二十六の巻
「遠雷」1




by 戸田采女

  市松の死は右近の心にも深い傷を残した。

 信輝公御不快の今、長時間私用で藩邸を留守にするわけにもいかず、市松の通夜や弔いに出ることもままならなかった。銀次や彦四郎に任せきりな自分を恥じながら、右近は小川町の藩邸でひとり静かに市松の冥福を祈った。

 市松の死と前後して内藤帯刀が上方へ発ったことを、右近は数日後銀次から聞いた。玄海がそれにつき従ったのか否かは不明だ。

(外道め…。今度会ったら生かしてはおかぬ)

 信頼する配下を嬲り殺しにされたのだ。右近の恨みは深い。市松を手にかけた者への憎しみだけでなく、右近は自責の念にも苛まれていた。

(私に関わったばっかりに一一)

 帯刀が江戸で誰に会っているのか、初めはそれがわかればよいと考えていた。それなら帯刀に顏に知られていない江戸の町人が好都合と、堀田も賛成してくれた。しかし、市松はよく働いた。右近の期待以上に帯刀の動きをつぶさに調べあげてきた。右近は市松が思いのほか使える奴だと思った。

 そこで…自分にも欲がでた。

 玄海のことは警戒しつつも、この先、内藤帯刀を牽制するため、弱味や秘密をできるだけ握っておきたいと思わなかったか? 

 どう取り繕っても自分が市松を利用したことは否めない。迂闊に動いた市松が莫迦なのだと、うそぶいてしまえれば楽だったが、右近はそこまで鉄面皮になれなかった。

(斯様な仕事に…二度と町人は使うまい)

 右近は固く心に誓った。

 市松に身よりがないのなら、せめて自分が墓を建ててやろう。
(おまえのことは忘れぬ、きっと命日には花をたむけにいくゆえ一一)
右近は未だその辺りを彷徨っているやもしれぬ市松の魂に語りかけた。

『それもありがてえけどよ。できたらちっこいのでいいからよ。位牌でも作って、弁天様の側においてくんねえかな…』

 右近の耳の奥で照れたような声が聞こえた。
(市松っ?)
振り返って部屋中見回したが、行灯のほの暗い空間に市松の姿はなかった。

 右近はふたたび文机の前に端座すると、静かに目を閉じた。
「位牌か…」
年に一度などと薄情なことを言わず、側に置いて日々線香のひとつもあげてやらねば…、と右近は思い直した。

「承知した」
右近は鼻の奥が熱くなるのを感じながら、小さくうなずいた。




 だが藩主・信輝公をとりまく状況は刻々と変わり、右近も市松の死を悼んでばかりもいられなかった。高山藩邸内では新たな緊張が高まっていた。

 十月十二日 亥の下刻(午後十一時)。
右近は上司の高山藩留守居役・堀田又左衛門とともに、一時、藩主居室のある中奥から藩邸敷地内の堀田の役宅に戻っていた。

 連日の睡眠不足から、高齢の堀田の顔には疲労が色濃く漂っていた。無理もない。一度は隠居し致仕を願い出た身なのだ。右近も市松の死で深い悲しみに沈んでいたが、今は若い自分が堀田を支えねばと叱咤した。

 つい先刻、国許の筆頭家老・溝口主膳から堀田に早飛脚が届いた。知らせを受け、ふたりは役宅まで一時戻ったのだ。右近の白い頬も緊張で強張っていた。

 ふたりは書院に腰を落ち着け、堀田はさっそく書状に目を通した。
堀田が読み終えたのを見計らい、
「して?」
右近は待切れずに膝を乗り出した。
堀田は小さくうなずきながら、
「三郎ぎみ御一行が八日早朝、国許を発たれた。供には強行軍に耐えられる若者ばかりを選んだという。早ければ数日後には江戸に入られるだろう」

「…それは祝着至極にござりまする」
右近は静かに睫を伏せ首肯した。

 言うまでもなく、信輝公は三郎の到着を今日か明日と待っている。三郎にひと目会えば、殿様は持ち直すやもしれぬと、右近ですら本気でおもう。

 三郎には後見の誠之進が付き従っているはず。いよいよ再び誠之進と三郎に相まみえることになるのか。再会の喜びと嵐の予感が、右近の胸中で遠雷のごとく鳴り響いた。

 せり上がってくる胸苦しさに、右近は一度大きく息をついた。

「殿はすでに御遺言状をしたためられ、私と武村(江戸家老)で内密に保管している」
「左様にござりましたか」
「今まで隠していてすまなんだ」
「いえ…」
右近は首を小さく左右に振った。
秘密を分かち合うのは最小限の人数がよい。
武村と堀田がふたりだけで事を進めるのは当然だ。

