二十七の巻
「碓氷峠」3




by 戸田采女

 十五日の戌の刻(午後8時)、堀田又左衛門がその日最後のご機嫌伺いに参上したとき、信輝公は夜具の上に起き上がって薬湯を飲んでいた。夕餉も粥と鰈の煮付けを少々召し上がられた様子で、小姓たちの表情もどことなく明るい。

 薬湯を飲み終えた信輝公が小さく息をついた。
「又左…三郎たちは今頃どのへんであろう?」
「もはや武蔵の国には入られたはず。早ければ明日にでも殿の御前に…」
「うむ。三郎が到着したら、すぐにもここへ連れてきてほしい」
「心得ましてござります」
堀田は皺だらけの目元を和ませ、一礼した。
「堅苦しい取り次ぎなど無用ぞ。門番にもよう言うておいてくれ」
「何事も殿のお心のままに」
信輝公はふと表情を緩め、
「誠之進が武家の作法は一通り教え込んであるが…何分、田舎育ちじゃ。江戸定府のそなたらから見ればいたらぬことも多かろうが…よしなにたのむぞ」
「殿…」
病の床にあってもひたすら三郎を案じる親心に、堀田の目頭が熱くなった。




 翌十六日の未明、信輝公の容態が急変した。

 小姓に呼ばれ、医師が信輝公の枕元にかけつけたとき、殿様は胸の痛みを訴え冷汗をかいていた。
「これはいかぬな…」
高山藩御医師・日向道伯は眉をしかめ、唇をかんだ。
「昨日、一昨日と安定しておられたのに」
道伯が信輝公の脈をとりながら思案していると、知らせを聞いた江戸家老の武村、留守居の堀田も次の間に現れた。
側用人の青木忠座右衛門がふたりを迎える。
「武村様、堀田様、殿が…ふたたび発作をっ」
「何ということじゃ…、昨夜それがしが御前に参上したときは、ゆるりと薬湯を飲んでおられたに…」
堀田はくやしげに眉を寄せた。

「いかがする…」
三名は顔を見合わせて押し黙った。

 危篤と判断し、即刻、惣一郎や牧の方を御寝所へ呼ぶか。
重臣たちが決断を迫られたとき、襖が静かに開いた。
「ご家老…」
低いつぶやきとともに、医師・道伯が次の間へ入室した。
武村、堀田、青木の頬に緊張が走る。
道伯は息を詰めた三人を前に、
「…恐れながら、此度は殿様のお胸の痛み甚だしく、強い薬を使わねばお命が危ないかと存じます」
「強い薬とは?」
武村が鸚鵡返しに問えば、
「…『狐の手袋』を」
道伯が心無し青ざめた顔で答えた。

 *『狐の手袋』(ジギタリス)江戸時代に渡来した。葉は心臓薬として効能を知られていたが、成分は青酸である。よって使用量には十分な注意が必要で、匙加減を間違うと命取りとなる。

 気の小さい武村は頬を強張らせ、
「左様な物を使わずとも、ほ、他に手立てはないのか?!」
道伯に迫った。
「…今、江戸で手に入る薬の中で、あれに勝る心の臓の薬はありませぬ」
道伯は腹をくくった様子で首を垂れた。
「一刻を争います…どうぞ、御判断を」

 三人は言葉を失い、呼吸も忘れたように押し黙っていた。

 『狐の手袋』を使わねば、殿様はこのままはかなくなるやもしれぬ。しかし、失敗したときは誰が責任を負う? 

「道伯殿…どうぞお使いくだされ」
声を発したのは堀田又座右門だった。
「ま、又左殿?」
思わず腰を浮かせた武村と青木に向い、堀田は居住まいを正した。
「武村様を差し置いて僭越ではござりますが、いざというときは、それがしが皺腹かっさばいて、惣一郎様、牧の方様にお詫び申しあげまする」  

「なれどっ…」
武村と青木がほぼ同時に呻いた。
「御医師殿、はよう」
堀田は決然と瞳をあげ、道伯に命じた。




 医師・日向道伯の命がけの進言が奏効し、信輝公は一命を取りとめた。三人の重臣たちと後から呼ばれた右近は次の間に控え、まんじりともせずに朝を迎えた。

 御寝所の襖があき、道伯が顔をのぞかせた。
「御脈が平常に戻られました…」

「おおっ」
「まことか?!」

 三人の重臣は口々に叫び、手を握りあって喜んだ。惣一郎に知らせるか否か、じりじりしていた右近もようやく安堵の息をもらした。

「やれやれ…儂の首の皮もこれでつながったわい…」
堀田は文字どおり肩で大きな息をついた。
「堀田様…よう御決断なされましたな」
青木から事のてん末を聞いた右近は、あらためて堀田の胆力に感じ入った。

 右近と三人の重臣は、襖の影からそっと信輝公の様子を伺い、口々に「ようござった」と洩らしながら退出した。武村と堀田を見送った後、右近は青木に挨拶して次の間を出ていこうとしたが、
「青木様…」
ふと右近の胸に疑問が湧き、廊下の手前で青木を振り返った。
右近はふたたび障子戸の際で端座すると、
「夜中に殿の容態が急変したとき、お側には誰が?」
「当番の小姓と道伯殿の助手が宿直しておったはずだが?」
「助手…?」
右近が御寝所に呼ばれた時には、殿様の枕頭には道伯と小姓ひとりだけだった。
「青木殿が急ぎ参られたとき、その助手とやらは?」
「……はて」
青木は思案顔で顎をなでさすった。
「動転しておったゆえ、気にもとめなんだが…」

「道伯殿と入れ代わりに下がったのだろうか」
青木は首をひねり、
「右近殿、それが何か?」

「いえ…」
胸の裡に湧いた黒い染みのような疑念を隠し、右近は小さく頭を振った。
ふたたび青木む向って首を垂れ、
「では、それがしも少々仮眠をとってまいります」
「…御苦労でござった」
訝しげな表情を残しながらも、青木は笑顔で右近を見送った。




 心の臓の病について、右近はまったく知識がないわけではない。母、結衣も慢性の疾患を抱えており、自分もその血を引いたか、精神的な疲労がたまると一気に体調を崩すこともある。

 殿様は最初の発作以来、薬湯を飲み続け、ゆるりとではあるが症状は改善しつつあった。

 此度の発作は右近としては少々解せないのだ。

(…助手が薬の調合を過ったか、もしや…誰ぞが口を滑らして例の碓氷峠の噂を殿の耳に?)

 考えすぎかもしれぬ。

 なれど、宿直の助手の姿が見えぬことが右近の胸にひっかかった。

(昨夜のことを当番小姓に尋ねておかねば…)

 右近は押し寄せる疲労感と戦いながら、早朝の人気のない表御殿の廊下をいく。心にかかることは多々あれど、今は少し身体を休めねば次の行動に移れぬと思った。

「留守居役とは想像以上の激務じゃな…。私も人参でも飲まねば身がもたぬやもしれぬ…」

 右近は冗談混じりに呟き、仮眠をとるべく長屋へ向って急いだ。


つづく




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背景は「空色地図」さんからお借りしています。


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