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翌朝、中屋敷に現れた右近を、惣一郎は意外なほど冷静に迎えた。仙之丞に案内され右近が惣一郎の居室に参上すると、上段の間に座した惣一郎は右近と静かに目を合わせた。
「息災であったか」
「お陰さまを持ちまして」
「疲れがたまっておるのではと案じておったが…」
右近は小さく首を振り、
「…鍛えておりますゆえ、心配無用にござります」
「…そうであったな」
惣一郎は右近を見つめながら小さく笑った。
「庭へ…出ようか」
惣一郎の誘いに右近がうなずけば、
「仙之丞、履物をもて」
「はっ」
小姓頭の仙之丞にふたり分の履物を用意させ、惣一郎は自ら先にたって縁側から庭へ降りた。
人払いをし、惣一郎は右近ひとりを従えて庭をそぞろ歩いた。
「今年も菊をはじめ萩や女郎花、秋の草花がよう咲いた」
「左様にござりますか」
右近は花の名残りを眼に納めながら、静かにうなずいた。
中屋敷は四季折々の花が目を楽しませてくれる。菊のような華々しさはないが、可憐な秋草が風に揺れる風景も、右近の好むことろであった。晩秋に近づいたこの時期、血のような紅葉や黄金色の銀杏の落葉が、灰色の延べ石を鮮やかに彩っていた。
ふたりは小道を奥へと進み、築山のある池のほとりにやってきた。
一歩前をいく惣一郎は扇を弄びながら、
「そなたが直々に迎えに来るとは…父上のご容態が?」
肩ごしに尋ねた。
「いえ、今朝は粥を少々召し上がられ、今のところは小康状態かと」
「左様か」
安堵の吐息とともに、惣一郎は伏目がちにうなずくいた。
「なれど本日は、私を迎えにきたのであろう?」
「御意」
「爺にも考えがあろうて、言われるままに父上のお見舞いは遠慮しておったが…母上にもこれ以上隠してはおけぬ」
「仰せの通りにござります」
右近は静かに首を垂れ、
「惣一郎様」
「何じゃ」
右近は惣一郎の前にまわりこんで膝を折った。
主人を見上げ、改まった口調で、
「いかにも某、本日は若殿を藩邸にお連れすべくまかり越しましたが、若殿に置かれましては、そのまま…上屋敷にお留まりいただくやもしれませぬ。どうかそのお心づもりを」
「何をいう…。右近、不吉な事を申すな!」
思わず気色ばんだ惣一郎だったが、
「そうではござりませぬ」
右近がぴしりと応じた。
当惑を隠せない惣一郎に、右近は静かに続けた。
「確かに殿の御病気は予断を許しませぬが、我ら皆、心からご快癒をお祈り申し上げております。さりながら、心の臓の病には養生が何よりと聞きます。恐れながら、ここは思いきって殿を藩主の重責から解放してさしあげるのが…」
「堀田の爺がそう申すか」
「御意」
「父上を隠居させてやれと…そういうことか」
「惣一郎様。私も…その時が来たと拝察いたします」
「もはや逃げられぬというわけか」
惣一郎は微苦笑を浮かべ、広げた扇を音をたてて閉じた。
右近は延べ石に片膝をついたまま続けた。
「堀田様も…殿の御隠居とともに、お役御免を願い出られるとのこと」
「爺が…?」
「堀田様が退かれた後、微力ながらこの櫻田右近、全力で惣一郎様にお仕え申し上げる所存にござります」
惣一郎は瞑目し、全身を研ぎすませて右近の言葉を聞いていた。
ひと月前、右近は鎌倉でも同じことを言った。江戸留守居役として、藩主の懐刀の役を果たそうと。
(それが、ひとかたならぬご寵愛にこたえる術と…心得まする)
右近は息を詰めて惣一郎の返答を待っていた。
「…ならば余も与えられた役目を引き受けよう」
「惣一郎様」
「なに、藩主の暮らしもそうつまらぬものではなさそうだ」
場にそぐわぬ軽い口調を訝り、右近は主人を見上げた。
