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翌日、鉄砲州稲荷近くで男女の心中死体があがった。
男は二十歳くらいの町人で、中肉中背、出商いの出で立ち。女は三十路半ばと思われる、商家の女中とおぼしき姿で、丸顔に豊かな肉置き(ししおき)である。ふたりは赤いしごきでしっかりと両手を結び合わせていた。
*
昨日から銀次は八方手を尽して市松の行方を探していた。聞き込みを行ったところ、新川の酒問屋を最後に、市松の足取りは霊巌島界隈でふっつりと消えていた。
内藤家の者に捕らえられたのは十中八九間違いない。天満屋の寮の敷地内に監禁されているか、はたまた他所へ連れ去られたのか。いったん番屋に戻り、天満屋の寮に踏み込む口実を懸命に考えていたところ、鰻取りの爺さんが泡を食って駆け込んできた。
「親分っ、土左衛門だ!」
「何っ…?!」
(まさか…市っ?!)
狼狽する銀次に爺さんは、
「京橋川に心中ものが浮んでおりやした! 鉄砲州のほうへ流されていったようで…」
「…よし、爺さん、よく知らせてくれた。又、行くぜ!」
「がってんっ」
銀次は十手を腰に差すと、下ッ引きの又五郎を引き連れてすぐさま番屋を飛び出した。
仏には申し訳ない話だが、『心中もの』と聞いた途端、銀次は正直ほっと胸をなで下ろした。心中死体なら市松ではなかろう。ともあれ今は現場に急がねばなるまい。銀次は北紺屋町から幸町を抜け、鉄砲州目指して走りに走った。
土左衛門の行方を追って、川岸には中ノ橋のあたりから、すでに大勢の野次馬が出ていた。
***
高山藩邸まで知らせにきた下ッ引きの又五郎を従え、右近は小川町の藩邸から騎馬で街へ出た。留守居役は公用の場合、騎馬での外出を許されている。門番は言われるままに門をあけ、右近を外へ出した。途中、大名小路を過ぎ日本橋の町家を抜ける頃には、又五郎が力尽き、馬について来られなくなった。右近は構わず先を急ぐ。途中荷車とぶつかりそうになるのを巧みに避けながら進み、川沿いの道に出てからは馬に激しく鞭をあてて疾走した。
(市松っ…)
京橋川が江戸湾に流れいろうとする手前、船乗りたちの信仰厚い鉄砲洲稲荷があった。そのすぐ脇、稲荷橋のたもとに黒山の人だかりができていた。
(あそこかっ…)
右近は手綱を引いて減速し、ゆっくりと馬を進めた。すると蹄の音を聞き付けたのか、見知った顔が人の輪の外へ出てきた。
「彦四郎…」
右近は馬から降り、滝川彦四郎と向き合った。
何も聞かずとも、友の沈鬱な面持ちが全てを物語っていた。
彦四郎は右近の手から手綱を受けとり、馬を柳の木につないだ。彦四郎は目顔で右近を促し、再び野次馬をかき分けて進んだ。血の気のひいた唇をかみしめながら右近が後に続く。ゆるやかになびく柳の下、むしろのかかった遺体の前に、御用聞きの銀次が背を向けてしゃがみこんでいた。
足音を聞き付けた銀次が肩ごしに振り返った。
「あんた…よく出てこられたな」
銀次が泣き腫らした目で右近を見上げた。
「銀次…」
右近の呼び掛けには答えず、銀次は再び地面に目を落とすと無言でむしろをめくった。
現れたのは男女ふたりの遺体だった。互いの手を赤いしごきで縛っている。
「ば、ばかなっ…!」
右近は激しく頭を振った。
「…この女はおそらく…巻き添いを食ったんでしょうよ」
「なに…っ」
銀次は大きく洟をすすり、
「市がこんな婆さんと心中するわけがねえ…それに」
変わり果てた姿となった市松の手をとった。
「心中ものが何で生爪剥がされてるんだ…ふざけた真似しやがって」
銀次は吐き捨てるように言うと、市松の着物の袷を乱暴に開いた。
「見てくれよっ…」
「う…っ」
右近は小さく呻いたきり、言葉を失った。
一瞬にして全身の血が凍ったような気がした。
市松の身体の縦横に走る傷。もはや変色し、刃物傷とも鞭の跡とも区別がつかぬほどだった。ここまで無惨に責められた跡を右近は見た事がなかった。
それもろくに武芸の心得もない、手向かいできぬ町人相手に一一。
いかに零落しようと、これは内藤帯刀の所行ではない。帯刀なら市松を打ち据え、必要なことを聞き出した後、腕の一本も折って解き放つか、殺めるにしてもひと思いにやるだろう。
斯様な真似ができるのは…彼奴以外にない。
(おのれ玄海っ一一)
右近は軋むほどに奥歯を食いしばった。はらわたが千切れるほどの怒りに、こめかみが震え、吐き気が込み上げてきた。
金のためではない。ましてや義理があるわけでもない。自分に惚れて市松は無理をしたのだと、右近は知っていた。藩の騒動に何の関係もない庶民を巻き込んだことを、右近は激しく悔やんだ。
あれほど無理はするなと言った。
周辺から探りを入れるだけでよい。相手の懐に飛び込むようなまねはするなと、口を酸っぱくして言っていたのに。
玄海には帯刀にはない、底知れぬ残忍さが潜んでいた。右近は数度の短い邂逅でそのことを敏感に感じ取っていた。それゆえ、念には念を入れて市松に忠告したつもりだった。
「市松っ…」
冷たい骸を前に右近は肩を震わせて静かに涙を流した。
ただひたすら純粋に右近の役に立ちたかった市松。
その心が市松を非業の死に追いやった。
そして一一。
市松の恋心と紙一重の忠誠を…。
(私は知っていて…利用した?)
