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十月七日、未の下刻(午後三時)。小川町大名小路、高山藩邸留守居部屋。
留守居部屋はそろそろ午後の執務を終える時刻だった。
役人たちが上役に挨拶して退出し始める頃、留守居役添役・櫻田右近は入れ替わりにこちらへ向ってくる足音を聞いた。
現れた年若い武士は廊下で一礼すると、
「櫻田様」
「うむ」
「切手門(藩士の通用門)に日本橋の銀次と申す御用聞きが参っております。櫻田様にお目通りを願っておりますが…」
右近は思わず書き物の手を止めた。
(銀次だと…いったい藩邸に何をしにきた?)
「相わかった。私が出よう」
貌(かたち)を改め、右近はことりと筆を硯に置いた。
町方の銀次とは知らぬ仲ではない。友人・滝川彦四郎に引き合わされ知己となった。天満屋の寮に逗留する内藤帯刀を見張るため、右近は銀次の弟分、市松を借り受けている。だが身分から言って、心易くお互いを訪ねるような間柄ではない。
銀次が藩邸まで訪ねてくるとは、ただならぬ事態が出来したに違いない。
右近は早足で表玄関へ向い、役宅や長屋の間を抜け、藩士の通用門から表へ出た。
「櫻田様」
脇から呼びかけられ振り向けば、十手を手にした銀次が白壁の前にひっそりと佇んでいた。
「銀次…いかがした?」
「市の野郎がおとといから長屋に帰ってねえんだ…あんたの指図でどっかで張り込んでるならいいが」
「一昨日から?」
右近は低く問い返した。
「解せぬな。私は当分内藤の尾行は無用と命じたはずだ」
言い終わると同時に右近と銀次は目を合わせた。
同じ不安が黒雲のようにふたりの胸をよぎった。
「もしや…奴らにとっつかまったか」
歯噛みする銀次に、
「二晩も帰らぬとなれば…その可能性はある」
右近も眉を寄せて呟いた。
胸騒ぎがしてならなかった。今すぐにでも街へ探しに出たかったが、信輝公の容態が今少し安定するまで、私用で藩邸を離れるわけにはいかない。
(いかがする…)
白壁に囲まれた大名小路を木枯らしが吹き抜けた。落ち葉がかさかさと音をたてて足下を舞う。
右近は冷たい風を頬に受けながら瞑目し、思案を巡らせた。
信輝公が心の臓の発作を起こしたことは、依然藩邸内でも秘密にされていた。滅多なことでは外へ漏らせぬ。しかし事情も説明せずに右近が市松を見捨てるようなまねをすれば、銀次は激怒するだろう。銀次から市松を借り受けた右近としては義理がたたぬ。
「銀次、少し歩こう…」
右近は先に立ち、高山藩邸の正門から離れた。そのまま真直ぐ、板倉主計頭の屋敷と三番御火除地の間を抜け、一ツ橋御門近くの堀へと出た。
右近は辺りに人気のないのを確認し、柳の陰で声を潜めて語った。
「実はな…銀次」
武家社会にはしがらみのない町方の銀次を信頼して、右近は今の状況を包み隠さず話したのだった。
銀次は右近が話し終えるまで神妙に首を垂れていたが、
「合点しやした。市はあっしらで探しやしょう」
文句のひとつも言われるかと思ったが、銀次は全てを腹の中に納めたようだった。瞳はらんらんと燃えていたが、その怒りは右近に向けられたものではなかった。
「すまぬ…銀次」
右近は申し訳なさで胸がつまった。
「滝川の若先生にも加勢してもらいまさあ」
「ああ、そうしてくれ。あちらには手練がついておるゆえ…」
(玄海…っ)
右近は『手練』の冷酷な横顔を思い浮かべ、奥歯を噛みしめた。
うつむいたまま黙り込んだ右近に、
「市の奴…少しは役にたってましたかい?」
銀次がしみじみとした声音で問いかけた。
右近は小さくうなずき、
「まこと…よう働いてくれておる」
思わず声を詰まらせた。
市松は右近の期待以上の働きをしてくれた。
無論手当てははずんだが、市松が危険を顧みず大胆な探りを入れるのは一一。
『弁天様!』
邪気のない市松の笑みが右近の瞼の裏に浮び、目頭が熱くなった。
銀次は右近と目を合わせぬようにして、
「市は…あれでなかなかしぶとい奴ですから」
「銀次…」
「そう簡単に殺られやしませんぜ」
軽く言い添え、右近の肩をぽんと叩いた。
「じゃ、あっしはこれで」
銀次は軽く頭を下げると、右近が応える間もなく、堀沿いを小走りに日本橋の方角へと走り去っていった。
(市松っ…)
揺れる柳の枝の下にたたずみ、右近は祈るような気持で銀次の後ろ姿を見送った。
つづく
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