「登城の際はそなたが同行するのであろう?」
「はっ…恐れながら」
「それは楽しみじゃ」
惣一郎が片頬で笑った。
「諸大名が歯噛みして羨む顔が目に浮ぶのう…」
何を言うかと思えば。大名が皆、衆道の気があるわけでもなし…。それに自分は留守居役。美童をみせびらかして歩く大名を気取られては迷惑千万。
右近は呆れつつ苦笑したが、のしかかってくる重荷を受け止めつつ戯れ言で紛らわそうという、惣一郎の心情も理解できる。これはこれで藩主としての責任を引き受ける覚悟を示したのだろう。
「私も惣一郎様も、新米同士、二人三脚でござりますな」
「そうじゃな」
ふたりは軽い笑い声をたてた。
「では若殿…お仕度を」
慎んで首を垂れる右近に、
「右近…一刻、いや半刻でよい」
「は…」
燃えるような枝垂れ紅葉の下、惣一郎はそっと身を屈め、片手で右近の頬を撫でた。
惣一郎は両手で右近の肩に触れ、立つように促した。
伏目がちに佇む右近を前に、
「斯様なときに不謹慎とは存ずるが…そなたが上屋敷に入って、はやひと月になる…」
「若殿…」
「会いたかったぞ…」
胸の奥から寂しさを吐露した。
惣一郎が一歩前へ踏み出し、馴染んだ香のかおりが右近の鼻腔をくすぐった。
ひとたび力強く着物の胸に抱き込まれてしまえば、右近の胸も懐かしさに甘く疼いた。
「惣一郎さま…」
右近は惣一郎の背にそっと両手を回し、控えめに抱き返した。
不謹慎というならば、配下の市松を亡くしたばかりの自分こそ…だったが。今は抱きしめる腕の暖かさを拒みたくなかった。
市松を死なせた自責の念、再び誠之進と相まみえることへの不安、そして両肩にのしかかる留守居役の重責。
ひとりで背負えぬわけではない。決してそれらに押しつぶされたりはせぬ。なれど一一。
心の奥深くまで惣一郎の温もりが染み入ってくる…。右近は惣一郎の胸元に頬を寄せせ、小さく息をついた。
小春日和に誘われ会式桜の蕾が綻ぶように、張り詰めたものがふと緩んだ瞬間だった。
耳朶に触れんばかりの距離で、
「よいな…右近」
惣一郎の唇がささやいた。
***
十月十二日午後。
高山藩結城因幡守嫡男・惣一郎は側近とともに上屋敷に入った。父君のお見舞いという名目だったが、水面下では代替わりに向けての動きが始まっていた。同日、信輝公の病が奥を含めた藩邸中に公表されると、藩主交代にともない大幅な人事刷新があるやもしれぬと、藩士の一部で不安の声も聞かれた。
中でも、藩士たちの関心をもっとも集めたのは一一。
「留守居の堀田様も殿とともに隠居されるようじゃ」
「堀田様は殿のたっての願いでお役目に復帰されたが…此度こそ潮時じゃろう」
「いよいよ櫻田右近が留守居役か…」
「いくら有能とはいえ、あの家格で添役ならともかく正使とはな」
「江戸家老の武村様はもはや高齢。となれば、惣一郎様の寵愛深い彼奴が、第一の権臣として力を振るうのは間違いない」
「くそっ…文字通り尻奉公でのし上がったくせに」
「はははっ。おぬし昔は大層右近に執心しておったではないか。それとも袖にされた恨みか?」
「ほざけっ!」
「くくくっ…まあそういきりたつな。我らも早速右近に進物でも送っておいたほうがよかろうな」
「ふんっ…どうせ突っ返されるのが関の山よ。やつは我らのことなど眼中にないわ」
邸内は右近の噂でもちきりだった。だが早すぎる出世は人の妬みを買う。それが単なる酒の席での愚痴に終わるか、藩邸内で一つの大きな流れとなって結集するのか?
その答えを知るには、いま少し時を待たねばなるまい。
遠雷 了
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