慚愧の念が津波のごとく右近を襲った。
物言わぬ市松の亡骸を前に、銀次は弟分を惨殺された怒りに震え、右近を市松に引き合わせた彦四郎も、ふたりに何と言葉をかけてよいか、困惑の極みにあった。
やがて右近は腰の脇差をすらりと抜き、市松と女を繋いでいるしごきをふつりと断ち切った。
「許せ…市松」
右近は袴が汚れるのも構わず、市松の傍らにひざまずき合掌した。
自分のために懸命に働く市松を、憎めぬ奴と思っていた。労いの言葉をかけた気持ちに嘘はない。
市松を必要以上の危険には曝したくなかった。いかに貴重な情報が手に入ろうと、斯様な結末はつゆほども望んでいなかった一一。
(おまえは…私が殺したようなものだ)
右近は頬を涙で濡らしながら、
「この仇は必ずとってやるっ…」
市松の亡骸を前に、右近は首を垂れて誓った。
「右近…」
滝川彦四郎は大刀の束を固く握りしめ、右近の傍らで巌のように立ち尽くしていた。
*
『ほう…褒美はそれだけか』
突然、放たれた矢のごとく、揶揄するような囁きが耳に飛び込んできた。右近はかっと眼を開き、背後を振り返った。
「右近?」
訝る彦四郎を押し退け、右近は野次馬の中に声の主を探した。
空耳ではない。確かに声を聞いた。
『おまえのために丸一日も拷問に耐えたものを…抱きしめて頬ずりくらいしてやるのかと思いきや…、薄情なものだな』
「おのれ…姿を見せろ!」
「右近、いかがした?!」
彦四郎には何も聞こえぬのか、右近を不安げに見つめている。
この声は…彼奴だ。間違いない。
「玄海ッ、卑怯なり!」
右近は憑かれたように人垣をかき分け、声の出所を探した。笠をつけたり、手拭いで頬かむりした男たちの顔を、ひとりひとり確かめてまわった。
彦四郎は見かねたのか、後ろから右近の肘をとって引き止めた。
「右近、よさぬか。気でもふれたか?!」
「はなせ、彦四郎!」
「おぬしの気持ちはわかるがっ…」
「違う、彦四郎! 下手人が、この中にいるのだっ…」
野次馬の人垣の後方、稲荷を背景に、笠を目深にかぶった托鉢僧が右近の視界にゆっくりと入ってきた。僧は騒ぎを聞き付けたのか、仏に向って南無阿弥陀仏を唱えていたが一一。
突然、笠の下、僧は薄い唇をわずかに歪めて笑った。
(あれかっ…?!)
僧は右近に挑むかのように、わざと笠を持ち上げて顔を見せた。
「おのれ、よくもぬけぬけと!」
我を忘れた右近が刀の束に手をかけたとき、急に周囲がざわついた。
「下がれ下がれいっ」
奉行所の同心が部下を引き連れて出張ってきたのだ。
托鉢僧が墨染めの衣を翻した。
「待てっ…」
右近は野次馬をかき分け、僧を追いかけようとしたが、
「うっ…」
突然人波に押され、足下に気をとられた。
押し流されそうになるのをやっとの思いで踏み止まり、右近は彦四郎と人垣の外へ出た。
「彦四郎、さっきの托鉢僧を追えっ!」
右近は鋭く叫び、先に立って稲荷の境内に駆け込んだ。
彦四郎はわけのわかぬまま右近の後を追う。
右近は玉砂利を蹴散らし、表も裏もくまなく探したが、僧の姿は忽然と消えていた。
右近は息を切らして本殿正面に戻ると、柳眉をつりあげて虚空を睨んだ。
「玄…海っ」
胃の腑の奥から絞り出すように呟き、右近はがっくりと玉砂利の上に膝をついた。
「右近…しっかりせいっ!」
彦四郎が後ろから右近の両肩を掴んで揺すぶった。
友の親身な声音も、右近にはどこか遠いものに聞こえる。
鉄砲洲稲荷の門前を、からっ風が砂埃を巻き上げ吹き抜けていった。
つづく
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