二十七の巻
「碓氷峠」1




by 戸田采女

「三郎ぎみっ、もっと召し上がりませぬのか?」
「うん…」
うなずく三郎の皿には、きなこ餅がまだ半分以上残っていた。
「ではこちらのくるみ餅はいかがです? 美味ですぞ。ほれ、ひとくち召し上がれ」
満月のような丸顔を破顔させ、乳兄弟の源蔵が自分の皿を三郎の目の前に差し出した。
「では少しもらおうか…」
三郎は薄く微笑むと、申し訳程度に箸をつけた。

 軽井沢の宿から上がること二十二町。高山藩主、結城因幡守信輝の三男、三郎信尭と従者の一行は、中山道最大の難所、信濃と上州にまたがる碓氷峠に達した。十月の碓氷峠は錦に染まった木々が葉を落とし始めていた。山頂は冷気が甚だしく、厳しい冬の訪れを予感させた。

 名物・力餅で知られる峠の茶屋に辿り着いた一行は、熱い茶と餅で人心地ついたところだった。三郎の後見、溝口誠之進は床几(しょうぎ)に腰かけ、三郎と源蔵のやり取りを目を細めて見守っている。此度は決して楽しい旅ではなかったが、陽気でとぼけた性格の源蔵の存在が一行の張り詰めた空気を随分和らげてくれた。

(足手まといになるかと思うたが…源蔵をつれてきてよかった)

 当初、誠之進は太めで体力のない源蔵を随員から外そうとした。

『おまえのような足弱が、信越国境を一日で越えられるか! 大人しく屋敷で待っておれ!』
『誠之進様より若い私をつかまえて、足弱とは失敬な! 此度は何が何でもお供させていただきますっ!』
『ならば、音をあげついて来れぬときは、途中の山中に置きざりにする。それでもよければ…勝手について来い。決して足手まといになるな!』

 出立前の源蔵と自分の会話を、苦笑まじりに思い出す誠之進であった。

 三郎の初めての江戸入りにもかかわらず、警護の若党、荷物持ちの足軽や乳兄弟の源蔵、総勢十名足らずの供回りだった。人員を最小限に絞って旅を急ぐには理由があった。

 二週間前、江戸で父君、因幡守信輝公がお倒れになった。

 江戸留守居役・堀田又左衛門から内密に知らせを受けた誠之進は、急遽、随員を選び、三郎を連れて江戸へ向けて出立した。旅の途中、父君の病を知らされた三郎は、少しでも旅程を縮めたい一心で、乗り物を降りて自ら徒歩でいくと言い張った。藩主の子息が家臣とともに街道を歩くなど前代未聞であったが、誠之進は三郎の気持ちを汲み、乗り物を関川宿の本陣・加賀屋に残して信越国境を超えた。

 若君とはいえ、三郎は仔細あって九歳まで関川村で育っている。幼い頃は野山を駆け回り、城へ引き取られてからも、誠之進の指導のもと武芸に励んできたのだ。

(世間のひ弱な若君とはわけが違う…。戦国の世なら、家来の先頭にたって敵陣に攻め込む若武者じゃな)

 身びいきかもしれぬが、誠之進はそんな三郎を誇らしく思った。
 
 父君・信輝公は心の臓の発作を起こし、九月末以来床につかれている。

 江戸からの書状がついた時点では小康状態とのことだったが、いつまた大きな発作に見舞われるやもしれぬ。

(殿…三郎ぎみが到着するまで、何とか持ちこたえてくだされ…)

 峠の茶屋からは東国一帯が一望のもとに見渡せる。誠之進は拝領の『和泉守国貞』の束を握りしめ、江戸の方角に向って懸命に祈った。

「誠之進…」
呼び声に振り返れば、三郎が脇に立っていた。
誠之進は物言いたげな黒目がちの瞳を見上げ、
「若、もう十分に休まれましたか?」
「うむ」
「足は…痛みませぬか?」
「大丈夫じゃ」
言葉少なにうなずく三郎の気持ちは痛いほどわかっている。

 先を急ぎたいのだ。一刻も早く、父君の元へ辿り着きたいのだった。三郎が行くというのなら、他の者が休み足りなくても出立しよう。いざとなればついてこれぬ者は後に残してもいい。警護なら自分ひとりでも十分だと、誠之進は腹をくくっていた。

 誠之進は床几から立ち上がり、
「皆の衆、そろそろ出立じゃ」
若党や足軽に向って呼びかけた。
源蔵も食べかけのくるみ餅をのみ込むと、容(かたち)を改めて立ち上がった。

 刎石山の険しい山道を登り、ようやく峠を超えたのだ。本来ならもう少し休ませてやるのが人情だった。が、さすがに誠之進が選りすぐった随員だけのことはある。誰ひとり不平を言わず、涼しい顔で草鞋の紐を結び直して仕度を整えた。

「参りましょう、三郎ぎみ、誠之進様」
三郎の側近であり藩校時代からの学友、神原倫太郎がきりりとした笑顔でふたりを促した。
塗笠をかぶり終えた誠之進は面をあげ、朗々とした声で一行に告げた。
「本日は坂本(次の宿場)ではなく、松井田まで進みたい。皆の衆、疲れているところすまぬがよろしくたのむ」
「承知」
「先を急ぎましょう、誠之進様」
口々に答える若党に誠之進は満足げにうなずいた。

 三郎を囲む一行は、疲れを見せぬ軽快な足取りで碓氷関所への道を下った。


つづく


 ちょっとここで中山道の宿場町について簡単な御案内。

板橋 (江戸) …… 浦和 武蔵国 … …大宮 武蔵国 ……深谷 武蔵国……新町 上野国 ……高崎 上野国……安中 上野国 ……松井田…坂本…碓氷峠…… 軽井沢 信濃国 …… 追分 信濃

 これより先は北国街道で越後へとつながります。


「遠雷」2「碓氷峠」2
青嵐・目次 | 書庫目次


ご感想など、BBS感想フォームでいただければ大変嬉しく思います。

背景は「空色地図」さんからお借りしています。


Copyright © 2004 戸田采女
All rights reserved.