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十月十四日。江戸、小川町。高山藩邸中奥。
「殿、溝口誠之進が軽井沢から早飛脚で知らせて参りました。『明日にも碓氷峠を越え…』とありますゆえ、三郎ぎみご一行は昨日あたり、碓氷の関所を通られたのでは?」
信輝公の枕頭に控え、留守居役・堀田又左衛門が書状を片手に嬉しげな声をあげた。
「ま、まことか…」
白絹の夜具に横たわる信輝公は、堀田の侍る側にわずかに首を傾けた。
「この分ですと、二、三日うちにもご到着かと」
堀田は力付けるように殿様に向ってうなずいた。
起き上がる力はないものの、三郎の到着が間近に迫り、信輝公の目にはわずかながら力が戻ってきた。
「ようござりましたな、父上」
堀田の向いに控える嫡男・惣一郎が、穏やかな笑みを浮かべて首肯した。
「惣一郎…」
病に落ち窪んだ目を潤ませ、信輝公が嫡男を見つめた。
「我らも三郎を迎える用意をせねばなりませぬ」
惣一郎は父君の手をとり、
「ご案じめさるな。この惣一郎に万事お任せくださりませ」
*
一昨日、上屋敷に入った惣一郎は、とりあえず中奥の一角に居を定め、仙之丞ら側仕えの者たちも空いているお長屋へと入った。
同日午後、信輝公の病が奥を含めた藩邸中に公表された。母の気持ちを慮った惣一郎は、夕刻、正室・牧の方の居室を訪なった。
京・嵐山の秋を描いた華やかな屏風の前で、牧の方はいつになく沈んだ表情で脇息にもたれていた。その傍らで、お年寄の藤江が啜り泣いている。
「惣一郎殿。殿は…もはや隠居を余儀無くされるほど、さようにお悪いのか?」
「今朝は粥を召し上がられ、ただいまは静かにお休みです。ただ心の臓の病は養生が要りまするゆえ…」
牧の方は小さく溜息をつくと、
「いつ…お倒れになったのじゃ」
「具合が悪くなられたのは二、三日前とか」
言葉を濁した惣一郎だったが、牧の方は惣一郎の目を見つめ、左右に頭を振った。
「そなたまで母をたばからずともよい。どうせ堀田や武村の思惑で、しばらく殿の病を伏せておいたのであろう?」
「そのようなことは…」
薄く微笑んで否定しながらも、惣一郎は良心の呵責を感じていた。
正室でありながら蚊帳の外におかれた母を哀れに思う。なれど藩の利益を考えれば、この重大な局面で母の実家、田安家の介入を裂けたいという、堀田はじめ重臣の考えも理解できた。
惣一郎は母の前に居住まいをただし、
「今宵より私も中奥で寝起きいたします。明朝、父上のお見舞いにいらしてくださりませ。私も御一緒します」
慎んで首を垂れた。
「惣一郎殿…そなたの気遣い、嬉しく思いまするぞ」
瞳は憂いに満ちていたが、牧の方は息子にむかってわずかに唇を綻ばせた。
*
大名家において、殿様の病や死が即座に公表されることは稀だ。代替わりの時、重臣たちの様々な駆け引き、思惑が交錯するのが常だった。高山藩は既に惣一郎が世嗣として将軍家にお目見えを果たしており、相続問題は起こり得ないはずだ。実際、信輝公の遺言書にもしかとそのことが記されている。
しかし惣一郎のひざ元である江戸藩邸はともかく、国許において信輝公の致仕を公表するのはより慎重を期さねばならなかった。一昨年、『半知御借上』(藩士の俸給50%削減)が施行されたとき、世嗣・惣一郎の国許での評判は決してよくなかった。一部中級藩士の間では、国許の困窮の一因は江戸藩邸の入費、より端的に言えば、牧の方とその息子、惣一郎の浪費のせいだとまで言われていた。
万にひとつの可能性ではあるが、江戸藩邸に、惣一郎親子に不満を抱く一部の藩士が、国許で人気の高い三郎を藩主としてかつぎだそうとするやもしれぬ。
