留している。実は先日、当主帯刀の醜聞をつかんで以来、右近にしばらく探索は休めと命じられた。商売のついでにそれとなく目配りしておくだけでいい、無理をして屋敷内に入り込もうとするなと。
しかし市松にはそれがつまらなぬのだ。報告する事柄がなければ右近に会えない。何か変わったことはないか、むしろ帯刀に妙な動きがあれば好都合。必ずや自分が探りだして『弁天様』に知らせるのだと、市松は息まいていた。
「あら、あんたまた来たのかい!」
市松が裏木戸からひょっこり顔をのぞかせると、井戸端から陽気な女の声が返ってきた。
「やあ、おとせさん」
お世辞にも美人とはいえぬが、愛嬌たっぷりの丸顔にいつも笑みをたたえている。おとせは肥えた身体を窮屈そうに曲げ、井戸端で青菜を洗っていた。
「ちょっとそこまで来たんで、こちらにも御用はないかと寄ってみたんだ」
「ふうん」
おとせは菜っ葉を束にして両手でがっしと掴み、ゆさゆさと葉を揺すって水を切った。
「市さん、あんた、あたしに会いたくてしょっちゅうやって来るんだろ?」
「い、いや…そういうわけじゃ」
内心冗談じゃねえやと思いながら口ごもる市松を前に、おとせが豪快に腹をゆすって笑った。
「かわいいねえ、このひとったら」
市松は年増女の誤解に呆れながらも、
(仕方ねえ、そのほうが怪しまれずにすむか…)
貼り付いた笑みを浮かべてその場に突っ立っていた。
たとえ抱きつかれても堪える覚悟を決めたところへ、
「奥へいって聞いてきてあげるよ…といいたいとこだけどさ」
先程の明るさとは一転して、おとせの声が沈んだ。
おとせは青菜を笊に入れ、丸い肩で溜息をついた。
市松とて小者のはしくれだ。
異変の匂いを敏感にかぎつけた。
「え、どうしたんでえ。何かあったのかい?」
市松はおとせに警戒されぬよう、軽い口調で先を促した。
「実はさ…」
おとせはあたりを見回して声を潜めた。
「若様と彩之介さんがいなくなっちゃったんだよ…」
「いなくなった?」
思わず顔を近付けた市松に、
「…最初は朝早くからふたりで紅葉狩りにいったか、なんて呑気なこと言ってたけど…いなくなってもう四日も経つんだよ」
「なんでえ、親と喧嘩でもして家出かい? それとも悪い女にひっかかって…」
おとせは小さく首を振ると、訳知り顔で声を落とした。
「きっとあれはね…」
市松も息を飲んだところへ、
「おとせ」
背後で聞き覚えのある男の声がした。
「た、為吉さん」
おとせの丸顔が瞬時にこわばった。
「こんなところで油を売ってねえで、はやく昼の仕度をしな。嶺次郎さんが腹をすかせてるぜ」
「あ、あい」
おとせは慌てて青菜の入った笊を抱え上げた。
ちらりと市松に目配せすると、脇をすり抜けてまろぶように台所へ駆け込んでいった。
井戸端に残された市松は、背中に刺すような視線を感じていた。目も合わせておらぬのに、市松は蛇に睨まれた蛙のごとく、その場から動くことができない。
天満屋の寮の見張りを始めてから数カ月。為吉の顔は当然見知っている。気さくなお店者の声色を使ってはいるが、ふとした拍子に見せる眼光の鋭さに、この男の正体が垣間見えた。
(くそっ…膝が震えてきやがった)
為吉が実は『玄海』という名の忍びであること、市松は既に右近から聞いている。
「おい、そこの雪駄直し」
「へえ」
ありったけの勇気を振り絞り、市松は低い声で返し小さくうなずいた。
「時々この寮に出入りしているようだな」
「へい。皆さんに御贔屓にしていただいておりやす」
市松はようやく半分だけ身体の向きを換え、為吉に向って腰を折った。
着流しに前掛け姿の為吉は、口元に薄い笑みを浮かべていた。
「週に一度は台所で無駄話しをしていくようだが…」
市松は鉛を飲んだよう押し黙った。この様子ではかなり正確に行動を把握されているらしい。怪しまれてはいないと、たかをくくっていた自分がおめでたい。
気がつけば、市松の背中にはじっとりと汗が滲んでいた。
為吉はからかうような声音で、
「おとせに気でもあるのかい?」
「え、ま、まさかあ…」
「おとせのほうはまんざらでもないみたいだな」
「え、いえ…わっちは…その」
為吉が関係のない軽口を叩くほど、市松は得体の知れなさに震えあがった。
「まあいい。せっかく来たのなら、だんな様と私の履物を少し直してもらおうか?」
為吉は腕組みをして、傲然と市松を見据えた。
(やばい…ここは逃げねえと一一。こいつとまともにやりあっちゃならねえ)
右近に忠告された時は「でえじょうぶ」と笑い飛ばしたくせに、市松は今になって右近が何を伝えようとしたのかを悟った。自分のような小者とはわけがちがう。為吉は本物の…。
「さあ、奥の離れに来い。だんな様がお待ちだ」
為吉の猫撫で声がことさら無気味に思えた。
市松は懸命に逃げ道を探した。
「じゃ、じゃあ昼飯食って出直して来やすっ、裏に使う上等の皮もとってこなきゃなんねえし」
小便をちびりそうになりながら、市松は愛想笑いを浮かべて一礼した。
為吉は薄い唇をわずかに歪め、
「いや…その必要はない」
「で、でも、わっちは腹がっ…」
「なに…飯なぞ食わぬほうがよい」
為吉の口調が急に武家言葉に変わった。
切れ長の三白眼をすうっと細め、
「後で見苦しいことになるゆえ…」
「え…っ」
後ずさろうにも、もはや市松の足は一歩も動かなかった。
獲物を狙う蛇のような目で、為吉はゆっくりと市松に近づいてきた。
鈍い音とともに己の腹にめり込むを拳を、市松は一瞬見たような気がした。
痛みと恐怖で息が詰まり、市松はその場に昏倒した。
(右近…さ…ま)
声にならぬ市松の呟きが聞こえたかのように、
「用が済んだら、おまえの飼い主のところへ連れていってやろう…」
玄海は低く囁き返した。
「たっぷりと褒美をもらえ」
玄海は喉の奥から陰湿な笑いを洩らした。頭陀袋のごとく市松の身体を乱暴に肩に担ぎ上げると、市松の商売道具の入った駕篭を片手でひっつかみ、悠然と庭の奥へと歩み去っていった。
*
為吉と市松が去った後、井戸端には秋の陽がさんさんと降り注いでいた。遠くで時の鐘が九ッ(正午)を打った。台所の窓からは、うまそうに炊きあがった飯や焼き魚、青菜と油揚げの煮物の匂いが漂っていた。
つづく
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