二十五の巻
「狩」6


by 戸田采女

 天満屋の女中・おとせと雪駄直しの市松の死は、銀次の訴えも空しく、ろくに吟味もされぬまま『相対死』として処理された。

 おそらくは何処からか奉行所に、金が流れたか、圧力がかかったのだろう。

 事件と前後して、内藤帯刀は弟の嶺次郎を連れて天満屋の寮を引き払った。銀次が天満屋の日本橋店に乗り込み、帯刀らの所在を主人に問いただしたところ、廻船問屋・島崎屋の船で上方へ発ったという。

 いずれにせよ、町方の銀次が武士の帯刀をお縄にすることはできない。せめて実行犯の『為吉』だけでも捕らえたかったが、
「はて…うちには為吉などという手代はおりませぬが。何なら、店の者たちを全員お調べくださってもよろしゅうございますよ」
いきりたつ銀次を前に、初老の天満屋は余裕の笑みを浮かべた。

 決して華美ではないが上等の紬をさらりと着こなす、天下の豪商を前に、いかに声を荒げ恫喝してみても、悲しいかな銀次は虫けら同然だった。奉行所というお上の権威なしに、御用聞きの銀次がひとりで食い下がっても埒が開かぬ。

 敗北感にまみれ、銀次は天満屋を後にした。

                    *

 身寄りのない市松の遺体は、銀次が引き取り荼毘に伏した。初七日まで滝川彦四郎と舅の勘十郎、下ッ引きの又五郎など、市松のごく親しい者たちが毎夜銀次の長屋に集まり、団子、ぼた餅を持参して仏前に供え、回向をした。

 初七日が過ぎた後、銀次と滝川彦四郎はふたたび鉄砲州までやってきた。結局十分なお調べもなく、市松が何処で殺されたのかもわからず終いだった。ふたりは稲荷橋の上から川に花を投げ込み、市松と巻き添えを食った哀れな女中、おとせの冥福を祈った。

 銀次は欄干にもたれ、茜色に染まる空を見上げて言った。
「若先生よう…市の奴、あの別嬪さんに惚れてたのか?」
「さて…それは」
彦四郎は静かに首を左右に振った。
「莫迦な奴だぜ…まったく」
吐き捨てるように銀次は言ったが、天を仰いだ瞳は涙で潤んでいた。

 彦四郎は藩校時代の右近を思いだしていた。
花の香が匂い立つような美しさを、秘かに恋慕っていた者は少なくない。

 立派に成人した今も、右近は昔とは違った意味で人を惹き付ける。もはや紅顔の美少年ではなくなったが、刻んだような美貌と憂いを含んだ眼差しは、今でも多くの男女を虜にするに違いない。

 昔よりは人あたりが良くなったとはいえ、自分に不埒な目的で近づく者には相変わらず冷たい右近だ。

 そんな右近に信頼され、市松は探索をまかされた。右近に認められ、よくやったと褒められたい一心で危険な橋を渡ってしまったのだろう。

 彦四郎にはわかるのだった。

 自分とて、かつて右近の『友』のひとりに加われたとき、どれほど誇らしく思ったか。

 誠之進にとって替わろうとは、ただの一度も考えたことはないが、今でも右近が自分を必要とするなら、全力でそれに応えようとするだろう。
 
 市松の一途な思いの代償はあまりに大きかったが一一。

「罪な男だな…」
「…右近のことか」
「本人は何も頼んだわけじゃねえって言うだろう。相手が勝手に尽くすだけだと。だが奴に惚れた人間はきっと皆…」
いいかけて銀次は口をつぐんだ。
「…いや、すまねえ。若先生のご友人を悪く言うつもりはねえんだ。ただ…」
「ただ?」
「市の奴が哀れでな…」

 銀次はそう呟くと、遠い目をして橋の上から眼前に開けた江戸湾を眺めた。彦四郎も銀次の視線の先を追う。入り江には無数の帆柱が林立し、白波が船体に打ち寄せている。その上をうるさいほどにかもめが飛び交っていた。

 市松はまだ二十歳そこそこだった。密偵の真似事などしなければ、今日も明日も、雪駄直しの道具を抱えて、江戸の町をのんびり練り歩いていたはずだ。こんな形で命を終えるなど、本人も兄貴分の銀次もさぞかし無念なことだろう。

  市松を哀れと思う気持ちは彦四郎も同じだった。
「墓は…いずれ適当な寺に頼んで、右近が建てると言っている」
彦四郎の言葉に銀次は目をみはった。
「当たりめえだ。それくらいはしてもらわねえとなっ…」
「仇は私と右近で必ずとってやるゆえ…」
「若先生っ!」
銀次の苦みばしった顔が男泣きに歪んだ。

 彦四郎は唇を真一文字に引き結び、銀次の肩にぽんと手を置いた。

 橋の上、長い影を落とすふたりの脇を、荷車が一台、慌ただしく駆け抜けていく一一。




 稲荷橋から歩み去る銀次と彦四郎を、船着き場から凝と見つめる視線があった。
「望むところよ」
小舟の船頭に身をやつした男は低く呟くと、前屈みになって舫い綱を解いた。
男は器用に竿を操り、小舟は川面を対岸へとすべるように流れていく。
「次は藩邸でお目にかかろうか…右近殿」

 『男』のこう笑と共に、小舟は夕映えの彼方へと消えていった。


『狩』 了


「狩」5「遠雷」1
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