無論、筆頭家老・溝口主膳の息子、誠之進が後見をつとめている以上、三郎がこのような企てに乗るはずもなかったが、ひとたび騒動が起きればどのような形で拡大するかわからぬ。
国許の筆頭家老、溝口主膳も殿様の病を早い段階から知らされていたが、信頼できる一部の中老と内密にはかり、中級藩士たちの動向を探りつつ、代替わりの旨を公表する時期を慎重に考えていた。
*
信輝公の隠居が決まり、ここ一両日、留守居役の堀田と右近は多忙を極めていた。今日も月番老中・阿部正右の屋敷に出向き、病を理由に信輝公の致仕を願い出た。さすがに老中への挨拶となれば、留守居役の後任に決まったとはいえ、未だ添役の右近ひとりを差し向けるわけにはいかない。老中へのお目見えも兼ね、堀田は右近をつれて阿部邸を訪れた。
酉の刻(午後六時)を過ぎ、右近は堀田とともに藩邸に戻った。長屋で右近が着替えていたところ、入口の木戸を叩く音がした。
「誰ぞ?」
「右近様、仙之丞にござります」
「開いているぞ、入れ」
入口の戸がするりと開き、仙之丞が顏を覗かせた。
右近の帰りを見計らい、夕餉の誘いにでもきたのかと思いきや、
「右近様、一大事にござります」
声を潜めて鋭く言うと、外をうかがった後、ぴたりと戸を閉めた。
右近は着流しに手早く帯を巻き付け、座敷から板の間へ歩みよった。
「何事じゃ、仙之丞。ともかくあがれ」
仙之丞はかなり慌てた様子だったが、とりあえず命じられたまま草履を脱いで板の間に上がった。右近も仙之丞の向いに腰を降ろした。
「右近様、先程、台所で気になる噂を耳にしました」
「うわさ?」
「出入りの商人が料理番相手に話しておりましたが…。碓氷峠で崩落事故があったとか」
「なに?」
碓氷峠ときいて右近は息を詰めた。
「碓氷関所の手前、刎石山からの上州への下り道だそうです。折悪く通りかかった旅人が巻き込まれたらしく、中には人馬ともども谷底へ落ちていった者もおるそうで…」
「…正確にはいつのことじゃ?」
「…はきとはしませぬが、碓氷から江戸までの日数をかんがみれば、四、五日前のことでしょうか」
右近の胸に不安が墨を流したように広がった。
それを読んだか、仙之丞が戸惑いながら切り出した。
「右近様…よもやとは思いまするが一一」
右近は睫を伏せて押し黙った。
三日前、誠之進からの書状が軽井沢宿から届いたことを、右近は堀田から聞いた。宿場を発つとき書状を飛脚に託したのであれば、軽井沢を発った翌日には碓氷の関所あたりを通過しているはず。
(まさか…!)
事故が四、五日ほど前だとすれば、誠之進らが碓氷峠を越えた時期と微妙に重なる。軽井沢からの便りの後、一行から何の知らせもないこということは…。
「御一行は事故の前に関所を越えられたやもしれぬ」
それも十分考えられると、右近は己に言い聞かせた。
「だとよろしいのですが…」
案ずるような瞳で仙之丞が引き取った。
もしくは崩落に巻き込まれ、全員命を落としたか。
(まさかそのようなこと一一)
ありえぬ、と右近は頭をふった。
(万が一、誠之進が落命したのなら、必ずや虫の知らせがあるはずだ。誠之進が私に黙って逝くなど一一)
右近は息苦しさを堪えつつ、
「仙之丞、藩邸に何の知らせもないということは、ご一行が無事である可能性のほうが高い。この話、確かなことがわかるまで決して広めてはならぬぞ」
「な、なれど夕餉どきで、台所には菜や魚を求める沢山の藩士がおりました。もはや大勢の耳に入っておりまする…」
困ったように口ごもる仙之丞を、
「ばかもの。万一、不確かな情報が殿のお耳に入ったらいかがする!」
右近は柳眉をつり上げて思いきり叱責した。
*
凶事の噂は野火のごとく瞬く間に広まる。
右近の危惧は数刻後には現実のものとなった。
つづく
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