「堀田様…殿の御遺言ですが」
今さらだが、右近はひとつ確かめておきたいことがあった。
「家督は…当然、惣一郎様に」
堀田は白髪頭をたてに振った。
「聞くまでもなかろう。国許の主膳殿もそのおつもりじゃ」
右近は静かに首肯した。
「で…三郎ぎみは」

 堀田は正面から右近と目を合わせた。
右近の心には何も疚しいものはない。
今さら三郎を本田家に押し付けようとも思わない。
ただ一一。

 言い訳めいた独白を堀田に読まれたのか、
「それは殿のご遺言状が公開された後、惣一郎様がお決めになる」
堀田がいつになく厳しい口調で言った。
「わ、私は…」
「御事(おこと)は三郎ぎみの件に関わらぬほうがよい」
「堀田様っ?」
思わず小さく叫んだ右近に、
「惣一郎様にお任せすることじゃ」
堀田は諭すような声音で言い添えた。

「…承知、つかまつりました」

 右近の誠之進への積年の思いを、堀田が知っているのかどうかはわからない。ただ誠之進への恋は終わっても、三郎を疎ましく思う右近の本音に、堀田は気付いていたのかもしれない。いずれにせよ、右近の心の平穏を願っての諫言だろう。素直に耳を傾けるべきであった。

 かしこまり沈黙した右近を前に、堀田は話を元へ戻した。
「さて…殿の病を奥に隠しておくのは、このあたりが限度と見るが」
「私も…そう考えておりました」

 信輝公がお倒れになってから十日あまりが過ぎていた。

 三郎の養子縁組の一件で、正室・牧の方と信輝公の間は完全に冷えきっている。これまで殿様の病を奥に伏せてきたのは、殿様を心静かに休ませてさしあげたい、ご遺言状を右筆に代筆させるまで、奥の干渉を避けたいという堀田や側用人の青木、江戸家老・武村の配慮だった。

 信輝公の病状は一進一退で、何とか持ちこたえておられるが、誰の目から見ても衰弱は著しい。命ながらえたとしても公務に復帰するのは絶望的だった。

 信輝公は未だ存命中なれど、嫡男・惣一郎はもはや三十歳。立派な成人である。早々に家督し藩主となるのが自然な流れに思えた。となれば、これ以上、正室・牧の方をつんぼ桟敷きにおいておくわけにはいくまい。

「国許の主膳殿にもはかり、早急に…幕府に届けを出さねばならぬ」
堀田は苦い決断を下そうとしていた。 
「はい」
右近もその痛みを分かち合う覚悟を決めた。
「御事…明朝、中屋敷に若を迎えにいってまいれ。奥へは儂から伝えよう」
「…はっ」
右近は堀田の前に手をつき、深々と頭を下げた。

 無論、今でも殿様が回復されることを心から祈っている。だが一方で、信輝公がお倒れになった日から、惣一郎が藩主となるその日のために、右近は静かに心の準備をしていた。

(惣一郎様…)

「右近殿…殿が隠居され正式に代替わりとなれば、儂もお役目を退く」 
「堀田様っ」
思わず見上げた右近に、
「御事が高山藩留守居役として、幕府や諸藩との外交の全権を担うのだ」
堀田は静かに告げた。
「はっ…」
右近が慎んでそれを受ける。
「御事ならやれるな」
慈愛に満ちた声音で堀田が念を押した。

 このひと月。堀田は右近に留守居役の心得を一から教え、組合の寄合にも伴い、『よろしくお引き回しのほどを』と先輩諸氏に紹介した。堀田は右近が留守居役としてつつがなく勤められよう、できる限りのお膳立てをしていったのだ。

 もはやこれ以上甘えることはできぬ。

 留守居役の失態は藩主の命取りにもなる。

 己の双肩にかかる重責に、右近は身のひきしまる思いで低く首を垂れた。


つづく


「狩」6「遠雷」2
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背景は「夢幻花亭」さんからお借りしています。


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